ポーランド・チェコ旅日記(Day7+8)
歴史を感じさせるピルゼン(プルゼニュ)駅 Pilzen Railway Station, Czech Rep. ビール醸造博物館入り口 Beer Museum, Plzen 「ピルズナー・ウルケル」の本社工場正門 (門を入って100m先地下にパブレストランがある) "Pilzner Urquel" head Factory 114km south west of Prague, Open all-yea-round ピルズナー・ウルケル本社工場地下ケラーのコースター チェコ風コットレットと出来たて生ビール World-famous"Pilsner Urquel" beer at factory-keller-restaurant |
朝食後8時前、ホテル「スロヴァン」・チェックアウト。シングル朝食込み・1200コルナ也。市内電車で中央駅へ。とうとう遺伝の大家・メンデルの博物館には行けなかった。ブルノ中央駅8:33プラハ行きEC70便。列車はガラガラ。安全のため、若い女性のいるコンパートメントを探す。その先客一名が「カリン」だった。 生物学者のカリン 私は勘違いをしていた。プラハは「中央駅着」だと思っていたが、降りてみればそこはホレショヴィッツェ駅で、列車は中央駅には着かないのだった。それも[ i ]窓口で訊ねてはじめて分かった。「中央駅にしては小さいなあ」とは思っていたのだが・・。数人に訊きまくって、やっと地下鉄に乗った。やはり「時刻表」を確認しなかった「ツケ」が回ってきたのだった。こうして、やっと中央駅に移動した。中央駅は大きな駅で、ロビーは空港のそれを思わせた。しかしまだ目的地ではなかった。今日の最終目的地は、「ビールの故郷ピルゼン」なのだ。 時間があるので、トイレに入った。チェコもポーランドと同じ、トイレは有料である。入り口に「オバサン」がいる。よく見ると、トイレには「目つきの悪い者」もいる。こちらを見てヒソヒソ言っている。これは「要注意」だ。その後、車内用のサンドイッチとビールを買って、ホームに向かう。すでに「440列車」は入っていた。乗り込んでから、いつもながら客のいるコンパートメントに入った。そこには初老の婦人がいた。座ってから数分後、制服を着て帽子をかぶった小太りのヒゲのオッさんが通りかかった。一見して車掌だと思った。 詐欺師の「車掌」 こうして、「偽車掌」はどこかに去った。後で回ってきた本当の車掌は、もっときちっとした制服だった。私は「安堵と腹立たしさ」が交錯していた。やはり「観光案内書」通り、プラハ中央駅は「あぶない駅」なのだった。「憂さ晴らし」も兼ねて、12:30に発車後すぐにビールを飲み、サンドを食べ始めた。食べ終えた頃、途中の駅で顔面髭面の若い男が、たくさんの荷物を抱えてコンパートメントに入ってきた。 キリストそっくりの教師イヴォ (当地であのチャスラフスカが不人気な訳) 14:12プルゼニュ(ドイツ名ピルゼン)着。駅は左上の写真のように、クラシックな雰囲気であった。そこから地下道・歩道を歩きながら探して約20分、ホテル「ペンションシティー」へチェック・インした。ここはいわゆる民宿風で、一泊朝食付き950コルナ、日本円4000円足らずでまずまずの宿である。嬉しいことに、鍵は厳重で宿屋入り口と部屋の二カ所もある。狭いが小綺麗なところもよいし、アメニティ・キットも完備している。 ビール醸造博物館入場券 荷物を置いて、すぐ市内観光に入る。ホテルから200mのところに、ビール醸造博物館があった。このまちのビール醸造は13世紀に始まったと言われるが、この建物は15世紀のモルトハウスを改造したという。受付のオバサンは、「解説書があるが、何語がいい?」と訊く。チェコ語、ドイツ語は敬遠して、「英語」と言うと、なぜか「何人?」と聞く。「日本人」と言うと、なんと「日本語解説」を出してくれた!へんなの?!。此処もツアーの日本人観光客が多いのだろうか? そのあとで、聖バルトロミェイ教会のある共和国広場に向かう。この町はそんなに大きくないので、歩いて観光できるところが嬉しい。金を払ってチェコで一番高い教会の塔に登る。最近フィットネスで体を鍛えている私だが、それでも息がすこしだけ切れる。それだけに見晴らしはすばらしかった。(写真参照) いちど宿に帰り、この町のメインイヴェント・プルゼニュスキープラズドロイ醸造所(ピルズナー・ウルケル・ビール)の本社工場に向かう。私はこのためにこの町に来たのだ。左の写真の正門をくぐると、歩いて100m右手に売店がある。そこに土産用ビールセット、ビアーマグやコースターなどビール関係グッズを売っている。いつもながらのビアーマグを買った。売店横に地下ケラーの入り口があり、階段があった。降りると中は広く、百席以上もあると思われるレストランがあった。スペースがあって雰囲気はよい。 まず「チェコ風コットレット」と黒ビールを頼んだ(左写真)。「チェコ風」といっても、来てみればウィーンのシュニッツェルとまったく同じである。まあ隣国であるから当然かもしれない。それから普通のタイプのビールを注文した。工場直結の本当の「出来たてビール」は、何とも言えない旨さだった。一口で言えば、大変まろやかである。喉ごしがスムーズなのだ。長年想い続けた「あこがれのビールの本場」に来た高揚感もあってか、酔いが早く回ってきたようだった。ホントに好い気分で、外気温零度近い人通りのない通りを、鼻歌交じりでホテルに帰った。その後は朝まで熟睡だった。 |
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スメタナの愛した「モルダウ川」(現ヴルタヴァ川) と川岸のスメタナ博物館(右) River Vltava & Charles Bridge 博物館前のスメタナ像 Statue of Composer Smetana フラッチャニの丘上にある旧王宮プラハ城 (門脇の衛兵は微動だにせず) Royal Palace, Prague 城壁内での王宮衛兵の定刻巡視 Patrol of the Royal Guard on punctual time タダの人形ではない土産店のパペット Puppet shop
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美味しいビールのおかげでぐっすり寝られた。朝食後、ペンション・チェックアウト。一泊朝食で950コルナ。外は快晴で、すがすがしい。駅まで15分歩く。昨夕「ビール本場訪問記念」に買った大きなビア・マグとたくさんの缶ビールが重い。(注:缶ビールはあとでどこでも買えることが判明、愕然とする)ピルゼン駅08:40発。ここは幹線なのか、プラハ行きはほぼ30分間隔であり、気持ちは楽である。田舎の景色が続くが、来るとき一度見た景色なので、あまり感動はない。しかし丘あり林あり川あり集落ありで、見飽きることはない。 11:45プラハ中央駅着。「案内」へ行って、ペンションの位置を訊く。地下鉄・バス・路上電車乗り放題の「三日フリーパス券」を販売機で購入(200コルナ)。いつもながら「優れもの」の切符であるが、この種のものは日本国内ではまだ少ないような気がする。(便利なのは大阪の「スルッと関西一日券」)階段を下りてメトロに乗る。プラハの地下鉄はABCの3線しかないから、不便な代わり分かりやすい。
例によって「地球の歩き方」に載っていた安いペンションであるが、大きなホテルと違い、知られていない分探すのは時間がかかる。背中のビールが重くて、肩に食い込む。そのペンションは地元の人も知らなくて、20分以上無駄に歩きまわって、やっと古いアパートの並ぶ通りの古びた建物に行き着いた。ペンキも剥げ、もう見るだけで「安そうな宿」であったが、気にはならなかった。そしてあのマルセイユのホテルよりはずっとマシである。私は寝られればそれで良いヒトなのである。 ブザーを押すと、小さな男の子と中年の小柄小太りオバサンが出てきた。しかし英語がうまく通じない。とにかく空き部屋があるらしく、重い荷物を引っ張って階段を上がっていった。こういう建物には「エレヴェーター」というシャレタものはない。此処の面白いところは、ドア毎に錠があるが一枚のカードキーですべて通過できることである。外部からは計4カ所の鍵で部屋に入ることになる。一見安心なようだが、考えるとそれだけ治安が良くないのかも知れない。 オバサンが私のパスポートを持って下がると、しばらくしてスラッとしたインテリ風の口髭中年男性が入ってきた。パスポートを返しに来たのだ。上手くはないが、英語が何とか通じる。物腰も丁寧である。彼の本職は弁護士、ペンションは先ほどの奥さんがやっているのだそうだ。全体的になにか「釣り合わない夫婦」ではある。彼の事務所は同じ階にあるという。彼からいくつかの情報をもらって、さっそく市内観光に出た。アー体が軽い!荷物が少ないことはいいことだ。 宿からは地下鉄駅Floraまで歩いて10分程度だったが、路上電車も走っていたのでこれに乗った。はじめての町では、地下鉄よりは路上電車の方が、「土地勘」ができるのである。ここの電車もやはりドイツ式である。中心部を通って、モルダウ川(ヴルタヴァ川)に向かう。私はクラシック音楽を聴き始めてから、ずっとこの川を見たかった。スメタナ作曲「我が祖国」の中の「モルダウ」が大好きだったのだ。 川脇の国民劇場から歩いてスメタナ博物館に向かう。国民劇場ひとつにしても長いストーリーがある。この国も第二次大戦以前にもドイツに支配された時代があった。その頃は「チェコ語」は公には使用できず、チェコ音楽を演奏する場所もなかった。すべてドイツ音楽、ドイツ語中心であった。そういう中で、チェコ国民が金を出し合って国民劇場を建て、スメタナの曲を演奏した。だから此処は「チェコ・ナショナリズム」のシンボルなのである。ドイツに支配された苦しい時代も金を出し合って、また落成直前の火事にもめげず劇場を建てる国民はすごい。 私は「モルダウ」を口ずさみながら、「モルダウ」河岸をゆっくり歩いた。やっと「会えた川」なのだ。チェコ国民はこの川、この曲をたいへん愛しているという。それはそうだろう。ドイツに奪われた「わが祖国」に住んでいても、この曲「モルダウ」が精神的支柱であったに違いない。日本人には分からないチェコ国民の悲哀はまた、大国に挟まれた他のヨーロッパ小国民のそれでもある。ロシアに支配されていたフィンランドの作曲家シベリウスの「フィンランディア」もずっと国民から愛されたという。 スメタナ博物館は川岸の一等地にあった。スメタナの愛したモルダウ、そしてそのスメタナを愛したここの国民、これがここにあって当然の場所なのだろう。また実際彼はここに住んで「売られた花嫁」を作曲した。建物の前で彼の像が川の上流を見つめている。その方向には、「我が祖国」に出てくる「高い城」がある。残念なことに、博物館は二階だけが入場可能であった。昨年2002年の「ヨーロッパ中部大洪水」で床上浸水し、地下と一階はいまだに修復中であった。 →スメタナ博物館 川に架る有名な「カレル橋」(英語名チャールス・ブリッジ)を渡る。ここは歩行者専用である。この古い石橋は遠くからでも近くからでも絵になる。橋のたもとの「旧市街橋塔」上から見る景色は、三百六十度がすべて美しい。映画「アマデウス」の世界である(注:ほとんどこの町でロケをした)。川向こうの丘上にある旧王宮は、それがなければこの町の景色が成り立たないくらい存在感があった。ある朝起きて城がすっかりなくなっていたら、きっと市民はおおいに慌てることだろう。 橋の両側の手摺り部分には、キリスト教の聖人像がずっと並んでいる。あのフランシスコ・ザビエル像もあった。また通路の中央部分以外には、自分の絵を売る人、客の似顔絵を描いている人などがつづいている。こういうところも、プラハが「芸術の町」である証であろう。この町はフランツ・カフカなどの作家、モーツァルトなどの音楽家に愛された町なのだ。 →ヴルタヴァ川(モルダウ川) 橋を渡ると見上げるような城門があり、入ると城郭内の雰囲気が出てくる。ここは観光客も多い。狭い石畳を登ってゆくと、中央の聖堂の尖塔を囲む王宮が迫ってくる。このフラッチャニの丘上からは、川を挟んでプラハの町をほとんど望むことができる。右手山際にはアメリカ大使館も見える。正門の衛兵は、観光客がカメラを近づけてもピクリともしない。定刻になると、石畳の道を衛兵たちが巡視して回る。(左写真)本当にいい雰囲気である。 反対側の城門から川に向かってだらだら降りてくると、橋の向こうに「芸術家の家」が見える。私はここのチェコ・フィルが大好きで、何十年も聞いてきた。1968年のあの「プラハの春*」からしばらくして、岡山市民会館でヴァッーラフ・ノイマンの指揮でドヴォルジャックの「新世界から」を聞いて、その素朴な民族性と弦の美しさに打たれていた。ぜひとも当地滞在中に、本拠地のホールでチェコフィルが聴きたかった。前売り券を買おうといそいそと橋を渡ったが、残念なことに夕方も黄昏になっていて、事務所の窓口もとっくに閉まり人気もなかった。また明日挑戦することにした。 そこから旧市街地へ向かって歩いた。この辺りは古い建物が18世紀のまま残り、自動車さえなければタイムマシーンで移動してきた雰囲気さえあった。そういうところには、特産のチェコ陶器屋や土産物屋、レストランなどが軒を連ねており、操り人形(パペット・マリオネット)だけを扱う店もいくらかあった(左写真)。また近くには、マリオネット劇場もあり、ポスターには「今夜の演目」も書いてあった。なんと「ドン・ジョヴァンニ」だった。どのように演技するのか見たかったが、頭の中はチェコフィルでいっぱいで次回のために残した。 「当地の人形劇は大変さかん・・」−と観光案内書は言う。ドイツがチェコを支配していた頃、ドイツはチェコ語の使用はもとよりチェコ文化=演芸、劇などを禁止していた。言語、文化はその民族のアイデンティティーの源だからである。だから公にはチェコ語は使用できなかったが、たったひとつ例外があった。それが人形劇であった。ここだけはチェコ語が使えた−というのである。つまり、人形劇がチェコ人のアイデンティティーであり、愛国心を発揮できる数少ない場所であったのだ。当然「政治風刺」もあったであろう。「たかが人形劇」といってはいられない。 私はここで日本の「朝鮮半島支配」を思い出した。日本は1910年に半島を植民地にして以来、朝鮮語の使用、朝鮮名の使用を禁じ、学校でさえ日本語を強要した。その結果、朝鮮民族の愛国心は高まり、「反日」気分はさらに強固になった。またフランスは、北アフリカのアルジェリアで、国民にアラビア語の使用を禁止し、フランス語を押しつけた。イスラム教も弾圧された。文化もフランス式を強要した。これがアルジェリア人の心に、ナショナリズムを植え付けた。弾圧すればするほど、被抑圧者の愛国心を増大させることになる−というのは世界の歴史で共通なのである。「世界の大国」はこの「歴史の教訓」を十分学習してはいない。 こういうことを考えている間にも、あたりはどんどん暗くなってゆく。ポーランドほどではないが、やはり犬のソレがけっこう路上にあるのが、私には「怖かった」。そこでスーパーで、アメリカビール「バドワイザー」のご本家ビール*と今夜の食料を買って、そそくさと宿に戻った。 |