ポーランド・チェコ旅日記(Day3+4)

 第三日目 ショパンの生まれ故郷へ
            (Zelazowa Wola) 




ショパンの生地 ジェラゾヴァヴォラ
      (Zelazowa Wola)への交通

ワルシャワ中央駅のとなりのSrodmiescie駅の3番線から西行きの列車でSochaczew下車(約1時間20分)、駅横のバス停から6番のバスで約20分、Zelazowa Wola下車、進行方向200mくらい先の右手、煉瓦塀に囲まれた公園内にある。
バスは1時間から1時間40分に一本しかない。帰りの時刻を確認のこと。時間がない人は駅前からタクシーをチャーターして、現地で待たせると良い。値段は事前の交渉だが、片道25zが目安か。(2003.3現在)








ショパン(生家)博物館入場券







ショパン(生家)博物館(右筆者)
(Chopin Birth house, Zelazowa Wola)
入場料10z=約300円




・・・・・・・・・ここ以下はワルシャワの写真です・・・・・・・・・



「戦場のピアニスト」の舞台にもなったゲットーの跡(ワルシャワ)








ワルシャワのシンボル・人魚(ワルシャワ・旧市街広場)








現在も修復中のワルシャワ旧市街の城門と濠








「ワルシャワ蜂起慰霊碑」(ワルシャワ)





*「ワルシャワ蜂起」とは?

1944年ナチス占領下のワルシャワ市民たちが、武器を取ってこの町を解放しようとした。これに対して圧倒的に軍事的優位をもつナチスドイツは爆撃、破壊、殺戮、焼き尽くしを繰り返した。市民は2ヶ月間戦い抜いたが、当時川の反対側まで来ていた「ソ連軍」は、蜂起が「反社会主義的性格」を帯びていたことから、これを「見殺し」にした。こうして戦争がすんだときには、20万人の犠牲者をだし、町の8割以上が灰と瓦礫になっていた。このあたりの描写は、最新映画「
戦場のピアニスト」にも一部登場する。




 朝7時過ぎにホテルを出て、文化科学宮殿に近いシルドミエシチェ駅に向かう。ヨーロッパは大都市ではどこでも日本と違って、方面で発駅が違うのでややこしいが、慣れればこれも良い(乗り換えは不便)。ここまでは順調だったが、さて駅の切符売り場のオバサンに日本で買った7日間乗り放題の「ユーレイル・イーストパス」を提示、開始スタンプを頼むと、何やらポーランド語でわめく。身振り手振りでここではないことだけが分かった。やはり観光ガイドにあるように、英語はまったく通じない。「まあ車掌に頼むか」と考え直して、プラットフォームに下りた。

 周りを改めて見回すと、薄汚れた古い駅である。中央駅は古いながらも、まだ多くの商店や地下街らしい物があるが、ここは外国人旅行者も立ち寄らないような、郊外や地方に向かう庶民の駅のようだ。確認のために巡回してきた警官に聞いてみた。ところが彼らも英語は単語しか分からない。そこで女子高校生らしい4,5人に訊くと、何とか英語が通じ、このプラットフォームに目的地行きの列車が来ると分かった。彼女たちは「アジア系のバックパッカー」がめずらしいのだろう。わあわあ言いながら、ジロジロと見られた。

 この旅行初めての列車であるし、観光ガイドに「駅構内や列車内は盗難に注意」という記述があるので、列車内では人の多い車両の、しかも家族連れや老人夫婦、女性連れの席のそばに座ることにした。私が座ったのは、明らかに70歳は過ぎているおばあさんの前であった。彼女は難しそうな何かの説明書に線を引きながら読んでいた。やがて目があったので話しかけた。


 親身になってくれたおばあさん


 普通列車は約一時間二十分でソハチェフ駅に着く。駅前で乗ったタクシーは、10分あまりでゼラゾヴァ村に入る。数百m先に「博物館」はあった。といっても、煉瓦の壁に囲まれたただの古い公園である。正門の鉄門をくぐると、建物はずっと奥にあった。周りは木々の茂った公園の敷地である。数日来の雪が止んではいるが、写真のように雪が残り、曇り空からは太陽さえも見えない。鳥の姿さえ見えない木々の間を、冷たい風が吹き抜ける。

 しかし私の頭のなかでは、彼の練習曲(op.10)のメロディーやピアノ・コンチェルト二番の第三楽章が流れてゆく。「博物館」とは名ばかりの、入り口の表示もない「昔風の民家」が林の中に一軒ぽつんとあった。閉まっていた玄関の戸をおそるおそる開けると、中年婦人が二人いて、「入ってもいいよ」という身振りをする。シーズン外のためか、見学者は私以外に誰もいない。オバサンたちのお喋りが館内に響く。世界のどこでも、オバサンたちはお喋りが好きだ。

 ショパンの生後、ファミリーはすぐにワルシャワに引っ越したので、ここは「生家」といっても、彼がここで育ったわけではない。しかし彼自身大人になって、毎夏のようにここを訪れたという。その後、彼は逃げるようにこの国を去り、パリに出る。たぶん彼の「心のふるさと」は、この地だったのではないだろうか。三月中旬とはいえ、雪もちらつきまだ緑さえない当地だが、春が来ればこのあたりの田園風景は、本当にこころ安らぐであろう。

 彼はパリという大都会にいても、故郷ポーランドのことを忘れたことはなかった。ポロネーズ、マズルカなどの多くの作品を聞けばそれが分かる。ふるさとのメロディーや様式をこんなに取り入れたのは、他にはロシアのチャイコフスキーだけではないだろうか。二人の共通点はもうひとつある。民族的な音楽を世界中の人が分かる共感できる音楽に止揚したことである。

 私は大好きなショパンの生地を見ることができ満足していたが、そんなにのんびりしてはいられなかった。これからまたワルシャワへ帰って、「市内観光」しなければならなかった。しかし200mほど離れたバス停へ行って驚いた。なんとこの辺のバスは、一時間から一時間四十分に一本しかなかった。ここに着いたとき、タクシーの運転手が「帰りも乗るか?同じ金額でいい」といっていたが、バスで帰ろうと「ニエッ」とあっさり断っていた。次のバスは10時55分であと三十分もある。ほんとに何もない田舎は、雪の残る道を歩き回るしか時間をつぶす方法はなかった。そのうえ、風も凍みるくらい冷たかった。

 冷え切った体で駅まで戻って、駅の「CASA=切符売り場」で「スタンプ押して」と出すと、またもや「ダメダメ!」と中年女性係員は冷たく言い放ち、首を振った。案の定、英語はまったく通じない。それでも負けじとジェスチャーと英語で「スタンプくれ!」とやっていると、後ろに並んでいた若い男性が助け船を出してくれた。此処ではめずらしく英語が分かる。そこで簡単に説明すると、私の言い分を伝えてくれた。オバサンはツバが飛ぶほど大きな声でしゃべっている。やがて彼は私に向いてこう言った。「これはここではスタンプが押せないそうだ。ワルシャワ中央駅で押すものらしい。ワルシャワへ帰るんだろ?」もうここでは埒があかない。彼にお礼を言って握手をした。いつも外国の駅で困っていると、かならず英語を話すだれかが助けてくれる。彼らの気持ちが嬉しい。

 11時36分発の普通電車に乗ってしばらくして車掌が回ってきたので、例のティケットを出すと、今度は何も言わず黙って返してくれた。しかしその表情からは、「よくわからん切符だ」というのが読めた。社会主義から「自由経済」になってまだ十年余、この手のパスはまだよく知られていないらしい。ワルシャワ・シルドミエシチェ駅まで一時間二十分乗って、さらに中央駅まで十分かけて歩き、また駅内を探し回って、やっと二階にある「国際線切符売り場」でスタンプを押してもらった。こうしてスタンプ一個押すのに五時間半もかかった。こういうことは西ヨーロッパの鉄道では考えられない。

 さて、ここからが忙しい。日程の関係から「旧市街の観光」が残っている。マリオットホテルでT/Cを現金化した後、まず乗り放題「一日切符」を使って、「ワルシャワ・ゲットー跡」へ向かった。この町の電車はドイツ系の市内電車に似ていて、乗ったらすぐに自分で切符をスタンプ機にかける。それをしないと、「無賃乗車」になる。私が乗った次の停留所で、汚い服を着てバサバサ頭の少女が乗ってきた。手を出して何か甲高い声でぶつぶつ言っている。それがなぜか、独り言のように聞こえる。すぐに「ジプシーの物乞い」だと分かった。前から後ろまで来たが、乗客は誰も相手にせず、次のストップで下りていった。これに限らず、この国は乞食が多いような気がする。

 電車を降りて10分くらい歩くと、公園に出会う。大きな記念碑(左上写真)があるが、敷地内に他に建物はない。そこが「ワルシャワ・ゲットー」の跡である。この国出身のポランスキー監督作品で、2003年度アカデミー監督賞(作品賞は「シカゴ」)をとった「戦場のピアニスト」の舞台になった場所である。しかし見渡しても、映画のような建物はなく、やはりあれはセットということが分かった。それにしても、ここは犬の糞が多い。よそを見て歩けない。


 旧市街の写真


 ここからまた電車とバスで「旧市街」に向かう。やがて旧王宮が見える辺りから、城壁や古い町並みが見え始めた。本当に美しい素敵な町並みである。ドイツのローテンブルグも良かったが、ここはさらに良い。そして何より「世界遺産」である。しかし、ここがそう決まるまでには、何年もかかったし大変揉めたという。というのは、この美しい町が第二次大戦後相当経ってから、市民の協力で「完全復元」されたからである。つまり「昔のまま」ではない。

 第二次大戦が、1939年秋のナチス・ドイツのポーランド侵略から始まったのは、有名な話である。その時以来、ドイツ空軍はこの町を猛爆し破壊した。また戦争末期の1944年、市民が「一斉蜂起*左注」したときも、ドイツ軍はここを完全に破壊した。残った物には火をつけた。こうして戦争がすんだときには、この町はほとんど「瓦礫の山」と化していた。その写真が残っている。そういうボロボロの町を、市民は時間をかけて修復していった。写真一枚さえ残っていない場所は、昔描かれた油絵から設計図を引き、煉瓦一つから積み上げて、「元の町に復元」したという。

 世界史を学んだ者には分かるが、ポーランドという国は昔からロシア、ドイツ、オーストリア(当時)という大国に挟まれ、常に侵略、分割、支配され続けてきた。こういう国では、人々の「愛国心、郷土愛、自文化に対する愛着、連帯感」などは並みたいていのものではない。国が滅ぶと、自分たちのアイデンティティーがなくなるのだ。これでは昔のユダヤ人と同じになるし、実際当時この国にはヨーロッパで最大級のユダヤ人人口があった。またそれが、ナチス・ドイツに大弾圧、迫害される原因にもなった。

 この「旧市街・歴史地区」を歩いてゆくと、本当にワルシャワの人たちがこの町をこころから愛し、瓦礫の山から必死の思いで復元したようすが、容易に想像できる。「ひび割れ一つまで復元した」と解説書は言う。もう一度「旧市街」の写真を見ていただきたい。旧王宮も旧市街広場のすべての建物も、すべて瓦礫から手を抜かず作り直した。「愛国心と忍耐強さ」がなければとてもできないし、またお金も乏しいなか、他に優先させて3年半以上かけて作業をしたという。残念ながら、私はポーランド語ができないから、「こよなく愛する町を破壊し、市民を大量殺戮したドイツ」や、「ワルシャワ蜂起を見殺しにした旧ソヴィエト*左注」に対する市民の気持ちは聞けなかった。いずれにしても、私はこういうポーランド市民に敬意を表したいと思うし、この戦いで亡くなった方々の冥福を祈りたいと思う。


 リンク→(ワルシャワ歴史博物館)
        
 リンク→      (ワルシャワ王宮博物館)

 第 四 日目 会えなかったダ・ヴィンチの絵
        ユダヤ人「ゲットー」を探して(クラクフ)
 









ショパンの心臓がある聖十字教会(ワルシャワ)

教会内のショパンの碑のある柱









ユダヤ博物館(正面)(クラクフ)
(警察車両の右の建物はは警察署)










探し回って見つけた「シンドラーのリスト」の工場(クラクフ)









ユダヤ人ゲットーがあった辺り(クラクフ)









黄昏の中央市場広場と聖マリア教会(クラクフ)









中央市場広場の文化会館(左)と織物会館(右)




 私の薦めるホテル(クラクフ)
 両替は旧市街(城壁)内に「カントール(両替商)」
がたくさんあるので、何軒か回ると良い。















 朝早く6時に起きた。というのも、昨夕ホテル近くの聖十字教会へショパンに「会い」に行ったら、ちょうど夕べのミサの最中で写真も何も撮れなかったからだ。さてはりきって行くと、またもや朝の礼拝中であった。そこで、長椅子に座って一緒に参加することにした。周りに合わせて何度も立ち何度も跪いた。その後で中年婦人に尋ねると、彼女は分からないらしく近くの老人に訊いてくれた。老人が指し示したのは、椅子席前列あたりの左側の柱であった。

 そこには柱に張り付いた碑があった。いちばん上にショパンの胸像、その下に名前がある。それは私たちが見慣れた「Frederic Chopin」ではなく、「Fryderykowi Chopinowi」であった。道理で私がここの人たちに、「ショパン、ショパン」と言っても、なかなか通じなかったわけだ。「ショパン」は彼がパリで使っていた「西ヨーロッパ用の名前」だったのだ。

 そして最下部の幅が狭くなった所に、彼の心臓がある(らしい)。ふたがあって、ネジで留められている。もちろん中は見えない。下にはプレートがつけられ、「第二次大戦中ドイツが持ち去ったが、1945年10月ここに帰ってきた」と説明が書いてあった。ポーランドにとって、<ショパン、キュリー夫人、コペルニクス>は、いわば「ポーランドのこころ、誇り」である。ナチス・ドイツはまさに「ポーランド人のこころ」まで奪ってしまったのだ。

 ホテルに戻りチェックアウトをして、重い荷物を担いでワルシャワ中央駅に出る。9時ちょうどの急行で、ポーランドの古都クラクフに向かう。首都の町並みをはずれると、窓からはやや寂れた農村や閉鎖されたらしいガラスの割れた元国営工場、そして殺風景な人気のない農場などが飛んでゆく。やがて列車は、高原らしい一帯に入る。雪がわずかに残る斜面、延々と続く白樺の林は、何となくロマンティック−と思うのは、私だけの趣味であろうか。なぜか動物の姿は全くない。

 2時間35分後、クラクフ中央駅に時間通りに到着。出口に向かっていると、派手な中年女性が近寄ってきた。「こんにちわ、あなたは何人?」私「日本人」女性「今晩のホテル決めてる?安いホテルがよかったら案内するよ。いくらの部屋なら泊まりたい?」私「どこにあるの?」女性「ここから少し離れているけど、安いからね。」と言って一冊のノートを取り出した。日本語で何か書いてある。「ほら、この間も日本人の女の子が泊まっていったよ。日本人もたくさん泊まるよ。」

 私はこれまでの海外体験・経験から、向こうから近寄ってくる「輩」には警戒することにしている。だいたい「下心」がなければ、外国人に近づいて来るはずはないのである。そういう私の態度を知ってか知らずか、執拗についてきていろいろオファーをする。私もいい加減煩わしくなって、「あなたの電話番号を下さい。夜までに決まらなかったら、連絡するから。」と言って、かけるはずのない電話番号を聞いた。

 そしてそのまま、「地球の歩き方」にあった駅前のホテルに直行した。案の定、シーズンでないので、部屋は十分過ぎるほど空いていた。値段も朝食付きで、日本円5400円くらいで部屋もまずまずだった。いつものことだが、私の「安旅」は高級な宿とは無縁である。そして何よりレセプションの女性が、英語がきちんと話せて、この国に来て久しぶりに安心して質問できるのが良かった。

 部屋に荷物をおいて身軽になるや否や、すぐさま観光が始まった。まずは、あのレオナルド・ダ・ヴィンチが生涯に3枚しか書かなかったという女性の肖像画の一つがあるチャルトリスキ美術館である。その絵というのが、白貂(シロテン)を抱く貴婦人である。私がこの町に来た理由の1/3が、この絵である。今まで世界中の美術館でダ・ヴィンチを絵をかなり見てきたが、こういう絵は少なかった。それだけに楽しみにしていたのである。美術館は旧市街を取り囲む城壁の近くにあった。

 入場料を払ってすぐにその展示室に向かった。しかし、そこで見たものは、その絵の代わりにあった一枚の「お知らせ」であった。曰く、「白貂(シロテン)を抱く貴婦人は現在、アメリカツアーに出ています。」そして、巡回する予定の大都市名と日程がその下に書いてあった。私の体の力がすーっと抜けていった。しかし、こういうことはよくあることだ−と自分に言い聞かせ、諦めることにした。。ニューヨークのメトロポリタン博物館に行ったとき、<ピカソの「ゲルニカ」はスペイン・マドリッドに帰りました。>と掲示があり、ロンドンの大英博物館では、<ツタンカーメンはエジプトのカイロに返還されました>ということがあった。だから、これはたまたま巡回展に行ったに過ぎない。どうしても見たければ、再訪するか、アメリカに行けばいいのだ。

*後日注・・帰国後分かったが、すでに日本の東京にも来たことがあり、知人も「見た」という。不幸なことに筆者は知らなかった

 さて、クラクフはワルシャワに移るまで、ポーランド王国の首都(1386-1572)であった。日本でいうと、京都に例えられようか。そういう町は散歩するだけでも楽しい。特に旧市街は歴史を感じさせる。ポーランドに関する旅行書、案内書にはいずれもワルシャワの次にこの町が登場するし、特に「旧市街」の記述は多い。皮肉なことに、第二次大戦中この町にドイツ軍の司令部があったため、爆撃と破壊から免れたという。この点も、理由は違うが京都と似ている。

 そういう古い町にはユダヤ人が多いのが、ヨーロッパの通例である。「乗り放題一日パス」を買って、ユダヤ博物館に向かった。ユニークな外観の博物館は、その一部がシナゴーグ(ユダヤ寺院)として現在も使われている。展示はユダヤ教の祭礼の道具、衣装をはじめとして、民俗的な物やユダヤ人関係の写真、ユダヤ民族の歴史などが中心であった。これを見たユダヤ人たちは自らのアイデンティティーを再確認するであろうが、私が見たかった「ナチの迫害」関係の展示は、意外と少なかった。

 その後、スピルバーグ監督作品「シンドラーのリスト」のモデルになった工場を探しに、またも電車に乗った。しかし電車から降りていくら見渡しても、目印のものがない。そこで停留所にいた老人に訊いた。彼は手帳の場所の名を見て、ポーランド語で説明を始めた。またも英語もドイツ語もダメらしかった。あとで分かったことだが、不覚にも地図の方角を見間違え、90゜違う方の川向こうに出てしまったのだった。しかし彼の説明が何となく分かったのは、不思議であった。「右に見えるあの向こうの橋の右側だよ。この方面行きの電車で戻ったらいい。」たぶんそう言ったのだろう。その通りで「行けた」のである。それにしても、老人たちは親切である。相手がポーランド語が分からなくても、「一所懸命」教えてくれる。

 やっと、目的の電停に降り立った。私はホテルの受付の娘が地図に書き込んだ印の方へ歩き始めた。しかししばらく歩いても、そういう名前の通りなど現れては来なかった。そこへ足の少し悪そうな老婆と中年婦人が通りかかった。服装もカジュアルで荷物も少ないことから、「ここ(当地)の人」と判断し、尋ねてみた。

 親切な中年婦人とおばあさん

 こうして歩き回って、左上のような工場に辿り着いた。今はどうもコスメティックの工場らしかった。しかし不思議なことに、苦労して来ては見たものの、あまり感慨も感動もなかった。写真を撮るとすぐにとって返したが、別の道で元の電停に戻ると、来るときよりずっと近く、「ここに来るときの苦労は何だったのか?」とさえ思われた。

 次はやはり「シンドラー」に出てくるゲットー跡地に向かった。ホテルの受付の娘が、「あそこは治安が良くない。夜は酒を飲んだり騒いだりする人もいるし・・・」とあまり勧めなかった所だ。しかし私の好奇心が勝った。いったん電車で町中へ戻り、乗り換えて郊外へ出た。地図を見ながら、「勘」で降りた電停から歩き始めた。するとすぐに上り坂になり、大きな墓地に出会した。その塀に沿って山道を上がってゆくと、やがて人家が途切れた。それでも上がってゆくと、何かの工場らしい物に行き当たった。しかし、それより先は、雪の残る雑木に囲まれた細い山道でもあり、人気もないので、それ以上に行くのは止めにした。ただ地図によると、この奥だということは明らかだった。しかし、あまり長居をする場所ではないので、写真を撮って早々に退散した。

 こうして一応の「目的を達成」した私は、町中の城壁に囲まれた「旧市街」にやってきた。本当に「古都」と言うことばがぴったりの旧市街は、王宮のある丘、多くの教会、大きな広場、高さのそろった民家や商家などが渾然一体となって、美しい景観を作っている。私は何が「美しい」のかと考えてみた。

 これはドイツでもフランスでも、ヨーロッパの国々の古い町に共通のことであるが、町家の高さがそろっていること、建物が石造りなこと、路面がアスファルトでなく石畳であること、屋上や壁に目障りな大きな看板がないこと、そして電線、電柱が一切ない、ゴミがあまり落ちていないこと、町の中心には目印になる大きな教会、聖堂があることなどに気がついた。そう言う意味では、日本やアジア、アメリカの大多数の都市は無秩序だし、明らかに町造りの「コンセプト」が欠如しているように思われる。注*ただ、こんな美しい町にも、たった一つ欠点があった。それはワルシャワと同じく、所かまわずの犬の糞である。ポーランド人の「美意識」はなぜか偏っている。また、この国はまだ「観光開発」に力を入れていないということなのでもあろう。

注*もちろん例外は多い。日本では「条里制」の残る奈良、京都、爆撃を受けていない旧中山道宿場町などは、それなりに風情があるが、統一性のない看板や電信柱などは町の景観を大きく損なっている。アジアでもシンガポールのように、「タバコ、ゴミ、チューインガムなどを捨てたら罰金」という国は美しい。アメリカでもワシントンDCのモール周辺の町づくりはすばらしい。

 市内観光の終わりには、足元が見にくくなるくらい暗くなり、路上に散乱する「犬のフン」がコワイのでホテルに帰った。また客の姿はなく、レセプションのカトリンは相変わらず手持ち無沙汰らしかった。そこで私は話しかけてみた。

 ホテルの快活な受付嬢カトリンのこと





リンク・・・ポーランドの博物館オフィシャル・ホームページ一覧


 *ユーレイル・イーストパス
(Eurail East Pass)

中欧4カ国(チェコ、ハンガリー、ポーランド、スロバキア)とオーストリアの国鉄に乗れる1等2等のヨーロピアンイーストパス(東欧レイルパス)。 東欧レイルパスは、通用日数分の利用日を選べるパスです。通用日数は最低5日から1日単位で最大10日まで、有効期限は1ヶ月。連続して使っても、飛び飛びに使ってもかまいません。4〜11歳の子どもは大人の半額になります。4歳未満は無料ですが、座席を予約する場合は有料になります。(トラヴェルネットHPより転載)


ワルシャワ・ゲットー地図
「戦場のピアニスト」オフォシャルサイトより転載