中央墓地 (2) Zentral Friedhof(2) 「32Aブロック」の中心部分の「名誉墓」たち

 ベートーベン  L.v.Beethoven           モーツァルト  W.A.Mozart           シューベルト  F.Schubert
上写真:墓番号54からみたようす
 (筆者注) 上記3つの墓はもともと他所にあったのを移転して設置されたものである(モーツァルト以外は有骨) ベートーヴェン、シューベルトはヴェーリング通りの現シューベルト公園(旧ヴェーリンク墓地)から、モーツァルト「記念碑」はマルクス墓地からそれぞれ移転


ルートヴィッヒ・ファン・ ビートホーフェン(ベートーヴェン) Ludwig van BEETHOVEN

(墓番号:32a-29)

 すでに述べてきたが、これは最初の墓ではなく移転してきたものだ。しかし骨はちゃんと入っているようだ。前のヴェーリンク墓地にあったときに、頭骸骨の盗難未遂事件があったことは、既に述べた。頭の骨は、早くからバラバラになっていたらしい。墓は元の墓の複製で上部はメトロノーム型、その下に名前があり、土台の部分前面に以下のような記述(彫り込み)がある。

元々ヴェーリンク墓地にあったベートーベンの墓碑は、ヴィーン市の都市拡張基金とヴィーンの音楽ソサエティーであるフィルハーモニカー協会の寄付により、1888年元とそっくりの墓碑が立てられた。
(墓碑銘)
 
 
彼の創造性は ヴィーン古典派の典型からロマン派まで広がり、音楽史の上で、多大な影響を与えることとなった。ひとつのオペラ、9つの交響曲、室内楽、ピアノソナタ、歌曲や諸々の多くを作曲した。1792年にヴィーンに越してきて、アルプレヒツベルガーやサリエリに師事した。1800年頃から耳が悪くなり始め、1815年には完全に耳が不自由になった。(GH)

 1989年に東西「ベルリンの壁」が取り払われた時、それを記念して、第九シンフォニーの歌詞を一部替えて、素晴らしい演奏がなされた。旧東西ドイツだけでなく、アメリカ、イギリス、ソ連からも演奏者が参加し、今は亡きユダヤ人のレナード=バーンスタインの指揮で、感動的な演奏がなされた。何度見て聞いても興奮が伝わってくる。バッハと並んで、最も「ドイツ的」と思われるベートベンも、その名の通りオランダ人の血を引いている。ドイツ統一の式典・祭りに彼の音楽が使われたことは、「音楽は国境を越える」という意味でも、誠に相応しいものであった。      
 
 実はわたしは、この「ベルリンの壁」が取り壊される5年前に、物々しい警戒の「チャーリー検問所」を通って、「東ベルリン」へ行ったことがある。銃弾の残る壁や鉄条網やバリケード、機関銃に囲まれた壁の向こうから「西側」を見たとき、何とも言えない切なさ、空しさが心に残った。それだけに、この出来事について、ある種の興奮と感動と感慨があった。ドイツ民族が再び「いっしょになれる」喜びは、この曲でしか表せないような気がする。


ヴォルフガンク・アマデウス・モーツァルト  Wolfgang Amadeus MOZART
(墓番号:32a-55)

メダルをつけたモーツァルト
(1777年)
 既述のように、ここには彼の骨はない。墓(記念碑・ページ最上部写真の中央)を見ると、あのマルクス墓地にあった1891年の白黒写真の墓と全く同一に見える。丸ごと移転したのであろう。上部は女神像で、真中中央に横顔のレリーフがある。裏に以下のような記述がある。

ヴィーン市により1859年寄贈 1756年1月27日生まれ、1791年12月5日死亡 (墓碑銘)



  
ブルク公園のモーツァルト記念碑
 
 映画「アマデウス」
の中でも、埋葬時は立会人もなく、集合墓に埋められていた。ある説によると、「庶民には当時の習慣で、特に不思議ではない。」と書かれていたが、他の有名作曲家の墓が特定されていることからいうと、いろいろな説はあるが、やはり不思議で「永遠の謎」と言わねばならない。

 
記念碑・・この碑は1859年にヴィーン市によって彫刻家ハンス=ガッサーに制作を依頼された。最初はマルクス墓地にそえつけられたが、1891年に移築された。この偉大な音楽家の骨は、未だにマルクス墓地に埋められている。モーツァルトのものと思しき頭蓋骨は、ザルツブルグのモーツァルテウムにある。  (GH)

  
(筆者注)モーツァルト関係の保存等を目的に作られた財団。音楽院もある。 ザルツブルグの「生家」もここの管轄である

 わたしのもっとも愛する作曲家である。何度生まれても大好きだと思う。彼の曲は毎日聴く。と言うか、毎日聞かないと一日が終わらない。彼の曲の魅力については、古今東西偉い先生方が、指摘を しているのでここでは書かない。ここ10年ほど、私は彼の曲の
第二楽章の美しさに惹かれている。クラリネットのであろうが、フルートとハープのであろうが、ピアノのであろうが、彼の協奏曲は全てそうである。まさに、「天上の声」のような気がする。これらは、本当に「神に愛された(アマデウス)」人が作ったものだ。「レクイエム」も好きだ。弟子のジュスマイヤーらが構成加筆したといわれ、また他の版もいくつかある。しかし百歩譲って、いくらかの断片を彼らが繋げたとしても、あの曲のあの響きは正しくモーツァルトのものだ。

 しかし同様に、他の作曲家の数多くの「レクイエム」もまた、こころや霊がいっぱい詰まっているような気がする。例えば、フォーレのそれは、静寂の中でこころが清まり天国へ一歩近づく「鎮魂曲」だが、ヴェルディのそれは、心からの叫びが激しい感情を巻き起こすような気がする。上の三者は大変な違いはあるのだが、それぞれが捨て難い魅力を持つ。

(筆者注)妻コンスタンツェ、両親の墓はザルツブルグのザンクトペーター寺院の墓地に存在する

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モーツァルトとつながりのあったヨーゼフ二世
(妹がマリー・アントアネット)


皇帝の居所・ホフブルグ宮殿(ウィーン・筆者写)
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フランツ・ペーター・シューベルト  Franz Peter SCHUBERT
(墓番号:32a-28)



 すでに述べたように、ベートーベン同様、ヴェーリンク墓地よりの移転である。長方形を立てた形で、女神のレリーフの下に名前、そして土台の部分に以下のようにある。なお、町中の市立公園(Stadtpark)には、シューベルト座像*がある。
  
ヴィーン男性声楽協会が彼の記念のために
 (墓碑銘)



 彼は芸術的歌曲を新しい方向へ導いたことにより、古典主義のロマン派として、また正当な歌曲のプリンスとして、音楽史の中に出現した。彼の人生のスパンは短かったが、600以上の歌曲、8つの交響曲、7つのミサ曲、15の弦楽四重奏曲、そして舞曲、ピアノ作品を遺した。    (GH)


 私は彼の歌曲を聴くと、心が優しく穏やかになる。就中、
「美しき水車小屋の娘」が好きだ。バリトンよりもむしろテノール(わたしの場合は、エルンスト=ヘフリガー)で歌ったのが、若者のこころがときめく様な感じがでてよい。聞く度に、自分の若い時代の甘く苦い恋を思い出す。また亡き父が、新婚時代に亡き母と毎日聴いていた曲でもあったという。

 
(筆者注1)既述のように、シューベルトの墓はヴェーリング通りの現シューベルト公園から、ベートーヴェンとともに移転してきた
(筆者注2)この他のシューベルト関連は「生家」がNussdorferstrasseに、「最期の家」がU4:Kettenbruekengasse6,Wien」に、また下の市立公園に像がある(下の写真・囲み参照)


市立公園のシューベルト像より転載)
(参考:ウィーン市公式サイト:市立公園 英語/他はドイツ語)


 (付録)
  ウィーン市立公園の記念碑と彫刻等
 ”Denkmaler und Skulpturen im Stadtpark”

Strauss
Johann Strauss-Denkmal

(34-KB-JPG)
Der Stadtpark ist heute der an Denkmalern und Skulpturen reichste Park in Wien. Hier eine Auswahl: das wohl am meist fotografierte Denkmal Wiens - der vergoldete Johann Strauss,Webcam Johann Strauss, (Kopien dieses Strauss-Denkmals stehen seit der Expo 1990 in Osaka-Japan, seit der Expo 1999 inKunming-China und seit Marz 2002 inHavanna),Denkmaler vonFranz Schubert, Franz Lehar und Robert Stolz,Mamorstandbild des Malers Hans Makart im Festzugskostum von 1879, Bronzebuste des Komponisten Anton Bruckner, Bronzebuste des Wiener Burgermeisters Andreas Zelinka, unter dessen Regierung der Stadtpark gestaltet wurde, usw.

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