ポーランド・チェコ旅日記(Day5+6)

 
第 五 日 目
ことばにならない「アウシュヴィッツ」
                (オシフィエンチム)

         





アウシュヴィッツ収容所の門と筆者





施設内にある収容者のベッドと敷きワラの展示





キッチンと集団絞首台
(屋根には高圧電流が流れていた)






ドイツ兵がナタでたたき殺す写真
(兵隊は笑っている)






死体の山にある若い女性の死体



オフィシャル・サイト・リンク
アウシュヴィッツ(収容所)国立博物館
8:00〜16:00(3月)
写真撮影自由・入場無料




寄付をすると上のような「証明書」をくれる
数種類ある



 朝8時半にホテルのチェックアウトをすませると、8時45分のオシフィエンチム(ドイツ名アウシュヴィッツ)行きの普通電車に乗った。そうでなくとも乗客の少なそうなこのローカル線の古い電車は、オフ・シーズンに加えて朝早いので、客は一車両に数名程度であった。案内書の「アウシュヴィッツ行きの列車は盗難が多い」という一項が気になっていた私は、老夫婦が腰掛けた通路の反対側の席に座った。車両が動き出し、老夫婦は何やらぼそぼそ話していたが、老婆は「カジュアルな姿のアジア人」が気になるのか、チラチラこちらを見ていた。目があったのところで、私は話しかけた。

むかし強制収容所にいた老人とその

 こうして話に花が咲いていると、すぐに時間は経つ。やがて一時間四十分くらいで、オシフィエンチム駅に到着した。早速、見学後のカトヴィッツ行きの時間を調べてから、重い荷物を担いだまま「収容所」へ向かった。というのは、駅前には本当に何にもなくて、タクシーどころかバス一台さえ停まっていなかった。調べればバスはあるのだろうが、案内書の地図では近く思えたのだ。

 目的地までは約2km未満に思えたが、重い荷物のためけっこう辛い歩きになっていた。だだっ広い道路の両側にさらに歩道があるが、人気はほんの少ししかなく、通る車もほんのわずかだった。私はだんだん先が不安になったが、道順はシンプルなので、「まあとりあえず行ってみよう」と思って歩き続けていた。

 汗が出るほど歩くと、案内標識の向こうに塀のある広い敷地内の大きな施設が見えてきた。駐車場には意外にたくさんの車が止まっているし、バスの数も多い。降りてくるのは、若い学生や中年のグループであった。特にイスラエル国旗をもったユダヤ人学生が多い。私は重い荷物を地下の預かり所に預け、カメラとデイバッグだけもって「見学」を始めた。

 くわしい写真はここ「アウシュヴィッツ強制収容所」

 収容所の建物の写真を撮っているうちはまだよかったが、中の展示写真や現物展示を見て回るにつれて、気分が沈み憂鬱になってきた。殺人の最中の写真や首つり死体とそばで笑うナチスたち、血を流して死んでいる老人の顔の写真、兵士がユダヤ人母子を射殺している写真、そして当時を再現した数多くの展示を見ていると、どんどん暗い気分になってゆく。

 とくに「ドイツ兵たちが笑いながら寄ってたかってナタと斧でユダヤ人をなぶり殺しにしている写真」はショッキングだった。私は今まで、ユダヤ人や強制収容所についてたくさんの写真、フィルム、本や物語を目にしてきて、たいていのことは知っているつもりだったが、やはりここで「本物の展示」を目の当たりにすると、何とも言えない気分になっていた。たとえ「そういう時代」だったとしても、同じ人間がこんなこと(殺人)を「笑いながら」できるのが理解できなかった。ドイツ人将校・兵士たちにも、愛する妻や子ども、家族がいるだろうに、彼らに「人間のこころや感情」はないのだろうか!?。

    ★参考資料(1)←クリック
    参考資料(2)下
 私の部屋に<「アウシュヴィッツ収容所」(所長ルドルフ・ヘスの告白遺録)片岡啓治訳、サイマル出版会>という本がある。ずっと以前に私が買った本である。帰国後、それを少しだけ読み直してみた。その本中の「訳者前書き」で、片岡氏はこう書いている。「・・・けれども、・・・ヘスは決して異常人でもなければ、性格破綻者でもない。・・・だがヘスの怖ろしさ、そしてナチスの全行為の怖ろしさは、まさに、それが平凡な人間の行為だった、という点にこそある。・・・生真面目なそういう一人の平凡人が、こうした大量虐殺をもあえてなしうることは、誰でもが、あなたであり、私であり、彼であるような、そういう人物が、それをなしうるということにほかならないからだ。
 
 もうひとつのショックは、左下の写真前に来た時だった。死体が山のようにある写真は無数にあるが、若い女性が眠るようにしかし無造作に、一つの物=死体として横たわっている。これが目に入った瞬間から、しばらくは動くことができなかった。いったい彼女は、何の「とが」で死ななければならなかったのか?!この死は、いったい彼女に何の責任があるのか?神以外の誰が、彼女の人生を勝手に奪えるのか!?・・・もし彼女がまったく違う「平和な時代」に生まれたなら、きっとだれかを愛し、かわいい子供を何人も産み、そして幸せな人生を送ったかも知れないのだ。

 この後でベンチに座り込んだ。考えてみると、人類はこの「惨事、悲劇」を少しも「教訓」としていないのだ。ここで「被害者」であるユダヤ人が、パレスティナ人に後に同様のことをし、アメリカはヴェトナム、アフガニスタン等で市民を爆撃戦闘によって大量殺戮をし、IRAはイギリス市民を爆弾テロで数多く殺してきた。

 かくいう私たち日本人も、「日中戦争=中国侵略」で南京大虐殺をし、「三光作戦」で本土を荒らし回り、「万人抗」で多くの鉱山労働者を葬り、そして帝国陸軍「731部隊」は、ナチス張りの「人体殺傷実験」をやってのけた。日本国内でも関東大震災時に、「朝鮮人」を多数「私刑リンチ」で殺した。今も世界のどこかで「殺人」が行われている。いったい、いつになればこの世から暴力がなくなるのだろうか。

 こういう重い心の荷物を引きずりながら、そして重い荷物を背中で運びながら、私はふたたび駅までの2kmを歩き、カトリックの修道女が一人だけ乗っているカトヴィッツ行きの車両に乗り込んだ。(14時14分発各駅停車)

 15時15分カトヴィッツ着。駅前周辺を歩き回りホテルを探した。外国でも日本でも、普通なら駅周辺に日本でいう「ビジネスホテル」がすぐに見つかるのだが、いくら歩いてもホテルらしい物がない。高級ホテルの看板さえも見あたらない。結構大きな都市なのだが、この町は観光客が来ないのか、それともホテル地域は駅の反対側なのか?悪いことに観光案内所もない。もうここでの泊まりは諦めて、今夜の列車でとなりのチェコに「脱出」することにした。

 ところがカトヴィッツ駅の「案内(i )」で英語で訊き始めると、小太りオバサンは、「英語はダメダメ!」とまたしても相手にしてくれない。しかたなく大きな時刻表で確認すると、国際列車はあるにはあるが、数カ国を通るため中間のカトヴィッツ駅は真夜中通過が多い。駅周辺の店は早く閉まってほとんど暗闇だし、たくさんの荷物を持って歩き回れないし、待合室には「得体の知れない若者」だけしかいなくて不気味なので、仕方なく人通りの多い売店横の通路脇で、この文の下書きでも書くことにした。

 それにしても思うのだが、身なりの極端に悪い者や乞食らしいのが大変多い。駅構内を「ねぐら」にしているのだろうか。食事をしていないのか、ふらふらした若者が、だれかれとなくまとわりついている。それを見かねたのか、優しそうな婦人がファースト・フードへ連れて行き、何か買ってやっている。それを大事そうにもって、若者は駅の地下道に消えていった。

 
第 七 日 目

  エライコッチャ!違う国に行ってしもた!
      
(カトヴィッツ−チャドチャ-オストラヴァ−ブルノ)
         












No photos













 
 
日本帰国後、「トーマス・クック時刻表」で調べてみると、大変なことが分かった。結論からいうと、私は9分違いの間違った列車に乗ってしまったのだ。この時刻表を持って行ったにもかかわらず、ちゃんと調べなかったわたしの大失敗である。個人旅行の場合、このような旅先での「手抜き」の代償は大きい。それにホームが同じという悪条件が重なった。


<誤>

列車No337
カトヴィッツ  
00:10
ブラティスラヴァ 07:20
ブダペスト  08:44
(スロヴァキアまたはハンガリー)


<正>

列車No203
カトヴィッツ  
00:19
オストラヴァ  02:23
プラハ     06:56
(チェコ)












No photos

















No photos
























ブルノ本駅前近くにある「緑の広場」
モラヴィア博物館(正面)とパルナスの噴水(右)









聖トマーシュ教会(ブルノ)







 日付が変わった。でも、まだカトヴィッツ駅にいる。8時間も同じ駅にいるのだ!2時間前、乗れると思ったモスクワ発プラハ行きの列車は寝台車だけの編成で、予約もないわたしのユーレイル・イースト・パスでは乗れなかった。それが列車に乗り込み、ロシア人の車掌に訊いてはじめて分かった。追われるように列車を降り、またもやコンコースに戻った。

 時間を過ごし、また壁の大時刻表で時間と通過駅を確認してから、ホームへ戻ってきた。それでも心配なので、数少ない客に訊いた。「オストラヴァ?」「ダーダー」やがて列車が入ってきた。やっと列車に乗れた!。列車が少し早く着いたような気がした。しかしそんなことより、乗れた喜びの方が大きかった。(00:10カトヴィッツ発)

 さすがに、こんな真夜中の列車の客は少ない。好きな席に座れた。走り出してすぐに若い車掌が来た。何とか英語が通じる。「この列車はチェコのオストラヴァを通るか?」「イエース」。それでも確認のため地図を出して、「ここを通るか?」「オーイエース」と笑って言う。もうこれで大丈夫と思った。夜中の1時過ぎの山間の窓外は、明るい月と星が照らす雪景色がつづいていた。

 さらに一時間くらい経って、またあの車掌が通った。「オストラヴァは何時に着く?」「時刻表がないから見てくる」・・・・・・・・・・・・・しばらく経って、車掌が慌てたようすで帰ってきた。「この列車はオストラヴァは通らない!おまえは間違った列車に乗っている。次の駅で降りろ。」わたしは目が点になり、頭の中が真っ白になった。「ウッソー!」思わず日本語が飛び出した。「おまえにキチンと確認したじゃないか!」といいたかったが止めた。「どこで降りるのか?」「チャドチャだ」

 地図を見ると、時刻は不明だがチェコのオストラヴァ行きがあるようだ。運良くすぐに乗り換えると、朝にはオストラヴァに着けるはずだ。「その汽車は何時?」車掌「それはわたしの担当ではないから知らない。これはスロヴァキアの汽車だ」なんと、次の駅「チャドチャ」はスロヴァキアに入った国境の町だった。「行く予定のない国」に入ってしまうのだ。いったんは顔が青ざめたが、「なに、個人旅行だ。時間はたっぷりある」と自分に言い聞かせた。こういうところが、日本では絶対得られない「貴重な体験」なのである。 

 02:11、列車は山の中の田舎の小さな駅らしい場所で停まった。しかしこれは駅ではなかった。照明らしいものもわずかである。制服を着た役人がドヤドヤ乗り込むと、また走り出した。パスポートの検査が始まり、印を押してもらう。彼の制服には、「SLOVENSKO」(スロヴァキア)と縫い取りがある。彼らの顔には笑顔はない。その後しばらくして、違う制服の役人がやってきて同じ作業をした。ただ今度は、パスポートの隅々までじっと見ている。そして機械にパスポート番号を打ち込んでいる。「ペルソナ・ノン・グラータ(入国が望ましくない人物)」でも確認しているのか。

 02:51検査が終わり、03:04列車は再出発し、つぎの停車場で役人たちは降りていった。そのあとで中年の車掌が、「行き先確認」で回ってきた。めずらしく英語がかなりできた。彼ははハンガリー人らしかった。そしてこの列車も、スロヴァキアのブラティスラヴァ行きと、ハンガリーのブダペスト行きの二列車に分かれるようだった。
車掌 「どこに行くのか?」
私   「オストラヴァ」
車掌 「これは違う列車だ、これはブダペスト行だ」
   「知っている、間違って乗った。
     次の駅で乗り換えたい」
車掌 「それならシチェッチンで降りろ、列車が待ってる。」
私   「何時に着くのか?」
車掌 「03:38だ」
 03:32シチェッチン着。慌ててホームに降りようとして、タラップから転げ落ちた。駅の照明が暗かったので、あると思った最後のタラップがなかったのだ。重いリュックとコマつきハードケースを持ったまま、頭から一回転した。しばらくは、そのままの姿勢で動けなかった。こういうのを、「泣きっ面に蜂」というのだろう。しかし体を軽くは打ったが、どうやらケガはなかった。厚手のスキー帽と、腰まわりにクッションがある大きな登山用リュックのおかげであった。ハッと気がついて、となりのホームまで走り、03:38のブラティスラヴァ行きに跳び乗った。

 それにしても汚い。ニューヨークの地下鉄並みの「落書き列車」だ。03:53、再び「パスポート・チェック」が始まった。二カ国のオフィサーがやって来て、またもや二カ国の印を押した。04:03検査終了、列車再出発。こうして私は一時間二十分内に三つの国で計四つの出入国印を集めてしまったのだ。これは私のレコードだが、実に「笑える話」ではある。

 05:45、予定より3時間半遅れてオストラヴァ着。前の駅ですぐに接続があったので、このくらいですんだ。不幸中の幸いであった。しかし外はまだ真っ暗である。トイレに行くため駅舎に入った。朝6時前だというのに、そこには学生や勤め人などが、押し合いでもするようにたくさん列車を待っていた。よほど「アジア系の顔」はめずらしいのか、ジロジロ見られる。プラットホームを歩いて、ブルノ行きのホームを探す。

 06:13、ブルノ行発。中はほぼ満員、若い学生と中年労働者がほとんどだ。席に座れた私は、チェコに入国できた安堵感でいっぱいだった。そして、教科書らしいものを読んでいる男子学生に英語で声をかけてみた。本の内容から、彼は工学系の学生らしかった。
                

私  「あなたは学生ですか?」
学生 「はい、でも英語はうまくなくて・・。」
私  「構いませんよ。私だってチェコ語は話せない。
    君のように英語を話してくれると嬉しいですよ。
    ところで、学校では週何時間英語があるのですか?
学生 「3時間です。来年からは、これにドイツ語が入ってきます。
     ・・・・」  

 そういう話をしていると、学生の知り合いらしい若いカップルがやってきて、話しをしまた去っていった。私は「今なんて言ったの?」と訊くが、学生は英語でうまく説明できなかった。すると隣りに座っていた若い眼鏡の女性が、「これはあなたの目的地行きの列車ではない。いちばん前の車両に行った方がよい。」と、英語で助け船を出してくれた。ずっと私たちの会話を聞いていたらしい。やや東欧系言語らしい「巻き舌」のアクセントはあるが、きれいな英語だった。列車は途中で、オロモウツ行きとブルノ行きに分かれるという。


私  「ありがとう。とても助かります。ところで貴女の英語は
    発音がきれいで、よく分かりますよ。」
女性 「ありがとう。あなたの英語もなかなか良いですよ。」

 普通はこういう褒め方をすると、こういう反応にはならない。たぶん英語専攻の学生か英語を生業にしている方であろう。彼女にお礼を言ってから、男子学生と前へ前へと進んだが、大変長い列車だった。しばらく進んで、席の残るコンパートメントに飛び込んだ。座ってまた学生と話し始めていたら、いきなり、「アナタハニホンカラキマシタカ?」と日本語が聞こえてきた。前席にいた若い女性からだった。

日本語を喋る若いチェコ女性

 こうしてまた前の車両に移った私は、押し寄せる眠気に負けそうになっていた。列車の揺れがそれを後押ししていた。考えてみると、昨日からもう25時間も一睡もしていなかった。それに「まともな食事」は、昨日の朝食からずっとしていなかった。もう体力の限界であった。昨夜のことがなかったら、今日は世界遺産で有名な「チェスキー・クルムロフ」へ行くはずであった。「でももういい。ブルノに着いたらまず食事、そして宿を見つけて寝よう。眠りたい。!」こうして、急遽ブルノが本日の宿泊地になった。私の「旅の予定」はしばしば変更される。


中華料理店の若いヴェトナム女性