ポーランド・チェコの旅で出会った人たち  
Charming and unforgettable people I met in Poland, Czech and Austria


親身になってくれたおばあさん (ポーランド・ワルシャワ−ソハチェフ)
An unforgettable old woman on the train from Warsaw

 
 おばあさんは明らかに齢七十を過ぎていた。背筋はすっと伸びて毅然としていて、「永年勤めた教師を引退し、年金で慎ましく暮らしている」ような雰囲気があった。彼女は、何かの難しそうな説明書か解説書様のものを、はじめから丁寧に読み、大事な所に線を引きメモをしていた。だから、話しかけるのが憚られた。いくら「外国の列車は慣れている」と言っても、この旅で初めてポーランドの列車に乗るので、何か不安があった。観光書には降りる駅名も書いてあるし、そこからの行き方も書いてある。それでも何か尋ねたい気分であった。

 やっと彼女が顔を上げたとき、英語で話しかけてみた。しかし、あまり通じている感じではなかった。そこで、手帳に書いてあるショパンの名前、生家のある村名、下りる駅名などを見せた。彼女は私の聞きたいことが分かったようで、ニコリとして、さかんにポーランド語で説明をした。今度は私が分からない顔をすると、「大丈夫、私もその駅で降りるのよ」という仕草をして見せた。私も嬉しくなって、降りる駅の「ソハチェフ」の名を繰り返した。そうすると、うんうんと肯く。時計を指さすと、「まだまだ1時間はあるからね」という感じの受け答えをした。それからまた彼女は「仕事」に戻った。私も一安心で景色を見始めた。

 私が外の景色を何とはなく眺めていたとき、突然彼女が「もうすぐ降りますよ」というようなことを言った。駅に着くと、やはり彼女は一緒に降りてきて、「私について来い」という仕草をした。ついてゆくと、駅舎に入り切符売り場の前で、「帰りにここでスタンプを押してもらうのよ」と言ったらしかった。列車のなかで、パスのことで私が車掌と話しているのを、それとなく聞いていたらしい。

 駅の外へ出たので、私が「Thank you・・・」と言いかけると、「まだまだよ、ついておいで」のジェスチャーとともに、先に立って200m先のバス停までスタスタと歩いていった。そこにはすでに20人くらいの人がバスを待っていた。しかし時刻表を見ると、お目当てのバスは先ほど出たばかりで、あと一時間ほどはバスはなかった。私が「ウーン困った」という顔をしていると、「タクシー?」と言う。「イエース、タクシー!」と答えると、彼女はまた来た方にスタスタと歩きだした。そしてタクシー乗り場の手前で私を制し、「ここにいなさい。私が交渉するから・・」という素振りをし、運転手と交渉を始めた。そして、「おいでなさい。運転手は25ズオッティと言っているけど、いいですか?」という感じで私に話しかけた。「25」の数字だけたどたどしい英語で言った。わたしはそれが高いのか、安いのか相場が分からなかったが、「このおばあさんが言うのだから間違いはなかろう」と思い、そのタクシーに乗ることにした。おばあさんはやっと「仕事」がすんだので、「私はもう行くよ、さようなら」と言いながら(言ったと思う)、手を差し出してきた。わたしはお礼を言いながら、彼女の手を両手でしっかり握っていた。そして彼女は振り返りながら、まったく反対の方向へ歩いて行った。動き出したタクシーの中で、私は何となくホノボノしていた。このことだけで、もうこの土地、この村が好きになっていた。ことばがほとんど通じなくても、「人の善意、親切」はしっかりと伝わるのが、よく分かったのである。今でも、彼女の笑顔は忘れない。


                                     (2003/3、ポーランド・ソハチェフにて.Poland)
 


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親切な中年婦人とおばあさん (ポーランド・クラクフ)
A kind woman and a grandmother, Krakaw, Poland

 
 目指す通りが見つからないので、年輩女性の二人連れに訊くことにした。足の悪い老婆ともう高年といってよい婦人は、私が進行方向の前に出てきたものだから、「いったい何事か?」と歩を留めた。「すみません、英語は話されますか?」とムダかも知れないことを訊いた。ところが意外なことに、「少しなら・・」という答えが返ってきた。「映画シンドラーのリストはご存知ですか?あの映画の主人公の工場を探しているのです。」その婦人たちは映画の名は知ってはいたが、その工場がどこにあるのかは知らないらしかった。そこで私は、「地球の歩き方」にある「リポヴァ通り4番地」を言ったが、やはり「知らない」と言う。

 彼女たちは外出から帰宅するところらしかったが、「ついていってあげよう」と言ってくれた。私には嬉しい「申し出」だが、足の悪い老婆を余分に歩かせるのが気の毒で、ホテルの受付嬢が書いてくれた地図を見せて、「方向だけ分かればいいから・・」と断った。それでも彼女たちは、「いいからいいから。こちらのようだね。」と一緒に歩き始めた。

 歩きながら、私は訊いてみた。「どうして英語がお上手なんですか?」彼女、「私はもうだいぶ前に、息子の住んでいるカリフォルニアに住んだことがあるのです。今でも息子はアメリカにいます。」「アメリカに住んでこの国に帰ると、物もないし不自由でしょう?」「でも、私の生まれた国だからね・・。あそこの生活は私に向いていないし・・。」このくらいの歳になると、「物の豊かさよりも心の安寧」を願うのだろう。いずこの国でも、同じである。

 そう言う話をしていても、彼女は足の悪い老婆を気遣っている。老婆の歳は85歳だと、彼女は言った。老婆は英語が分からないらしく、私との会話の内容は彼女が時々簡単に伝えていた。「リポヴァ、リポヴァ」と繰り返していた彼女は、道脇にある「新聞・雑誌スタンド」のオジさんに訊いた。「オー、リポヴァかい。真っ直ぐ行って、あのガードを越えたら左だよ。」(と言ったようだった。)

 歩き始めてから、かれこれ1km以上は歩いていた。ガードを越えると、道は二股に別れていた。しかし左の道も「リポヴァ通り」ではなかった。しかし、道の横の空き地に、「***自動車修理工場、リポヴァ4-6」と書かれ、矢印のある看板があった。二人はまた「そちらへ行きましょう」という雰囲気だったが、私は自宅と違う方向だろうし、何より老婆の足が気になっていた。「もう少しだろうから、一人で行けます。ここまでありがとう。おばあさん、どうぞお元気で。」と言った。

 すると、中年婦人は私に手を差し伸べた。私は慌てて手を差し出し、握手をした。「お家はどちらですか?」彼女はまったく違う方向を指した。「本当にありがとう。長く歩かせてゴメンナサイ。」お婆さんは意味が分かっていたのかどうか、「いいのよ」という素振りをした。中年婦人はニッコリと会釈すると、お婆さんを抱えるように反対の方に歩き始めた。私はその背中に向かって、何度も「ありがとう」を繰り返した。
    
                                      (2003/3、ポーランド・クラクフにて.Poland)




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ホテル受付嬢カトリンのこと 
(ポーランド・クラクフ)
Hotel receptionists in Krakaw, Poland

 
 年の頃なら三十路をやや過ぎた感じの、小柄で赤毛の「受付嬢」カトリンは、英語をかなり流暢に話した。この国で英語を問題なくしゃべるのは、航空会社、ホテル関係の人ばかりで、タクシー運転手、鉄道員、バス運転手、警官などはまず話せないか、またはぎこちない。荷物を置いて市内観光に出かける前に、カトリンに観光情報を訊きまくった。彼女は嫌な顔一つせず、地図で映画「シンドラーのリスト」の工場の位置やユダヤ博物館などを調べ、テキパキと教えてくれた。こちらの質問にも的確に答えてくれる。仕事ぶりはもう「中堅」である。

 半日かけた市内観光から帰ったときも、まだ彼女はカウンターに居た。客も全然居なくて手持ち無沙汰のようだったので、話しをしてみた。私「英語が上手だけれど、何処で習ったの?」彼女は、「高校をすませてから、観光専門学校に行きました。そこで英語やホテル実務や観光の専門知識を習いました」と言った。年齢からいうと、彼女が高卒の頃はこの国はまだ「社会主義」だったはずだ。そうすると、外国語は学校でも社会でもロシア語が主流だっただろう。当時は英語を学ぶ者はきっと少なかったに違いない。

 彼女はハズバンドと子どもが居るという。家には古いコンピューターはあるが、まだデジカメはないらしい。まだデジカメは高いのだそうだ。私のソニー製を見て、羨ましそうにしている。此処でもソニーは売ってはいるが、特に高いという。ソニーに限らず、日本製電気製品はワルシャワの店頭にあったが、円換算で結構な値段であった。彼らの年収からすると、さらに高くなる。彼女は、「ふつうの人で月収はドル換算約300ドルすこし・・」と言った。これだと、日本製デジカメは、彼らの月収の1ヶ月分かそれ以上になる。

 話は「今日の市内観光」に変わった。カトリンは「ところで目的の場所に行けましたか?」と訊く。私は簡単に報告をした。「親切な老女」の話もした。私は「この町はすばらしい。何度も来たいなあ。でも一つだけ、ワルシャワと同じように、犬の糞が多すぎる。折角の印象が悪くなる。」と言った。彼女は「そうなのよ。ここの人たちはそういうマナーや責任感はないのよ。」と自分も外国人のような言い方をした。私「日本や西ヨーロッパには<飼い犬に対する法律>があるけど・・」彼女「そんなものはないわ。それにここの政府は、完全に観光開発の意識がないし、法律も遅れている。だいたい外国から観光客を呼んで、金を得る−と言う発想そのものがない・・。」と手厳しい。こういう仕事をやっていると、政府の「前近代的体質」がよく見えるらしい。しばらくは、そういう「政府批判」が続いた。社会主義経済から市場経済に変わり、これから「EU」に加入しようかという時代になっても、政治家はなかなか変われないらしい。

 そうこうしていると、さらに若いレセプショニスト、ビアンカが交代でやって来た。彼女はさらに英語が上手かった。そうしてカトリンは帰宅した。私は今度はビアンカと話し出した。
                                       (2003/3、ポーランド・クラクフにて.Poland)





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むかし強制収容所に入れられた老人とその妻
 (ポーランド・クラクフ−オシフィエンチム)
The old Polish man who was imprisoned in German"Heidelberg concentration camp"during WW2

 
 その老夫婦は、通路を挟んで私とは反対側に座っていた。お婆さんの方は、お爺さんよりやや年下でしっかりしてそして話し好きのようで、おじいさんにいろいろ話しかけていた。お爺さんは見た目は齢八十は越えていた。(後に77歳と判明したが・・)老人としては背は高く、むかしはハンサムだっただろう顔つきであるが、歳のせいかすべてに反応がやや緩やかである。どこの国でもこのくらいの歳になると、遙かにお婆さんの方が元気がよいのが通例だ。おじいさんはお婆さんの問いかけに「ああ」とか「ウン」という感じで受け答えをしていた。

 お婆さんと目があったのをきっかけに訊ねてみた。実はその列車がオシフィエンチム(旧ドイツ名アウシュヴィッツ)行きだというのは知ってはいたのだが、私は窓際に大きな立派なバナナが数本入った袋を置いていた老人たちに関心があったのだ。
 「すみません、この列車はオシフィエンチム行きですか?」と英語で訊ねた。
私の土地名の発音が悪かったのだろうか、二人はキョトンとしている。そこで私は、
 「アウシュヴィッツ、アウシュヴィッツ、アウシュヴィッツ」と三回少しずつ発音を変えながら繰り返した。
そうしたらやっと分かったようで、「ダーダー」と肯く。私たちも同じところだよ−とにっこり身振りでして見せる。
私は不躾かなとは思ったが、「私はジャパニーズ、ヤパーナー、ヤポンスキーだが、あなた方はジューイッシュ?、ジューデン?ユーダ?」と訊いてみた。
二人は声を合わせ、「ニエッ、ポルスキ」と言った。
ここで私は「待ってました」とばかりに席を移動し、二人の横に座った。ここから話が始まった。

 話の中で分かったことは、まずお爺さんは当然ポーランド語は話し、あとはロシア語と少しのドイツ語は話すが、英語はほとんどダメということだった。お婆さんはポーランド語にロシア語と少しばかり英語を話した。私はもちろんポーランド語とロシア語はまったくダメ、英語とあとは少しのドイツ語である。こうなると、三人の共通言語は英語とドイツ語しかない。しかもやっと意思疎通ができる程度だ。分からなければ何度も繰り返す。あとは表情とジェスチャーが残るのみであった。しかしこういうケースでは、これらをバカにはできなくなるのだ。

 こうして、普通の会話の三倍くらい時間をかけて、以下のことが分かってきた。しかしこれらは、さらに私の想像力が付け加わった産物であることを、前もってお断りしておく。
・老夫婦は私と同じ目的地(オシフィエンチム=アウシュヴィッツ)である。
・二人ともポーランド国籍で、ユダヤ系ではない。
  (筆者注:当時ポーランド人はユダヤ人よりも被連行数が多かった)
・息子夫婦がその町にいる、3人の孫に会いに行くところだ。
・大きな立派なバナナは孫への土産である。
  (この国ではまだバナナが土産になるらしい。日本でも筆者が子どもの時はバナナは高かった。)
ここまではよくある話だが、ここから先は私の予想を外れていたのだ。

 その老人はなんと「ナチの収容所」の経験者であった。彼が13歳の時に戦争が始まり、ドイツ軍はポーランドを占領した。その後で、彼はドイツ軍に拘留され、ドイツ国内ハイデルベルクともうひとつの収容所で「強制労働」をさせられた。少年にとって、毎日の労働は大変きつく、また育ち盛りの体には一日のパンの配給400gは少なすぎた。ドイツ兵に反抗した友人は、すぐさまその場で射殺された。終戦までそういう日が続いた。・・・・今アメリカが始めようとしている「戦争」には反対だ。命は大切だ。彼は話の最後につけ加えた。

 こういう話を彼は淡々と、しかし懸命にしてくれた。気がつくと、一時間余はアッという間に経っていた。私は聞くのに夢中で、途中の景色はまったく見ていなかった。彼はポーランド語で話し、老妻がそれを分かりにくい英語に訳して私に伝えた。私が少しだけドイツ語が話せるのが分かってからは、ドイツ語も少し入ったが、彼にとっては「嫌な時代」のことばのようで、あまり巧くはなく語彙数も少なかった。

 駅に着いたとき、彼は立ち上がって手を差し出してきた。私は"Please live long"(いつまでもお元気で)と言ったが、彼は分からなかった。そこでドイツ語でも同じことを言ったが、やはり分からなかった。身振りから老婆がやっと分かり、ポーランド語で伝えた。彼はニッコリして、手を握り返した。私は辛い思いをしてきた老人の少しでもの長生きを、祈らずにはいられなかった。

                                 (2003/3、ポーランド・クラクフにて.Poland)




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日本語を喋る若いチェコ女性 (チェコ・オストラヴァ−ブルノ)
A czech student who speaks Japanese fluently.

 
 「アナタハニホンカラキマシタカ?」
訛りはあったが、それは確かに「日本語」だった。顔を上げると、向かい側の席に大柄の目の大きな若い女性がいた。私が最初に座った車両は行き先が違っていた。それで、隣り合わせた男子学生と一緒に移動して、前方車両のコンパートメントに入って、しばらくしてのことだった。その女性は、私が男子学生と同一行動を取っていたのを見ていたらしく、彼に私のことを二言三言訊いたのだろう。私は一瞬面食らったが、すぐに反応した。日本を出てから5日目にして聞く初めての日本語だった。

 「はい、日本からポーランドを通ってチェコに来ました。」「日本語上手ですね。どこで習ったのですか?」
 「この近くのオロモウツの大学です。私は大学生です。」 

 彼女は大学4年生、英語と日本語を専攻していると言った。それにしても、違う言語系の取り合わせが奇妙だ。理由を聞くと、「本当は英語なのだがもう一つの言語が<必修>なので、何となく面白そうな東洋の言葉にしました。」のだそうだ。アルファベットを使う国民が、ただ「何となく面白そう」というだけで、「ヘンナ字を使う言葉」を選ぶところが面白い。大学には日本人の先生もいて、日本語の講座がいくつもあるという。そうしてみれば、当地では少し珍しい日本人の私は、さしずめ「日本語会話演習」の相手なのだろうか。

 彼女は表情が大きく、声も明瞭で大変分かりやすい。このあと、彼女は意外なことを言った。「私の友だちは日本人です。」訊くと「タダの友だち」ではなかった。ボーイフレンドである。
 
 「彼は富山県シュッシンで、今はロンドンです。」
 「私は日本語を勉強したいので、日本に行きました。彼と知り(会い)ました」
 「彼のトヤマの家はイナカで、私はずっと
コメの中に住んでいました。」
 「ウーン、コメ?ああ、
田んぼの中では・・?」
 「そうです。それでえす。」
 「ホームステイをしたんだね?」
 「そうでえす」
 「富山はどうですか?好きですか?」
 「富山はたいへんたいへんイナカ。何もありません。」
 「ああ、それから富山弁ワカリマセン。スコシヘン。わたし、大阪弁の方が好きです。」

 
大阪弁も「スコシヘン」だが、それにしても、ヨーロッパの人がアジア系言語を習うだけでも大変なのに、日本人でさえよく分からない「富山弁」では、「日本語演習」にはなりにくいであろう。言葉のためだけだったら、「共通語」を話すアナウンサーは別として、せめて東京辺の男をゲットすればいいものを・・。
 
 「彼は貴方のために、できるだけ<共通語>を使ってくれますか?」
 「いいえ。ぜえんぶ富山弁です。だから、よく分からないことあります。」
 
 
私は「やや訛りのある日本語を話すチェコ女性」と「富山弁丸出しの日本人の男」の取り合わせを想像して、何となく微笑んでしまっていた。やりとりをそばで聞いていたら、可笑しいかも知れない。最初は、意志疎通にはかなり時間がかかったであろう。それでも、言葉の端々から彼女が彼を好いている様子は感じられた。また「ロンドン留学中の彼に会いに行くとも言った。やはり言葉より、フィーリング、相性なのだろう。

 彼女は日本に行っていたので、今年は「5年生」になるという。日本語はやはり難しいので、これからは主専攻の英語に力を入れるそうだ。「社会主義の呪縛」から解放され、ロシア語が地盤沈下するなかで、EUに参加をするチェコでも、やはり「共通語としての英語」がますます注目を浴びてきている。やはり英語ができなくては、就職も覚束ないかも知れない。若い人たちは、そういう「時代の流れ」を着実に読んでいるのであろうか。

 彼女は英語の方もかなりきれいな発音で、これから伸ばせば十分やれる感じであった。そうこうしている間に、また車掌が通りかかり、「ブルノ行きはこの車両ではない。もっと前だ。」と言った。彼女に「さよなら」をして、私と件の男子学生はまたもや狭い通路を前へ前へ進んでいった。




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以下さらにつづく



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生物学者のカリン・ヴェーバー(チェコ・ブルノ−プラハ)
Ms.Karin W., a biologist from Vienna, on the train from Brno to Prague

 
 インターシティの「ドヴォルジャック号」は結構空いていたが、私はわざわざ人のいるそのコンパートメントに入った。若い女性は齢三十路の半ばだろうか。賢そうなきびきびした感じの人である。服はキチンとしていて、派手でなくさっぱりとしている。派手なアクセサリーもない。分厚い本を読んでいた。目があったので、話しかけてみた。このくらいの年格好の女性は、英語ができる人が多いのだ。

「私は日本人ですが、チェコの方ですか?」
「いいえ、ウィーンから来ました」


 案の定、流暢な英語が帰ってきた。

「名前はカリン・ウェーバーです」(注:英語式発音)
「では本当はカリン・ヴェーバーなんですね?あの作曲家と同じですね?」(注:ドイツ式発音)「この名前はウィーンの辺の名前なんですか?」
「いいえ、私はドイツ人で生まれはミュンヘンです。この名前はいくらでもある名前です。」


 彼女の仕事は「バイオロジスト(生物学者)」だという。この国のある会社との「ジョイント・ヴェンチャー(合弁)」で、昨年の8月以来10回以上も出張できているという。あまり度々なので、数ヶ月中にこちらに事務所を持つ予定だという。それにしても、生物学者が中心的に関わる「合弁事業」とは何だろうか。初対面の人に根ほり葉ほりは訊けないので、それはそのままにしておいた。

 これらの話を簡単に言うと、「ドイツ人が隣のオーストリアに住んで仕事をし、また隣のチェコの合弁へ出張できている。」ということなのだ。これは日本人から見るとすごいことだが、ヨーロッパに住む人間から言うと、「国境」なんて物は今となっては「大した問題」ではない。とくにEUになってからは、パスポートもまったく不要で、IDカードだけで十分だ。こんな人は「掃いて捨てるほどいる」。家と職場が違う国なんてこともままある話だ。

「ところで、会議の時は何語でするんですか?」
「全部英語です」
「不自由はありませんか?」
「よほど込み入ったことでなければ、問題はありません。」


 ドイツ人が英語で話し、チェコ人がまた英語で質問する。会議中は全員がほとんど英語である。ドイツ語は英語と同じ系列の言葉だから問題はない。ドイツの中高年はともかく、若い人たちは英語が上手いし流暢である。とても普通の日本人には勝てそうもない。チェコ人の方はロシア語と同じスラブ語族だから、ドイツ人よりは英語が苦手であろうが、こういう所に出る人たちには問題はないのだろう。

 ヨーロッパは小さい国ばかりでも、これまでは「ことばのテリトリー」がはっきりしていたが、EUになってからはドイツ人でもフランス人でも英語を話すようになっている。もっとも、北欧の人たちはハナから英語が上手い。英語を「共通語」としなければ、同じ「国民(今はまだEUという連合体だが)」として、意思疎通ができない。これから参加国の数が増えるにつれて、ますますその傾向が強まるであろう。

 ひとしきり話がすむと、今度は彼女の方が私に訊いてきた。

「ところで、貴方は一人で旅行しているの?」
「ええ。日本からウィーンへ来て、ポーランドへ行き、ワルシャワから列車でアウシュヴィッツへ行きました。それからチェコに入って昨日はブルノ観光で、今日はピルゼンへ行く予定です。そのあとプラハに帰って、ウィーンへ戻ってグラーツに行き、それから日本です。」


 彼女はこんなに長くヨーロッパ旅行している「日本人の職業」に関心があったらしかった。

「仕事は何をしているんですか?」
「早期退職です。いまは旅行することと、もうひとつは分かるかなあ?英語で”House husband"って言うんですが・・。」
「私、それって大好き!素敵です。ヨーロッパでもありますよ。」

と、笑いながら即座に言う。変なところで「共感」してくれた。なるほど、「働く女性」から言うと「男性の家事労働」はチャーミングなのだろう。ということは、「役割分担」が進んでいるドイツ系でも、まだ「当たり前」ではないのかも知れない。

「さて、私は日本で自分のウェブサイトを持っています。それは旅をテーマにしているが、貴女のことを載せても良いですか?」
「え、ウェブサイトを持っているの?私もそれ見たいわ。」
「ありがとう。しかし、フォントが日本語だから、貴女には読めないですよ。でも写真はJPEGだから、誰でも見られると思いますが・・。」


 こうしてお互いのメール・アドレスを交換した。話が一段落したので、彼女は手を洗いに部屋を出て行った。ふと彼女の席に目をやると、なんとハンドバッグがむきだしで置いてあるではないか!。これは危ない!。旅行案内書にも「駅構内や車内での犯罪が増えている。とくに置き引き、スリには注意しましょう。」と書かれている。私は様々な「経験」をしているので、旅行中はとくに気をつけている。こういうケースでも、貴重品はかならず携行している。彼女は「育ちが良い」のか、「人がいい」のか、そういう経験がないのか、大変あっけらかんとしている。気にしていないのだ。私がもし「悪い人」なら、持っていってしまうだろう。私は彼女が脱いだ上着をそっとバッグに掛けた。彼女が帰ってきたので、「気をつけた方が良い」という話しをした。「ウンウン」と彼女は肯いていた。

 その後、彼女は「仕事モード」に入った。分厚いファイルを出してきて、読んでから記入している。会議の手順の確認だろう。私もこの文を書き始めた。しばらくして、お互いの目があった。
「いまウェブサイトの原稿を書いている。君のことだよ。」
「?・・・」
「日本語だが心配しなくても良いですよ。良いことしか書かないからね。」
「それならいいけど・・。(I hope so.)」
と微笑んだ。
このさわやかなカリン嬢とプラハ・ホレショヴィッツェ駅頭で握手をして別れた。あの後の会議はうまくいったかしらん?
                                     
                                    (2003/3、チェコ・プラハにて.Czech)  
 
 




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詐欺師の「車掌」 (チェコ・プラハ中央駅)
A man posing as conductor at Prague Central Railway station
He is an only exception.

 
 プラハ中央駅に停まっている列車は440列車、12:30発のシェブ行きであった。重い荷物を「ドッコイショ」とばかりに載せて、デッキに這い上がった。日本と違ってホームはかなり下にあるのだ。人気のないコンパートメントの中で、中年婦人が一人座っているそれに入って、荷物を棚に上げていた。

 そこに制帽をかぶった赤ら顔で頬ヒゲをはやした小太りの男が通りかかった。俳優のオーソン・ウェルズの従兄弟みたいなその男はチラッとこちらを見て、コンパートメントに入ってきた。通路側にいる婦人に二言三言話している。私はまた列車を間違えたくなかったので、切符(パス)を出して「ピルゼン」と言った。彼は切符をしげしげ見てから、「荷物をまとめてついてこい」というジェスチャーをした。私は「あなたは車掌か?」と英語で訊いた。彼は肯いた。私は「途中で車両を切り離すのかな?」と思い、再び荷物を持って彼の後についていった。

 彼は空いたコンパートメントを探しながら、どんどん先に進んでいった。しかし彼が入った部屋は、なんと同じ車両の端だった。私はこのときになって「あれっ?」と思った。「行き先が違うのなら、別の車両のはずだが・・・。」彼は先に入って、後から入った私の荷物をもって棚の上に上げた。「サンキュー」と言いながら、彼が返してきた切符を受け取った。そのあとで彼はおかしな行動に出た。通路側にあるカーテンを全部閉めだしたのだ。「ン?」

 そしてその後の彼の言葉に一瞬我が耳を疑った。彼は手を出して、「マネー!」と言ったのだ。「ホワット?!」彼は身振りで私の荷物を棚に上げる恰好をした。「棚に上げる仕事をした」と言っているようだった。棚に上げたのはほんの一瞬、頼んでもいないし、だいたい荷物を運んだのは私自身だ。「どうして?なぜ?!」大きな体の彼が出口に立ちふさがって、こちらに向かって「金をくれ」と言っている。一瞬ためらったが、大きな声を出すとだれかに聞こえると思って、さらに大きな声で「どうして金を払わないといけないのか、わからない!!」と身構えて叫んだ。

 彼は私の大きな声でソワソワし出した。通路の前と後ろの方を見たりしている。だれかが来るのを恐れているみたいだった。そこで私はさらに大きな声で、「私は金は払わない!なぜ払わないといけないのだ!なぜだ?」彼は「もういいもういい」という身振りをした。大きな体を屈めだした。「OK、ノーマネー、OK」と言いながら、コソコソ去っていった。私は急に心臓がドキドキし、体の力が抜けてきた。しかし、あんなことで金を払う人間がいるのだろうか。彼はあんなことをして生活しているのだろうか?それとも、ポーターが居直ったのだろうか?そういえば案内書にも、「プラハ中央駅は注意しょう。・・」と書いてあった。後でやって来た「本当の車掌」は、もっとキチンとした服装でもっとキリッとした態度であった。

                                       (2003/3、チェコ・プラハにて.Czech)
 


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キリストそっくりの教師イヴォ
A Czech primary-school teacher just like"Jesus Christ"
(チャスラフスカが不人気なわけ)

(左・グレコ・「祈るキリスト」・プラハ国立美術館蔵・部分)

 
 プラハ中央駅で買ったサンドイッチとビールの昼食を終えたとき、顔面髭面の背の高い男が私の客室に入ってきた。その顔は例えて言うならば、グレコの描いた若いころのキリスト像そっくりであった。彼の荷物の大きさも半端ではなかった。剣道の竹刀が入ったような長い袋もあった。私はその袋の中身に興味があったので、声を掛けてみた。袋の中身は、オーストラリア・アボリジニの楽器、ディジュリドゥだということが分かった。ここから話が始まった。彼は上手くはないが、英語をかなり話した。

「その楽器はどこで手に入れたのですか?」
「此処で買いました。実はこれはオーストラリア製ではなく、ヨーロッパ製なんです。
しかも木製ではなく、竹で出来ています。」

 筆者はオーストラリアに行ったとき、この楽器は何度も演奏するのを目にしたことがある。何度も買って習おうかと思ったことがあった。しかしあまりにも大きいので結局買えずにいた。その話をしていたら、彼はその楽器の故郷、オーストラリアに行ったことはないと言った。初めてこの楽器の演奏を聞いたとき、彼はこれこそが「自分が演奏する楽器」だと悟ったらしい。その素朴な音と響きが、彼の心を打ったのだという。ただ、オーストラリアとかアボリジニとかにはあまり関心はなく、「表現の手段」としてこの楽器を使っているらしかった。彼はこれで演奏を行い、仲間とコンサートを開いているという。どうも「セミ・プロ」のようだった。

「この楽器の演奏で、生活しているのですか?」
「いや、これでは全く生活は出来ない。だから、職業を持っています。」
「本当は演奏活動だけでやりたいのだが、生活のために教師をしています。」

 驚いたことに、見かけとは異なり彼は小学校の先生だった。授業でも子どもたちのリコーダーと一緒に演奏もするという。私は、髭面の「キリスト風」の男が子どもと一緒に演奏する光景を想像していた。何となく「いい感じだ」と思って訊いてみた。

「子どもたちは、この楽器に関心がありますか?」
「彼らはオーストラリアのことなどよく知らないので、楽器が大きいこと以外では特に人気があるという訳ではありません。」
「コンサートはいつするのですか?」
「授業のない夜や休みにするのです。」
「学校の仕事は楽しいですか?」
「学校の仕事は煩わしいことがあって、実はそんなに好きということはありません。プロでやってゆけるようになったら、教師は辞めるつもりです。」


 それはそうだろう。髭はある意味では、「精神の自由性の象徴」である。ずっと以前、アメリカの「ヒッピー」たちは、みんな髭を生やしていたことがあった。あの「ボヘミアン」という日本で知られる単語も、実はこの国で起こったことばである。彼のような自由な精神の音楽家は、学校の「煩雑な仕事」には向かないかも知れない。私には、彼がなんとなく「要領の悪い教師」のように思えた。ただ、子どもたちは可愛くて好きであると言った。

 ここで話題が変わった。私は少し気になっていることについて、訊ねてみた。あの先日のカリンに訊いたとき、彼女は曖昧な笑いをしていただけだった。それがずっと頭にあった。

 「日本ではチェコというと、1964年の東京オリンピックで活躍した、女子体操のベラ・チャスラフスカがいますね。彼女は日本で大変人気があって、未だに覚えている人がいます。彼女は美人でスタイルも良くて、年輩者には今もファンがいます。そして、その後「プラハの春」事件で、ソ連の侵入に反対した文化人の一人としても知られています。ところが先日、私がこの国である人に訊いたら、彼女は笑って答えませんでした。「あまり評判が良くない」と言いましたが、何か理由があるのでしょうか?ふつうだったら、「国家の英雄」と思うのですが・・・・。」

「彼女がチャーミングで、実績のある人であることは知っているし、私も個人的には嫌いではない・・、しかし・・・」

 ここで彼は口ごもった。少し言いにくそうだった。

「彼女は当然いまでも大変なステイタスを持っているし、大変な有名人です。ところが彼女には息子がいて、これが評判が良くなのです。レイプとか薬とかいろいろ事件を起こして、有罪の判決を受けました。ところが、彼女が頼んだかどうかは分からないのですが、大統領が息子に「恩赦」を与えてしまいました。それが大変な問題になったのです。それが元で、彼女の評判が落ちているのです。」

 私はその話を聞いていて、「どっかで聞いたことがある話だな。」と思った。「そうだ、日本だ!」・・細かく言うと話は少し違うが、日本の大女優、MやOの「できの悪い」息子が、やはりこんな法に触れるようなことをした。親は有名人で忙しいから、金や物で「家庭教育やしつけ」を誤魔化してきた。その結果、「有名人二世」の犯罪の多発なのである。子どもには、自分は「有名人の子」という慢心もあったであろう。また「有名人の二世」をチヤホヤする日本のマスコミにも、多いに問題がある。

 このチャフラフスカの場合は、彼女が政治家に頼んだかどうかは定かではないが、大統領はきっと「親しい友人」なのであろうと想像出来る。そこはそれ、「以心伝心」「魚心に水心」ということばが日本にもある。世の東西を問わず、ひとの心情や願望は似たようなものだ。こういったことは、国民のみんなが「良くない」とは思っていても、外国人からストレートに訊かれると、やはり言いにくいものなのだろうか。

 話し終えると、彼は外を見ながら「もうすぐ私は降りるから・・。」と言った。「あの町が私の学校がある町だ。よい旅を!」私は話してくれたことにお礼を言いながら、右手を差し出した。




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クラシック好きの老ヨーゼフ (プラハ・チェコ)
Old Josef, a classic enthusiast, Prague

 
 朝の「芸術家の家」一階のティケット売り場には、まだ人の姿はなかった。私はなんとしても、チェコフィル本拠地のここでその演奏を聴きたかった。ずっと以前に岡山でチェコフィルは聴いたことがあったが、オケの演奏はホールとオケが渾然一体となって「音楽」を作るのである。しかも、「ホームグラウンド」である。しばらく待っていると、老人がやってきた。彼は私が売り場が開くのを待っていると思ったのだろう、「ここは10時に開くよ。」と言った。私「チェコフィルが大好きで、日本からコンサートを聴きに来たのです。」すると彼はうれしそうに、「君のようなチェコフィルを愛する日本人がいてうれしい。」と言った。

 彼の名前はヨーゼフ、七十余歳、プラハの人であった。彼は長い間大学の資料館(アーカイヴ)で、多くの文書に埋もれて仕事をしたという。道理で英語もかなり話せるわけである。70歳まで仕事を続けて、今は年金(ペンション)暮らしということだった。私「定年は日本では60歳ですが、なぜ70歳まで働かれたのですか?大変だったでしょう。?」ヨーゼフ「それは年金が少ないからだよ。この国の年金は本当に少ない。まったく生活は楽ではない。日本は老人でも金持ちで、年金をたくさんもらっているらしいな。うらやましいことだ。」彼は東洋の日本のことに関心があり、少し知識があるらしかった。

 私:ところで、コンサートはよく来るのですか?
 老:年金が安いので、毎週というわけにはいかない。
    今日も来月の券を買いに来たのだよ。
 私:私は指揮者カレルアンチェルが大好きですが、むかし彼を聞かれましたか?
 老:アンチェルは4,5回聞いたかな。素敵な演奏だった。感動したよ。
 私:本当にうらやましいです。その頃のオケはいい音がしたのでしょう?
 老:チェコフィルは、昔の方が音は良かった。政治が変わって、
(筆者注;社会主義崩壊)
   国の援助がなくなったから、オーケストラは苦しくなった。
   団員達は給料のいい外国のオーケストラに行ってしまった。
   今、昔の団員はあまり残っていない。特によいプレーヤーはね。
   彼らはヨーロッパや日本のオーケストラにたくさんいるよ。
 私:私が好きな世界のオケは、ウィーンフィルとチェコフィルとドレスデン響なのですが、
   ヨーゼフさんはどう思いますか?
 老:私はやはりウィーンフルがいいと思う。それからベルリンフィルは上手いな。
    あとはシャルル・ミュンシュの指揮でボストン響*を聞いたが、あれは良かった。
    

    筆者注;*ミュンシュのボストン響常任指揮者は1949年〜1962年で、そうとう昔の話である。
           蛇足ながら、小沢征爾を最初にボストンに呼んだのもミュンシュであった。

 そういう話をしていたら、突然戸が開いた。その頃には、私たちの後ろには当日券や先の券を買いにきた人が、十数人もいた。話しをしていてまったく気がつかなかった。ヨーゼフはまず自分の4月の券を買った。私はパンフレットに出ていたその日の夕べのコンサート名を言った。係りの婦人はコンピューターを見ながら、この辺が空いていると指さす。ヨーゼフはそれを見て、「ここでいいのか?」と私に訊く。私が「もっと後ろがいい」と言うと、彼はチェコ語で何やら言っていた。係婦人はディスプレイで確認してそれをこちらに向け。ここも空いていると指さした。そして私は下の券をを買った。できれば、スメタナかドヴォルジャックを聴きたかったが、贅沢言ってはいられない。
3月20日・ドヴォルジャックホール
チェコフィル演奏会ティケット
S席580コルナ(当日売り)
ベートヴェン:交響曲7番
ゾンマー: Vocal Symphony
指揮: オンドレイ・クーカル
チェコ交響合唱団 
 外に出ながら、私は何度も礼を言った。彼が「これからどうするの?」と訊いたので、私は「ヴィシェフラド墓地のドヴォルジャック、スメタナ、カレルアンチェルの墓に行きます。」彼は「アンチェルはカナダのトロントで死んだので、墓はあそこにあるはずだ」という。私は日本を出るとき、「墓を探せ」サイトで確認していたのだが、「このアンチェル・ファンの老人が言うのが正しいのか?」と少し不安になりかけた。

 驚いたことがあった。親切にしてもらった老人に礼状でも出そうかと住所を聞こうとしていたら、何とEメールアドレスがあるという。その上、住所と電話番号まで書いてくれた。さすが大学の史料室勤務だっただけのことはある。70代前半でメールをしているのだ。そこでメールアドレスを交換した。彼は「この国の電話事情は悪く、メールでさえも料金がバカにならないし、速度も遅い。」と言った。現在日本はネット普及率は世界で上位に入るし、「通信速度対コスト比」は世界でトップらしい。まだチェコは、日本のネット初期の感じである。

 「君と同じ電車だ、家が同じ方向だから・・。」と私を電車乗り場に連れて行った。乗ってからは、「私が教えるから、そこで降りなさい。降りたところから高い城(ヴィシェフラド)の城壁が見えるから、それに向かって上がってゆけば、墓地があるのだよ。」などと親切に教えてくれた。やがて「次だよ」と言って、彼は立ち上がって私に握手を求めた。私は強く握り返した。私は去ってゆく電車に手を振っていた。それにしてもいつも思うのは、外国で会う高年者たちが柔和な表情をして他人にとても優しく親切なこと、そして夫婦の仲がいいことである。きっといい人生だったのだろうか−とその度に思わせるのだ。彼らの姿を見て私はいつも、「ああなりたいものだ」−と独り言を言う。

                                      (2003/3、チェコ・プラハにて.Czech)
 


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旅大好き人間、小学校教師「でこ」先生(ウィーン南駅−グラーツ中央駅、オーストリア)
A primary-school teacher, "Deko sensei"on the train from Vienna South Station


 何となく南国風雰囲気のウィーン南駅を出る電車は、08:57発のEC31「カルロ・ゴルドーニ」であった。名前からしていかにもイタリア風だが、実際8時間足らず走ってヴェネチア(ヴェニス)のサンタ・ルチア駅に着く国際列車である。しかし私の今日の目的地グラーツは、10:58に着くBruck am Mur駅でローカル列車に乗り換えるので、2時間しか乗っていられない。

 私はいつも通り「女性のいるコンパートメント」を探していたが、東洋系女性がいる所があったので、早速入っていった。どう見ても日本人らしかったので、「日本の方ですか?」と声をかけた。案の定日本人で、大阪の吹田で小学校教師をしている方だった。今日の目的地は偶然にも、同じ町グラーツだという。私も3年前まで同業であったので、話がし易くすぐにうち解けた。それにしても、「春休み」の真っ最中の今頃よく「出国」できたなあと感心する。私は中学校だったが、年度末で且つ年度初めのこの時期は、転勤や退職の人事異動や学年編成、入学式など新学期の準備の他、3年団なら高校へ送る進学書類の作成・提出などと、「猫の手も借りたい」くらい忙しいものだ。だから旅行もたいていは夏休み、冬休みに行く人が多い。

「よく春休みに出られましたね。中学校だったらものすごく忙しい時期ですが・・。」
「実は大変なんです。本当は忙しいんですが、いろいろやりくりつけて出てきたんです。」


 その顛末を彼女は少し話した。それにしても本人の「やりくり」はともかくとして、まわりの協力がなければやってはいけない。職場はもちろん、とくに家族、ご主人の理解と協力があってのことだろう。ご主人はどんな方かは聞き漏らしたが、きっと優しい理解のある方で、妻を信じ切っておられるのだろう。すばらしい方である。

 この「でこ」先生と話をしていると、「もう旅が好きで好きでたまらない」様子がひしひしと伝わってくる。もう「海外」は17、18回は出ているという彼女は、前に行った国の話になると目が輝いてくる。つぎに行きたい所の話も出る。私の旅情報もよく聞いている。こうして、どんな話題でも話がエンドレスに続いてゆく。私も少し感性が似ているので、彼女が言いたいことが伝わってくるし、共感できるところも多い。

 いちばん驚いたのは、「普通の日本中年女性」の旅行パターンと大いに異なることである。まず行動半径が大変広く行動力があることである。それに始めから見たいものがある。前日も「ユーレイル・イースト・パス」を使って、ウィーンからハンガリーのブダペストまで行って来たという。今日はオーストリア国内で、そしてこのあとは列車に乗って、チェコを回るという。あの世界遺産のチェスキー・クルムロフにも行くらしい。今回私が見送ったところでもある。

 次は「単独行動」が多いことである。ご主人のスケジュールが合えば「同一行動」で、一緒にカリフォルニアをレンタ・カーで回ったりもするという。しかしたとえ一人でも気にせず、計画的、主体的に動けるところがすごい。日本人女性の多くは、ご主人と旅行の時はまったくの「主人まかせ」で、そうでなければ「なかよしオバちゃんグループ」での団体ツアー参加が多い。自分で決め、自分で考え、行動する。本来旅行はこうあるべきだが、なぜか日本の中高年女性は「自立」できていない人が多いのだ。

 三番目は、日本人に多い「ブランド品・買い物旅行」と無縁らしいことである。日本人の外国有名店での「買い漁り」は、見ていて浅ましく醜い感じがする。海外旅行で「物」を残すのではなく、本当はその国を知りそこの人と話をして、「思い出やこころや友情」を残すことが大切なことなのである。(もちろん買い物も否定はしないが・・。)私もそういう考え方なので、大変共感できるのだ。

                              

 こうして、初対面の割には中身のある話ができた。私たちは乗り換えてからも話をしていた。彼女は土地の人とも結構話をするらしい。「言葉が苦手なので・・。」となんども仰っておられたが、彼女ならまったく心配は要らない気がする。こういう話があった。あるホテルにピアノがあったので、許可を得て「幻想即興曲」を弾いたら、大層感心されたという。私も大好きな難しい曲である。周りにいた人の顔が目に浮かぶようである。

 これで彼女の「言葉が流暢」になったら、もうそれは「鬼に金棒」であろう。私たちはあまりに熱心に話していたので、外の景色があまり見られなかったが、それはそれで意義はあった。私のホームページの名前を伝え、グラーツ駅でニッコリ笑って分かれた。彼女の旅はきっと素敵な旅になるであろう。

         *************************************************************** 
帰国後「でこ先生」からメールが来た。「でこ先生」の人柄がよく分かるところもあり、その一部を紹介したい。

覚えていらっしゃるでしょうか?
あの旅行から早4ヶ月近くウィーンからグラーツへの列車の旅でご一緒していただいた一人旅の「現役小学校教師」です。気まぐれな時期に、気まぐれなメールで申し訳ありません。

H.P.見せていただき大変感動しています。すごい作業の積み重ねなのですね。
まったく「す・ご・い」の一言に尽きます。
今後の旅のナビゲーターにさせていただいてよろしいでしょうか?

あなたが、いろいろチェコでの情報を教えてくださったおかげで、プラハに入ってからとてもスムースにぶらつけました。「食事も出ない国際線」、プラハ市内はもちろん、ローカル線でのカルルシュテイン城へは、駅を降りてからのんびりした風景の中、30分ほど山の中への散歩を楽しみ、城内は英語ガイドの案内で回らせてもらいました。

また、チェスキークルムロフへも、4時間以上かかりましたが、ハプニングを楽しみながらも無事にたどり着くことができ、古都の町歩きをたっぷり楽しんできました。

あなたのおっしゃったとおり、チェコの列車の車掌さんの言うことは、ほんとに当てにならないんですね。プラハ本駅で、これがチェスケブジェヨヴィッツェ行きの列車なのか乗車前も、パスチェックの時にも何度か確かめその都度、「そうだ」と答えたくせに、かなり走ってからある駅に来ると急にバタバタとやってきて
「この列車はチェスケブジェヨヴィッツェには行かない、降りろ」
と言うのです、たぶんチェコ語で。わけわからず、ポカンとしていると、
「チェインジ!!」と今度は大声で。こういうことだったのですね!

あわてて降りたらおりたで、別のホームに列車が止まっていたのでこれが乗り換えの列車かと思って、駅員さんに尋ねると「駅の外へ出ろ」との指示、「アウト・ブ〜ス」と。この”ブース”が、バスのことだとは、その時とっさにはわからない・・・

「なんで〜」と???だらけの私を助けてくれたのはたぶん地元の、ちっちゃい男の子連れのパパさんでした。そのパパさんが、「自分も同じところへ行くから一緒においで」と身振りで伝えてくれ、ついて一緒に駅を出て少し歩くと列車ではなく、バスに乗り換えることがやっとわかったのです。

バスに乗り込んで、御礼を言おうとパパさんを捜すと、そのパパさんは、男の子を肩車してバスの前の方を歩いていってしまうところでした。手を振るだけでお別れしてしまうことになったけれど、とっても優しい顔で、手を振ってくれました。10分ほどでバスから降り、また列車に揺られ、チェスケ・・についてからはかわいらしいローカル列車で、クルムロフへ。駅舎をみたときには、ホットしました。

旅先では、いつも地元の人たちの暖かさに助けられ、無事に帰国させてもらっている私です。日頃の忙しさや煩わしさから、つい忘れがちになる心の豊かさをあらためて大切にしなくてはという気持ちを強くして・・・

今度はどちらの方へ出かけられるのでしょうか。いつかまた、偶然に旅先でお会いできたら、またいろいろ教えてくださいね。私も、もうすぐ夏休みで、旅立つ日が待ち遠しい今日この頃です。その前に、大変な仕事が山積みなんですがね。では、お元気で!!(略)
今後も、ご活躍願っています。


(略)・・さ
っそくですが、グラーツに行った日は時計塔のある城山に登り、しばらく、遠くの方まで緑や山に囲まれた川の流れるすてきな町並みを眺めていました。そのあとは、州庁舎の中庭に入ったり王宮やドームなどをまわり、トラムでエンゲルベルク城へ行ったりしましたよ。エンゲルベルク城では、庭園でクジャクが何羽も放し飼いにされていてしばらくクジャク相手に遊んでしまいました。

プラハに移ってからは、3泊しかできないので、他にはチェスケブジェヨヴィッツェに行けただけでした。5日間のパスは、結局4日しか使えず、なんだか損をしたような気がしながら帰国しました。仕事さえ入っていなければ、もっといたかったです・・・。しかし、プラハの3日間のフリーパス券で地下鉄やトラム・バスに乗れるのは、いちいち切符を買う手間が省け、便利でした。


あの旅行は、エアーとホテルをセットにして、「新日本トラベル」という旅行会社が募集していた個人旅行を利用しました。これは日数と宿泊都市が決められていて、その日数で行くのならいいのですが、日数や宿泊地を自由にアレンジしたい場合は、「グローバル個人旅行」が割りと使いやすいです。ホテルの手配を自分でする手間が省けるのでつい使っています。予算やいろ色な条件を伝えれば、その範囲内でいくつかピックアップしてくれるんです。

私も旅行先では、グルメツァーはいっさいなしで、お土産程度の買い物しかしない旅行です。
ホテルも豪華なことより、安全で清潔ならそれで充分!!そのかわり、何回かいろいろな所へ、というかんじです。

この夏は、アルプスが中心になりますが、その次くらいには、ポーランドへ行きたいと思っています。特に、あなたが行かれたアウシュヴィッツは前々から是非に行きたいのです。ツァーでぞろぞろ行きたくはないし、かといって、英語以外の言語の所は一人で行くのは不安だし・・・
でも、チェコは行って来れたし、ポーランドも行けるかな?なんて考えています。

明日から、韓国ですね。どうぞ、お気をつけて行ってきてくださいね。(略)




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以下さらにつづく




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   全日空(ANA)よりのメール(筆者の礼状メールへの返事)
平素よりANAマイレージクラブ会員として弊社並びに
スターアライアンス各社便をご利用頂きましてありがとうございます。
 
去る3月12日、成田空港で対応させて頂きました弊社係員に対し
過分のお言葉を頂きまして大変恐縮に存じますとともに、厚く御礼申し上げます。
早速、当該部門責任者を通じ、頂戴致しましたお言葉とURLを本人に申し伝え、
今後の業務の励みとさせて頂きます。
 
今後とも、より一層快適な空の旅をお届けできますよう努力致して
参りますので、kakehi様の変わらぬご愛顧の程、お願い申し上げます。
 
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