ポーランド・チェコ旅日記(Day9+10)
下流から見たヴルタヴァ川のカレル橋 Karluv Most, Praha (Charles Bridge) ドヴォルジャックホールのある「芸術家の家」 Rudolfinum, Praha 3月20日・チェコフィル演奏会ティケット S席580コルナ(当日売り) Beethoven: Sym. No.7 + V.Sommer: Vocal Symphony Digent: Ondrej Kukal ヴィシェフラド(高い城) 右下が城門、案内所は入ったところにある Vysehrad, Praha ヴィシェフラド墓地入り口 Vysehradsky Hrbitov, Praha スメタナの墓と筆者 Bedrich Smetana's grave,Vysehradsky Hrbitov ドヴォルジャック・ホール Dvorakova sin,Rudolfinum, Praha (チェコフィルサイトより転載) |
朝は9時前ににペンションを出る。「今日は何がなんでもチェコフィル演奏会のティケットを手に入れなければ・・」、そういう思いで地下鉄駅に向かう。しかし今日はなんだか辺りの雰囲気が違う。こういう国では、ふつうでも警察官は至る所で目につくが、今日に限って迷彩服の軍隊が余分にいる。自動小銃を持っている。そして12.7mm機関銃のついた装甲車も出ている。しかし「何かあったのかなあ?」くらいでメトロに乗った。 地下鉄A線一本なので、迷わず「音楽家の家」のある駅まで行けた。両替をしても9時半には悠々と着いたが、ティケット売り場はまだ閉まっていた。そこに一人の老人がやって来た。訊くと10時から開いて買えるという。彼も英語はかなりできるようで、会話には困らなかった。「私はチェコフィルが大好きで、それを聞きに日本から来ました」と私が言ったところから話が始まった。 クラシック好きのヨセフJosef老人 ヨセフJosef老人からのメール ヨセフ老人と別れた後、「ほんとにいい人と出会えた」と言う想いがいっぱいだった。停留所から交差点を渡って高架をくぐると、古い家並みが続くやや登り道に出会った。その向こうに城の外壁らしいものが見えた。石畳の坂を上りきると、大きな城門があり、入ると城壁内に小さく古めかしい案内所兼売店らしいものがあった。以前ウィーンの中央墓地に行ったとき、正門脇の守衛室に「公式墓地ガイド本」があり、大変役に立ったことがあった。 今回も「柳の下のドジョウ」を狙って、木でできた年季の入った軋むドアを開けた。中は本当に狭く、何種類かの絵はがきと何冊かの本しか置いていなかった。出てきたオバサンは案の定英語はダメだったが、私が日本からドヴォルジャックやスメタナの墓参りに来たらしいことが分かると、奥から一冊の本を持って出てきた。チェコ語の本で「ヴィシェフラド墓地」と書いてあった。私は思わず、「やった!」と日本語で叫んでしまった。私は運が良いらしかった。その本はいろんな人が見たらしくやや草臥れていたので、「新しいの・・」をと言うジェスチャーをすると、オバサンは「もうこれが最後の一冊だ」という仕草をした。それを買って外に出ると、オバサンは追いかけてきて、「その道を上がると近いよ」と教えてくれた。 ヴィシェフラド墓地の写真 ヴィシェフラドの衛星写真(Google) 買った本にはご丁寧にも墓の地図がついており、スメタナやドヴォルジャックの墓の位置はすぐに分かった。墓には「通し番号」がついていた。スメタナの墓前には、高名な指揮者で長くミュンヘンのバイエルン放響の指揮者をつとめたラファエル・クーベリックの墓もあった。彼は父ヤン・クーベリックと同じ墓に入っていた。一枚一枚慎重に慎重に写真を撮ってゆく。なかなか来られないこういう国では、撮影に失敗しても再撮影が難しい。 しかしやはり、チェコフィル元指揮者アンチェルの墓が見つからない。本の地図にも載っていなかった。やはりあの老人が言った通りだったのだろうか。一通り回ってみたが、やはり見つからない。不安が増してゆく。数少ない墓参者であったが、一列向こうに明らかに墓参りに来たらしい花束を持った老婦人が歩いていた。私は近寄っていった。その婦人は背が高く金髪で、若いころはさぞ美人だっただろうと思われる容貌をしていた。今女優をしていても、おかしくはない。 「すみません。指揮者のアンチェルの墓を探しているんですが・・・。」私はやや辿々しいドイツ語と英語で二回言った。彼女はこちらへ振り返ると、にっこり微笑んだ。素敵な笑顔だった。私は「英語でいいですか?」と訊ねる。「ええ少しなら・・。」「ご主人の墓参りですか?」「はい。その先なので一緒に行きますか?それから探しましょう。」彼女は十数m先の墓へ私を連れて行った。チェコ語なので職業は分からなかったが、とにかく立派な墓だった。「いつ亡くなったのですか?」「一年前です。心臓発作でした。」それからはほとんど毎日のように来る−と、彼女は言った。私が訊いた訳でもないのに、彼女はご主人のことを少し話した。「優しい人でした・・」とも言った。少し目が潤んでいた。よほど夫婦仲が良かったのかも知れない。「連れ合いをなくす」ということは、きっと大変なことなのだろう。 彼女は花を置き少しゴミを取ると、「さあ、探しましょうか」と言った。彼女はスメタナの墓もドヴォルジャックのそれも知っていたが、アンチェルは知らないらしかった。「入り口の所に案内板があります。」というので行っては見たが、やはりアンチェルのはなかった。私がガッカリしているのを見て、彼女は、「他のチェコの有名人の墓なら分かりますよ」と言ってくれたが、私は丁寧に断った。夕方のチェコフィルのコンサートが頭にあったのだ。お礼を言いながら彼女と別れ、歩いて坂を下りて再び市中心部に向かった。 時計を見ると、とっくに昼を回っていた。一度宿に帰って、Gパンからこの時だけのために持ってきた背広・ネクタイに替えなければならない。ショッピング・モールの「リストランテ」で遅い昼食(スパゲッティーと地ビール)を摂る。それからスーパーでビール缶をどっさり買い込むと、急いで宿に戻った。 チェコフィルのコンサート開始は19時30分なのに、私は二時間も早く会場に来てしまっていた。当然、人は一人としていなかった。「芸術家の家」の周りを歩いた。裏側にはヴァイオリンがぶら下がった部屋や演奏前の音あわせをしている部屋があった。そういうものを眺めながら一回りすると、一人の若いチャーミングな女学生?がやって来た。若い人なら英語は大丈夫だ。ヨーロッパはどこの国でも、若い人は英語が上手だから・・。「今夜のコンサートに来たのですか?」「ええ、でもここではなくて、スーク・ホールの室内楽です。」どうも同じ建物内で、同時にコンサートがあるようだった。 それから開いていた売店に入った。当然ながら、チェコフィルのほとんどのCDがあった。そこでアンチェルを探すと、あるわあるわ!いっぱい出ていた。いちばん数が多かったのは、現在の音楽監督のアシュケナージのもの、そしてノイマンやクーベリック、驚いたことに戦前のターリッヒのCDもあった。アシュケナージは岡山で彼のピアノを聞いたことがあった。売店の中年女性と仲良くなった。そこでアンチェルの墓について訊いてみた。彼女は長くこのホールで勤めていると言ったが、やはり「墓はカナダだろう」と言った。「また明日CDを買いに来るからね」と言ってホールの入り口に向かった。 左下写真のようにホールは決して豪華ではないが、正面にパイプオルガンがどっしりと鎮座し、一階部分のS席は階段状で、どこの席からでもオーケストラがよく見える。会場内で整理案内をしていた初老男性に話しかけた。胸に名札があり、ヴォランティアらしい。彼は英語はほんの少しだけ話した。「カレル・アンチェル」というと、通路奥の小部屋に私を連れて行った。そこには胸像があった。「アンチェルの墓、ヴィシェフラド?」と言うと、彼はやはり「カナダ、トロント」と言った。こんなチェコフィルのサポート会員でさえも、墓はカナダにあるというのだ。 さて開演時間が近づき、客席がどんどん埋まってゆく。私は日本では絶対買わない(買えない)S席の切符を日本円2500円くらいで買っていたので、嬉しくてウキウキキョロキョロしていた。とにかく日本のティケットは高すぎる。客の入りは90%くらいで中年・老人が多く、派手ではないが彼らの身なりは良かった。金のない学生などは、天井桟敷の安い「立ち見席」に行ったらしかった。 やがてオケの団員が入ってきた。パラパラと拍手が湧く。長いファンが多くて、お気に入りのプレイヤーがいるのだろう。指揮者はオンドレイ・クーカル、私は聞いたことがなかったが、ふつうは室内楽団を指揮しているらしかった。ところが、いったんベートーヴェンの7番が始まると、私はだんだん引き込まれていった。指揮を見ていると、音楽の作り方がよく分かるのだ。私のように楽器をしないものでも、引き込まれてゆく。 7番という曲は、ベートーヴェンの交響曲の中でも、「リズムの競演」といった趣があり、聞いていて自然に体が動く。やはり、「室内楽の指揮者」の音楽作りなのだろうか。とにかく楽しめたし、オケも鳴った。第四楽章が終わったとき、拍手が鳴りやまなかった。結局指揮者は四回も引っ張り出された。コンサートの最初の曲で、こんなに呼ばれるのは少ない。私の記憶では、かなり昔にあのカラヤンが大阪フェスティバルホールで振ったとき以来だろうか。 チョコフィルの本拠地で聞けたということ、ウン十年前私が生まれて初めて聞いた生オケがチェコフィルだったということで、いささか興奮気味であった。もし今夜のプログラムが、スメタナの「我が祖国」かドヴォルジャックの8番か9番だったら、私はきっと涙目になっていただろう。 休憩時間はロビーでワインを飲んでさらに気分が良くなった。ただ二曲目のSommerのヴォーカル・シンフォニーはナレーターとプラハフィルハーモニー合唱団の大編成大人数にもかかわらず、耳慣れない曲で眠りがつきそうになった。他の客も同じらしく、すんだときにすぐ拍手をしたのがわずか数人だった。人件費はかかってはいるのだが・・。 それでも、帰りの地下鉄や暗い夜道も、私の頭の中は二、三、四楽章の旋律と指揮者の動作がプレーバックされていた。あの7番はしばらく忘れないだろう。いい夜だった。宿に帰り、ビールを飲んでも、しばらくは寝付かれなかった。 |
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元チェコフィル指揮者 カレル・アンチェルの墓と筆者 Karel Ancerl's grave,Vysehradsky Hrbitov ↓ 墓碑銘(チェコ語・夫婦墓)
ドヴォルジャック博物館 Muzeum Antonina Dvoraka 旧王宮正門 Prazsky hrad 国立美術館 エル・グレコ「祈るキリスト」 (プラハ国立美術館蔵) エステート劇場、芸術家の家、ベルトラムカ写真 |
朝9:15、本日のスタート。行く先はまたもや、ヴィシェフラド墓地。昨日はいったん諦めかけた「墓探し」だが、夜に部屋で日本から持ってきた「Find-a grave」のプリントアウトをじっと見ていて、その墓が教会のそばにあるのに気づいた。それに写真には壁の樋も写っている。・・・ということは、教会の樋の横を探したらあるかも知れない。こう思い直して、再チャレンジすることにしたのだ。 今日は脇目もふらず、真っ直ぐ教会まできた。写真にある「樋」は、ひとつの壁に何と数本しかないのである。「しめた!」と思った。そこで当たりをつけた場所を、ひとつひとつ見ていった。すると、左の写真のような構図で、探していた物が見えたのだ。ホントにうれしかった。やっと彼に「会えた」のだ。思わず墓を抱いてしまった。
最近になって分かったのだが、アンチェルはユダヤ人のため、大戦中はゲシュタポ(ナチス)に捕らえられ、テレジエン・シュタットとこのたび私が訪れたポーランドのアウシュヴィッツ両強制収容所に入れられていた。戦争中、運よく生きながらえた彼は、戦後母国のチェコフィルの常任指揮者になった。筆者の勝手な感想かも知れないが、彼の音楽は何か暖かみがある様な気がする。一度死にかけた人間だけが持つ人間性(ヒューマニティー)なのだろうか。 二度も死にかけ、戦後23年してまたも「ソ連」の戦車に追われるようにして、カナダに亡命したアンチェル、そして故郷を想いながら彼地で客死した彼の亡骸は故郷に運ばれ、チョコフィルの後任者ノイマン立ち会いで此地に埋葬された。私はここに来る直前、日本で「戦場のピアニスト」を見ていた。あれもポーランドの実在ピアニストの人生の映画化であった。このアンチェルの人生も、映画化できるほどの山あり谷ありの分量である。いま最愛の妻ハナと一緒に眠っているのが、せめてもの慰めであろうか。 墓の写真を何枚も撮っていると、何と日本人カップルが通りかかった。「あっ、アンチェルの墓だ。!」彼らのうち、男性はアンチェルを知っていた。まだ二十歳そこそこの若者が、1973年に死んだチェコの指揮者を知っていたのだ。若い大学生のカップルらしかった。声をかけてみた。二人とも茨城県のT大学の学生だった。彼は「知っているのは、名前だけですが・・。」と謙遜した。彼らはスメタナの墓に行ったばかりだった。「ドヴォルジャックは分かりますか?あの向こうの屋根のある所ですよ・・・。」と教えると、そちらに行った後また帰ってきた。彼、Y君はチェコが生んだ戦前の大指揮者ヴァツラフ・ターリッヒも戦後の名指揮者ラファエル・クーベリックも知っていた。若いのに博学な人である。さらに驚いたことに、二人とも理系の学生であった。 話していて、昨日「戦争」が始まったことを知った。アメリカ軍がイラクを攻撃したというのだ。そういえば、昨日から町に迷彩服の軍隊が出ていた。三つ星以上のホテルでは、CNNが見られるのですぐに分かるのであるが、恥ずかしながら、私の今の「安ペンションアパート」にはテレヴィそのものがなく、ラジオだけだから聞くことはないのだ。「戦争」といえば何年前になろうか、私が夏にニュ−・ジーランドにスキーに行っていたとき、ホテルのテレヴィが、「イラク軍がクウェートに侵攻した」と戦車の映像を流していた。それがCNNであった。なぜか私が外国にいると、イラク関連の戦争が起きるのだ。 彼らに訊くと、帰国便は「北回り」らしく、問題はないだろうと話し合った。I さんは感じのいい笑顔の素敵な女性で、「今は就職活動中で、帰国後もすぐ企業研修・見学に参加します。こんな状況で間に合えばいいのですが・・。」と言った。物陰には雪らしいものが残り寒風が吹くなか、わたしたちはいろんな話を、小一時間もつづけた。後で考えると、彼らはきっと寒かったであろう。こうして爽やかなカップルと別れた。 I さんのHPサイトに登場する「おじさん」こと筆者 気づいたら、とっくに昼を過ぎていた。急ぎ足でドヴォルジャック博物館に向かう。パヴロヴァ駅からは徒歩で新市街(Nove Mesto)の商店街を過ぎ、10分ちょっとでピンク色のきれいな建物に着く。(左上ピンクの建物)鉄柵の門から小綺麗な庭を通り、入り口に進む。入場料40kcと館内撮影料30kcを払う。彼愛用のピアノ、ヴィオラ、直筆譜の展示、アメリカ時代の手紙などがあるが、思ったほど展示は多くはない。 ドヴォルジャック博物館(Muzeum Antonina Dvoraka) 明日はプラハからウィーンに飛ぶ。今日はプラハの最後の日なので、地下鉄A線でDejvicka駅まで行き、空港行市バス119番の乗り場を確認する。そこは地下鉄地上出口のそばだった。また地下鉄AでMuzeum駅に行き、地上に出る。そこには立派な国立博物館があった。その前に聖ヴァツラフ騎馬像がデンと辺りを睥睨する。そこから次の地下鉄駅Mustekまでの大通りが、ヴァツラフ広場と呼ばれる。よく見ないと、通りか広場かの区別もできない。マクドナルドや両替店、旅行代理店など観光関係の店がずらっと並んでいる。 その歩道部分に、墓か記念碑様のものがあり、花束が飾ってあった。最初はそれが何かが分からなかったが、本を読むとあの1968年の「プラハの春」事件で、「ソ連」に抗議して焼身自殺で死んだ青年の物ということだった。それからしばらく、この国は重苦しい圧政の時代が続くが、ちょうど20年後の1989年に100万人のプラハ市民がこの広場に集まり、今度は血を流さずに「革命」を行い、この国は自由を取り戻したのだ。こういう国の市民は、本当に「自由の尊さ」が分かっているだろう。「自由」も「人権」も自分たちの手で、勝ち取る物なのだ。 ここでユーロからコルナに必要最低額を替えた私は、急いでマクドナルドに向かった。そのあと、早足でフラッチャニ丘の城横にある「国立美術館」に向かった。カレル橋を渡り、ふたたび城の坂を上る。大司教宮殿の中に、美術館の「16〜18cヨーロッパ絵画部門」がある。この美術館は部門毎に、建物が散らばっているという面白い?編成になっている。西ヨーロッパの多くの主要美術館に行った私の目から見ると、びっくりするような大作はないが、一応画家のほとんどは網羅されている。そのなかでいちばん印象にあるのは、エル・グレコのキリスト像であった。若々しいチャーミングな姿である。 見終わると、急いで川に向かって降りてゆく。まだまだ見る所はたくさんあるのに、明日は発たねばならない。橋を渡って「芸術家の家」内のCD売店に行く。昨日仲良くなった売店の中年女性と話しをして、カレルアンチェルの墓がやはりヴィシェフラド墓地にあること、墓番号は59であることを伝えた。遠い日本から来て、地元の人に地元の作曲家の墓の場所を教える人も少ないだろう。自分で考えても口元がゆるむ。ここでは、アンチェルのCDを3枚購入した。 地下鉄A線でMustekに行き、歩いてエステート劇場に向かう。ここはモーツァルトの「ドンジョヴァンニ」が初演されたところとして有名で、映画「アマデウス」の上演シーンの撮影にも使われた。次に地下鉄B線でAndelに向かう。モーツァルトゆかりのベルトラムカに行くためだ。地下から出てきた駅前で方向が全然分からず、歩いてきた二人の中年女性に尋ねる。やはり英語が通じなかったが、試しにドイツ語で訊くとちゃんと教えてくれた。さすが近いだけのことはある。むかしアフリカで習った入門ドイツ語も捨てた物ではない。たまには役に立つのだ。 ベルトラムカは、緩やかな坂道の途中にあるうすピンクの瀟洒な建物であった。むかしはモーツァルトの友人の建物で、彼も何度も滞在したらしいが、今は「モーツァルト博物館」になっている。残念ながら、私が着いたのは4時過ぎていて閉館後ではあったが、庭を歩くことはできた。このあと、映画「アマデウス」に登場したというこの辺りを「探検」し画面に登場する建物や通りを探したが、時間もなく暗くなり始めていたのもあり、とうとう見つけることはできなかった。 この後町中に戻り、大きなスーパー「アルバート」で夕食材料のハム、牛乳、ヨーグルト、サラダを購入。土産用の地ビールを何本も購入。それでも100KC+(日本円で450円位?)当地が安いのか?日本が高いのか?部屋に帰って、遅い夕食。空腹に本場ビールが染みる。とてもポップが利いて香りが口に残る。あ〜し・あ・わ・せ! |
チェコのプラハでチェコフィル定演のティケット購入でお世話になったヨセフさん
Mr.Josef L.at Rudolfinum, Prague, Czech Republic Dear Kenji Kakehi from Okayama, Many thanks for Your e-mail message from June 17 th. It was a very pleasant surprise to have your letter. Sorry for not having written earlier. We have here a
very hot summer this year /32 - 34 degrees/ and so we spent a longer time
outside of the city in the country. We stayed in a beautiful plain landscape
with the lakes and woods.
Of course I remember well the meeting with you at Rudolfinum on a morning in March where we both waited for buying tickets. I hope you have enjoyed the concert of Czech
Philharmonic very much.
Thank you for your information about the grave of the famous Czech conductor Karel Ancerl at the Vysehrad cemetery. I did not know it and shall look there on my next visit to Vysehrad, perhaps in September. I have looked at your pages and enjoyed your photos from Poland, Austria and Czech Republic. As you informed me our Fonts are different and therefore we cannot accept the Japanese texts. Even if it would be possible I would not understand at all. I hope that you are well and perhaps on a fine
journey.
Yours sincerely,
Josef L. 拝啓 岡山のカケヒケンジ様 去る6月17日付のeメールのお便りありがとうございます。お便りいただきましたことは、嬉しい驚きでありました。もっと早くお返事をしないで申し訳ありません。私ども今年の夏は32〜34℃と大変暑いので、田舎で長めに過ごしておりました。湖や森のある美しい平地に滞在していました。 もちろん3月の朝に、切符を買うために共に待っていた「ルドルフィヌム」で貴方とお会いしたことはよく覚えています。私は貴男がそのチェコフィル・コンサートを楽しんでいただけたと思っています。 ヴィシェフラド墓地にある高名なチェコフィル指揮者カレル・アンチェル氏の墓の情報をいただき感謝します。私はそのこと(墓がそこにある)を知りませんでしたので、たぶん9月になるとは思いますが、つぎに墓地に行った時に見てみたいと思っています。 私は貴男のホームページを見させていただき、お撮りになったポーランドやチェコやオーストリアの写真を楽しませていただきました。貴男ご指摘のようにわたしたちのフォント(書体、字)は違いますので、日本語のテキストは受け付けません。もし可能であっても、私には全然理解はできません。貴男がお元気でまた素敵な旅に出ておられますようお祈りいたします。 敬具。 ヨセフ・L (2003/8/11) チェコ・フィル・ティケット購入で大変お世話になった方です。また、チェコの音楽事情をお話ししていただきました。プラハの大学のアーカイヴで働いてこられたリタイアドのクラシックファンの方です。余談になりますが、この方をはじめ多くのチェコ人クラッシック・ファンが、元チェコフィル常任指揮者カレル・アンチェルの墓を、亡命先のカナダ・トロントにあると思っておられた。そういう意味で、地元の人にも忘れられ始めていた大指揮者の墓が、地元のヴィシェフラド(高い城)墓地にあることを喚起できた-のは、「アンチェルファン」の私にとって大変喜ばしいことです。(この事実は、チェコフィル根拠地のルドルフィヌムの一階CD売店の中年女性職員にも伝えた。彼女も実は知らなかった一人である。) |