第十一日目 「メシ」も出ないのか?国際線!
<腹の立つプラハ空港地上職員>
プラハ空港に吊り下げ展示してあるプロペラ双発機
アエロフロートTu154M
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朝、ペンションの鍵をオーナーに返し、地下鉄A線で終着Dejivickaに向かう。地上に出ると、そこにバス停があった。市バス119番で空港に到着する。プラハ・ルジニエ空港は大きくも小さくもない規模だが、周りには何もなく、さびしいくらい大変シンプルだ。
万が一のことを考えて2時間半も前に着いてしまったが、早速「オーストリア航空(OS)」のカウンターを探す。早く重い荷物を預けたかったのだ。入国する時はなかった多くのビールが重さを増していた。しばらくして見つけたOSデスクは、なんと「ルフトハンザ・オフィス」に間借りをしていた。たった一人いた女性にティケットを差し出すと、「ここは航空券発売だけでチェックイン・カウンターではありません。32番に行ってください。」
やっと私が間違ったデスクに行った訳が分かった。この空港では、他国のような「エアライン専用のチェックイン・カウンター」はなく、何処の会社のでもチェックインできるのだ。上の表示板に行先の表示が出るだけだ。32番にはまだ表示は出ていなかったが、言われた通り「オーストリア・エア、ウィーン」と言って券を出しかけた。すると女性は胡散臭そうに一瞥して、「ここではない。28番だ」と後ろを指さす。
そこで背中合わせの28番にまわると、そこには「ドバイ行き」と表示があり、頭にターバンを巻いた男達がたくさんの荷物と一緒にならんでいた。ここはどう見ても「ウィーン」ではない。雰囲気は完全に「アラブ世界」だ。それにしても、同じアイランドで背中合わせのカウンターを間違えるものなのか?!
仕方なくもとのオーストリア航空・デスクに戻り、始終を話した。すると、彼女は「そんなこと、何番がそういったのだ?」と訊く。「貴女が教えてくれた32番だ。」というと、彼女は席を立って私について来いと身振りをする。
彼女は早足で32番に行き、件の女性にややキツイ口調で尋ねている。しかし相手の彼女もゆずらない。「早いからまだ受け付けていない」とでも言っているのだろうか?二人の言い合いになった。しかしチェコ語なので、内容は分からない。最後にOS女性は振り向いて私に言った。「このとなりのカウンターでチェックインしましょう。」気のせいか、その後(この人と話しても、しようがないわ)と言ったように聞こえた。
OSの彼女にお礼を言って、隣のカウンターで航空券とパスポートを出した。ここの若い女性は大変感じのいい人で、いやな顔ひとつせず丁寧に説明してくれた。隣なので、コトの一部始終は知っているだろう。そして優しくニコリとして、「よい旅を」と言った。それにしても、感じのいい女性だった。旅先で「オジさん」は「束の間の片思い」をしてしまう。
私の手続きの最中に、例の女性は怒った顔でぷいと席を立ってどこかに消えていた。こういうことは、「杓子定規的社会主義官僚的体質」なのか、ただの「不良職員」なのか、それとも「有色人種」が嫌いなだけか、朝に彼氏とケンカしただけなのか、ちょっとオジさんをからかって見ただけなのか−は分からない。まことに女性職員は「当たりはずれ」が大きい。
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プラハ−ウィーン間のチェコ上空で
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さてチェックインして身軽にはなったが、建物外には店も何もなく、中も小さなレストランと土産物屋くらいで、めぼしい店はない。この国の貨幣-コルナはもと「社会主義」の金で、他の国では通用しない。交換もままならない。そこで旅行中は二日に一回は少額を交換し、残らないようにしてきた。だから空港で替える金もない。ポケットはコインだけだ。(コインは両替できない)
この国もまもなくEUに正式に入るらしい。ポーランドも同様だ。今までヨーロッパを旅していて、いつも「換金」には悩まさせられていた。それに替えるたびに、どんどん「目減り」してゆく。これが共通通貨「ユーロ」一種で旅行できるのは大変嬉しい。ただ、いままで物価の安かった「旧社会主義国」の物価の値上がりが心配である。
早めに搭乗待合室に行ったものの、テレヴィと椅子があるだけで他には何もない。客も係員もいない。売店も立ち飲みコーヒー店も一切ない。わたしの町の田舎の空港にだって、ファーストフッドと土産物コーナーくらいはあるのに・・。「旧社会主義」の国はサーヴィス関連設備やインフラ(社会資本)の整備が極端に遅れている。それに「サーヴィス」という概念がもともとない。中国国営航空のアテンダントもそうだった。社会主義は全員が公務員で、「公務員」は英語に訳すと「シヴィル・サーヴァント(公僕)」というのであるが・・。
待合室から外を見ると、日本やアジアでは見かけない飛行機が見られる。旧ソ連製ツポレフTu154M(上写真)などもそうである。また「イラク戦争」の影響か、空港内には装甲車もポツポツ見え、自動小銃を持った兵隊が警官とペアで巡回している。
ウィーン行きは案の定、ウィーン-ワルシャワ間と同じティロリアン航空の小型双発プロペラ機であった。本当に「実用的」な機体である。OS5706便はプラハ11時56分発、機体が水平飛行に入ってしばらくして、ワゴンが出てきた。ちょうど正午をまわって空腹になってきていた。まず「ビール」を注文した。しかしビールがすんでも次のワゴンが来ない。そうこうしていると、「気流が悪いのでベルトを締めてください」とアナウンスがあった。すぐに落ち着き、やれやれと思っていると、次のアナウンスがあった。「この機はウィーンに向かって高度を落としています。ウィーンの天候は晴れ、地上の気温は・・・・・。」「おいおい冗談じゃないよ。いったい昼飯はどうなったんだ?!!!積み忘れたのか?日本の国内線だって、サンドイッチくらいは出るぞ!!」こうして、失意の内に、12時45分ウィーン・シュヴェヒャート空港着。真昼の国際便でランチなしの貴重な初体験、ははは(自棄の笑)。
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フォルクス・オーパー(ウィーン) |
ウィーン空港は何度も来ていて、慣れている。取りあえずハンバーガーで空腹を凌ぐ。T/Cをユーロに替え、下に降りて*プラットホームで切符を買う。ウィーン市街までの短い距離は、「ユーレイル・イースト・パス」使用はもったいない。(ちょっと乗っても「一日扱い」となる)
少し脱線するが、どういうわけか今回使った東欧用の「ユーレール・イースト・パス」には、オーストリア全域が含まれている。逆に言うと、有名な西ヨーロッパが回れる「ユーレイル・パス」には、オーストリアが含まれない。だから、列車で東ヨーロッパに向かう人は、ウィーンから出るのがよい。
もう迷わず、予約してあるハーモニー・ホテルに直行できる。重いリュックを部屋に置き、直ぐさまデイバッグで外出する。残った日にちは、今日と明日だけだ。ゆっくりしてはいられない。歩いて「ヴェーリンク通り(ヴェーリンガー・シュトラッセ)」を上がる。けっこう距離はあるが、そこは二度目、迷うことはない。
やがて写真の「ウィーン・フォルクス・オーパー」が見えてくる。この劇場も歴史が古い。オペレッタといった軽い作品は、長い間ここで上演され、大規模なオペラは「シュターツ・オーパー(国立劇場)」でされてきた。しかし案内板の演目を見ると、現在では大きなオペラもしているようだ。上演傾向が変わったのだろうか?しかし、今回もここは観賞できない。
*ウィーン空港は最下階が鉄道駅になっている。 |
旧ヴェーリンク墓地正門(現在は廃止閉鎖)(ウィーン)
旧ヴェーリンク墓地(現シューベルト公園)の
ベートーヴェンとシューベルトの最初の墓
(ウィーン)
ヴェーリンク通りの学生による「イラク反戦デモ」(ウィーン)
シューベルトの生家(現博物館)(ウィーン)
Schuberts Geburtshaus
ヌスドルフ通り54番地、Nussdorfer Strasse 54
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ヴェーリンク通りは大変長い通りである。ヌスドルフ通り(後述)を越えて、さらに真っ直ぐ進む。フォルクス・オーパーから1kmもあるだろうか、左手に大きな高い木が見えてくる。その向こう左上に塀に囲まれた墓地正門が見えてくる。しかし、そこは鍵がかけられており、「入場希望者は連絡してください」と札があった。内部には大変古い墓が木々の中に立ち並んでいる。しかしそこにベートーヴェンとシューベルトの最初の墓がある訳ではなく、その裏側の小振りの公園内に左下写真の二人の大作曲家の墓がある。 ベートーヴェンとシューベルトの関係については、拙著「ウィーンの墓」に少々書いている。
実は二人の「墓」といっても、すでに骨はない。ここの「墓地」もとっくに閉鎖され、記念のためこのオリジナル墓碑のみを残して中央墓地へ改葬された。従って現在、ここの正式名称は、「シューベルト公園」である。このあたりはアパルトマンが多く、犬をつれたご婦人などが散歩をしていた。「墓」がなければ、ただの小公園に過ぎない。
昼過ぎからの行動なので、夕方が近くなっていた。急いで「シューベルトの生家(博物館)」に向かう。ところが、ヴェーリング通りとヌスドルフ通りの交差点付近で、大きなデモ隊に出会した。学生中心の「イラク戦争反対」のデモであった。CNNテレヴィでは、この国のみならずドイツフランスなどでも、デモが起こっていると報じていた。まわりには警官隊も取り巻き待機していたが、学生達はいたって穏やかで、荒れる様子ではなかった。
ヌスドルフ通りを何ブロックも歩いてゆくと、右手の54番地に写真の生家が見えてくる。午後4時前だったので、入るやいなや「もうすぐ閉まるけど・・・」といわれたが、1.8ユーロを払って中に入った。見かけ通り小さな家で、部屋の数も少なく、また二階のみの展示も意外なほど少ない。すぐに見終わった。
また早足でとって返し、U6電車に乗って更に二度乗り換えて、カールスプラッツ駅で下車する。アントニオ・ヴィヴァルディの墓があった所(旧ゴッテスアッカー墓地)を探すためであった。この墓地は大昔に廃止となり、現在は「ウィーン工科大学」が立っている。
何人もに訊いて、古い建物を探す。守衛室のオジさんに、下手なドイツ語で訊ねた。「ああそれなら、出て右の壁だよ・・」とオジさんはいとも容易く言った。時々クラシックファンが訊きに来るのだろうか?すぐに見つかった。あっけなかった。
(詳しくは「ウィーンの墓」の説明を参照されたい)
工科大壁面にあるヴィヴァルディ記念碑と筆者
「ここにヴィヴァルディの墓があった」と説明
こうしてチェコから飛んで、またウィーン市内を急いで見て回ったので、疲れが出てきた。そこで、ウィーンに来るたびに食べる大好きな「シュニッツェル」と地ビールと大皿のザラートで疲れを癒した。「うーん、シュニッツェル美味いなあ!このサクサク感が最高!」ささやかなシアワセの一時であった。
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第十二日目 誰も知らない?
「大指揮者」カール・ベーム!
もとウィーン国立歌劇場音楽監督
並ウィーン・フィル名誉指揮者
ウィーン、グラーツ、ザルツブルク各名誉市民
カール・ベーム博士
(Dr. Karl Boehm, dirigent, musik direktor)
グラーツ中央駅からシュタインフェルト墓地までの道順
"Eggenberger Guertel"を下って右折、踏切渡って左側
墓地の衛星写真と地図(Google)
故カール・ベーム博士の墓
(代々墓で妻だけでなく家族も合葬)
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いよいよ帰国前日、今日は少し長旅だ。早めに起きて、市街電車で町を突っ切り、ウィーン南駅(Sud
Bahnhof)に着く。この駅は中央駅とは雰囲気が異なる。イタリアなど南に向かう駅らしく、明るく開放感がある。
0857発のEC"CarloGoldoni"に乗車した。1058のBruck/Mur駅でグラーツ行きに乗り換えるだけで、あとは目的地グラーツである。空いているコンパートメントを探して通路を歩くと、女性が一人だけいる部屋があった。そこに座っていた女性が、大阪の小学校教師「でこ」さんであった。
旅行大好き人間、小学校教師「でこ」先生
ウィーン出発から2時間半後、「でこ」先生とグラーツ駅で別れた。「でこ」先生はもう行く先は決まっていたが、私も真っ直ぐ「シュタインフェルド墓地」に行きたかった。とにかく「長年の懸案」を果たしたかったのだ。
今からちょうど20年前、初めてウィーンの中央墓地に行ったとき、ベートヴェンやモーツァルトの墓に献花をしてから、ウィーンフィル名誉指揮者だったベームの墓を探した。ところが探せどさがせど、それらしいものはなかった。彼は数年前になくなっていたが、「ウィーンフィルだからここの墓地のはず」と勝手に思いこみをしていた。これはあとで彼の故郷のグラーツにあることが分かって悔しい想いをした。
数年前に調べてみると、我が愛用の「地球の歩き方ウィーンとオーストリア」には、簡単に「カール・ベームはグラーツの出身」としか記述がなかった。そこで「墓大好きオジさん」がつぎに見たのは、愛用の「Find-A-Grave」だった。この「超優れものサイト」には、ベートーヴェンやウィーンフィルの元コン・マスのボスコフスキーの墓はあるのに、ウィーンフィル元指揮者のベームが載っていない!。これはおかしい!このアメリカのサイトは、ややヨーロッパ関係の密度が薄く、バランスを欠く点がある。「オーストリア政府観光局公式サイト」も調べたが、記述はない。これも不思議だった。
当時は「飛ぶ鳥を落とす」人間も、死んだらいつの間にか忘れ去られてゆく。母国でさえそうなのだ。仏教の「諸行無常」の世界だ。一ファンとしてはさびしいことだ。まあCDが残るから、彼の足跡(生きた証)は残るけれど・・。結局はヨーロッパの音楽関係サイトで、「シュタインフェルト墓地に埋葬」ということが分かった。
そういう経緯があったので、「まずは観光案内所」と思い、市庁舎横にある[i]に向かった。さすが観光都市の案内所だ。若い女性でも「シュタインフェルト墓地」は心得ている。流暢な英語で地図の上に丸印を書きながら、「電車で駅まで帰って、この通りをこちらへ歩いてください。・・」とこともなげに言った。それにしても、外国人で私のように「墓まで行こう」という人間は少ないらしかった。
電車で駅まで戻り、迷いながらも駅前の通りを下って、また「ベームを知らない」取りすがりの数人に訊きながら、やっとシュタインフェルト墓地に「到着した」。ところが、開いていた小さなドアに入っても、何処にその墓があるのかすら分からない。見取り図も案内板も何もない。これは明らかに、ウィーン中央墓地とは違う。
そこで墓参りをすませて通りかかった自転車を押す老婆に訊こうとした。ところが私が「スミマセン・・」とドイツ語で訊こうとすると、「ダメダメ、どきなよ!私は忙しい。あんたの相手はしないよ!」という感じで、怒気を含んで大声でヒステリックに叫んだ。一瞬訳が分からなかったが、つぎに来たご主人らしい老人に尋ねようとしたら、また「Nein
!Nein!・・ ! !」と怒鳴られた。私は今までこの国で、老人にこんなに「邪険」にされたことはなかったので、訳が分からずしばらく茫然と立っていた。だいたいこの国の老人は英語は話さないが、優しくておっとりしていて親切で好きだったのだ。
しばらくして気を取り直した。「とにかく端から探してゆこう。有名人なのだから、きっと墓は大きいに違いない。このまま帰ったら、きっと後悔するから・・。」と考えた。そこで墓地の端の壁沿いから見ていった。途中で墓参りの中年男性に声をかけてみた。彼は少しだけ英語を話した。「むかしウィーン・フィルで指揮者をしていたカール・ベームを知りませんか?」「知らないナアー・・・」ドイツ語の「¨」ウムラオトの音は難しい。いろいろ発音を変えて言ってみた。しかし結果は同じだった。
彼は「今日は日曜日だから、あの向こうの管理事務所が閉まっている。明日来れば、そこでいろいろ訊けるよ」と言って、10mほど向こうの墓に行ってしまった。私がふと顔を上げると、「BOEHM*」の字が目に入った。「あった!見つけた!」思わず大きな声が出てしまった。なんと、その墓の前で訊いていたのだった。!!
*BOEHMの本当の綴りはBOHMのOの上に¨(ウムラオト)がつく
それにしても、さっきの中年男性は、少し先の墓で花束を子どもに渡している。「あの様子だったら、ここには時々来ているだろうな。それでも名誉市民の墓も知らないのか?まあ私でも、日本で近所に誰の墓があるのかしらないものなあ。クラシック界ではベームは日本の小沢征爾より「実績」のある人だ。将来同じ条件だったら、多分そこの日本人は彼の墓を知っているだろうな・・・。」いろいろ考えながら、歩いて駅に戻った。「彼は故郷でも知られていないなんて・・」と、少しさびしい気がしていた。
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グラーツの市庁舎とヨハン大公像
オーストリア・ハプスブルク家
最強の女帝・マリア・テレジア(テレサ)
(ヨゼフ二世とマリー・アントアネットの母)
グラーツの兵器博物館"Zeughaus"
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また駅から電車で旧市街に戻る。ここは「世界遺産」に指定されているくらい小綺麗な歴史いっぱいの地区だ。市庁舎前で電車をおりると、そこはハウプトプラッツ(広場)である。観光がこのたびのメインではないので、中心部だけを一歩きすると、「世界最大の武器博物館」といわれる"Zeughaus"に入った。
とはいっても、ここに戦車、戦闘機などの現代兵器は一切ない。中世の甲冑や槍、火打ち石(フリント・ロック)式鉄砲が無数に展示されている。これには圧倒される。建物も当時のママらしい。木製の階段廊下が軋む。あのマリア・テレジア女帝の肖像があった。
わたしは西洋史がとくに好きなので、「女帝」といわれる人の本も少しは読んだことがある。この人の他、エリザベス一世(英)、エカテリーナ二世(露)の話も面白い。東洋でも則天武后、西太后(中国)や孝謙天皇(日本)なども「チャーミング」だ。「悪女」と言われるほど面白い。むかしの女性もなかなか捨てたものではない。
さてマリア・テレジアの息子ヨゼフ二世(映画アマデウスにも登場する)は優れた皇帝であったが、娘のアントアネットは「世間知らずのお姫様」で育って仏蘭西のルイ16世に嫁ぎ、フランス革命の発火点にもなってしまい、ギロチン台の露と消えた。気の毒とはいえ、時代の流れであろう。現在の世界の王室を見れば分かるが、人民の動向に疎いまた「閉ざされた王室」は生き長らえないのだ。そういう意味では、マリア・テレジアは我が子の教育に「失敗」したとも言える。
いずれにしても、この時代が「オーストリア帝政」にとってもっともよい時代で、後になるほど対外戦争に負けたり、皇太子が暗殺されたり、労働者の暴動が起こるようになる。ここはそのいわば「絶頂期」の片鱗が伺える博物館なのである。左の写真で分かるように、そのコレクションは「すごい!」の一語で、保存状態がすばらしい。甲冑が光り輝いている。ハリウッドがスペクタクル映画製作のために武具馬具を借りに来ても、十分間に合うであろうほどだ。(勿論貸しはしないが・・。)
それにしても、ここの女性スタッフは素敵だ。微笑みも言葉も対応能力もこなれている。わたしは博物館、美術館巡りが大好きだが、残念ながら日本の博物館女性スタッフは「まだまだ」という感じがしてならない。(日本の男性スタッフが良いという意味ではない。)彼らは簡単に言うと、プロである。外国人の質問にも、英語で的確に答えられるし、目が合うとかならず微笑みながら声をかけてくれる。日本人はこの「微笑みながら」というのが苦手である。日本の博物館だと、椅子に座って「監視」はするが、対話はなくただ所在なさげに座っている。何が違うのだろうか?
グラーツ観光局日本語サイト
(町の三カ所から画像生中継・リンク)
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スイス・オーストリアで多い自動車輸送列車
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ウィーンへの帰りの列車は1423発である。ここグラーツでの滞在時間は、本当に短い。本来なら何日もいたい場所である。また途中で乗り換えて、自動車輸送貨車(左)の付いた列車でウィーン南駅に1702に到着した。
自動車輸送貨車は、以前スイスでレンタカーを借りた時に、乗ったことがある。アルプスの国では、ドライヴマップに載っていても、まったく道路がない(切れる)ことがある。代わりに、車を列車で運ぶ。ふつうは人間は客車に乗るのだが、その時は車に乗ったまま貨車に乗った。景色は大変よかった。これは得難い体験だった。
ただ、本日はこれで終わりではなかった。まだ「グリンツィンク墓地」が残っていた。急いで市電に乗った。しかし荷物が少ないので、これでも楽な方だった。
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グリンツィンク墓地のマーラーの墓
彼は作曲家(大地の歌など)だけでなく
ウィーンフィルの指揮者でもあった
弟子が往年の名指揮者ブルーノ・ワルターである
(ユダヤ人だが、「ダヴィデの星」はついていない)
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以前に「ウィーンの音楽家の墓」を書いた時に、回れなかった墓がたくさん残った。今回それをいくつか「つぶしていった」が、その最後に残るのが、市内グリンツィンク墓地のグスタフ・マーラーである。あとはアイゼンシュタットのヨーゼフ・ハイドンとリンツのブルックナー、それにザルツブルクのモーツァルトの父レオポルドとミヒャエル・ハイドンくらいになる。ザルツは以前に二度行ったが、ともに墓地には行かなかった。
南駅から市電Dにのり、ウニヴェルジテート/ショッテントーアで38番に乗り換える。これはグリンツィンク行きで、ひとつ手前の”An
den langen Luessen”で降りる。かなり遅いので辺りは薄暗くなってきている。しかし明日は帰国なので、ぜひ今日見たかった。少し歩いて墓地の正門に辿り着いたが、すでに閉門になっていた。閉まったばかりらしかったが、もう入れない。そこで辺りを見回してから、鉄の門をよじ登った。
最近はフィットネスで絞っているし、筋力もついているので、少々のところはたいてい登れるのだ。こうして墓地の「侵入」に成功した。しかしもう墓の文字も読めなくなっていた。幸運なことに、門わきの人気のない事務所の壁に、有名人の墓の位置が書いてあった。それによるとマーラーは「6−7−1」地区だ。
デイバッグから懐中電灯を取り出し、地区表示を探し始めた。そこに墓参りが延びた老婦人が、暗闇から出てきたので訊ねたが、「よく知らない」と言った。20分ほど探して、やっと左の墓を見つけた。この写真は真っ暗な中で、ストロボの光だけで撮ったものである。こうして仕事が済み安堵した私は、ホテル近くの安レストランで、美味しいビールとディシュにありつけたのであった。長い一日ではあった。
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