思い出そうとして忘れられない宿
(おもいでの宿とホテル)
"Unforgettable" Accommodations



 「ゴキブリの宿」(フランス・マルセイユ)  2 「ノミとシラミ」の宿(アルジェリア・ガルダイア)

1 「ゴキブリの宿」(フランス・マルセイユ)


 マルセイユといえば、日本とも大変つながりの深い港町である。なぜなら、飛行機もない幕末から明治、大正、昭和初期まで、日本人がフランスのみならずヨーロッパに渡る時、最初に船で入港した町なのである。彼らはここから汽車または馬車でパリに向かったのだ。歴史上の日本人もすべてこの町を通過した。またフランスにとっても大変重要な町で、アフリカを植民地にしていた頃、商人も農民も軍隊もここからアフリカへ出発したのだ。
マルセイユ旧港・在フランスマルセイユ日本総領事館HPより転載
 
 そういう町に私たちも行った。私たちがアフリカのアルジェリアに赴任した年の7月12日イスラムの重要行事ラマダーン月の断食連休を利用してマルセイユに出た。4月に赴任したばかりで、まだ3ヶ月しか経ってなかったが、現地の商社の世話でフランス車を購入する手続きをしていたので、どうしてもフランスの銀行へ行く必要があったのである。不思議な話であるが、アルジェリアの銀行からフランスに送金ができなかったのだ。アルジェ生活が長い日本人の話では、以前にある日本人がヨーロッパからアルジェの銀行に送金をしたら、金が行方不明になったとか、社会主義国なのである日突然「送金制限」が変わったとかいろいろエピソードがあった。

 こうしてわたしたちは、先任のSさんといっしょに、アルジェから地中海を50分でひと飛びしたのだった。やはり3ヶ月ぶりの「先進国」は町の色彩、物量とも違っていた。空港からバスで町まで来て、それからタクシーに乗った。ところがタクシーの運転手は、紙に書いたホテルの名前と住所を見て、さかんに首を傾げていた。そのホテルを知らないらしい。紙に書いた大通りまできて、停車していた仲間のタクシー運転手数人に聞いて回っているが、みんな「知らない」と言っているのだ。私たちはだんだん不安になっていった。「アフリカから初めて出てきて、今夜の宿がなかったらどうしよう!」そんな気持ちが募っていった。ところが、最後に尋ねた運転手が「あそこでは?」と指し示したところに薄汚れた看板があった。それがなければ、ただの古い汚い住宅であった。

 なぜこんなホテルになったかの説明が少し要る。その当時、私たちの「給料(生活費)」は東京からパリの東京銀行(現東京三菱UFJ銀行)に入っていた。前に書いたように、アルジェリアの銀行は問題があったから、大使館の職員の給与さえもパリの銀行だった。ところが、私たちはまだ2、3回しか給料をもらっていないのに、大家さんに家賃半年分を先払いしたり、車の代金をキャッシュで前払いしなければならなかったのだ。それで日本から貯金をすべて解約して、フランスフランT/Cに替えて持参していたのだった。だから当時、私たちはお金をあまり持っていなかった。とても「普通のホテル」なんぞに泊まれる経済状態ではなかった。「バック・パッカー」が使う安宿の本を日本から持ってきていて、「安い」という理由だけでハガキで予約していたのだった。

 すっかり前置きが長くなったが、その「インペラトール」ホテルの壊れかけたブザーを何回も押すと、やっと家事の最中のような太った中年女性が怠そうにドアを開けた。彼女に続いて、狭い階段を三階まで上がってゆくと、私たちの部屋はあった。ところが驚いたことに、その部屋には「先客」がいた。半裸の彼は寝ていたベッドから飛び起きると、女主人の叱責を背中で聞きながら、悪びれもせず悠然と出ていった。そのあと彼女は二言三言いうと、部屋を出てゆこうとした。

 尋ねたが、部屋の鍵はないと言った。剥げかけた床に荷物を置いて「浴室」に入ると、浴槽はなくシャワーだけだった。ところが、シャワー室のカーテンがない。レールと輪っかはあるのだが・・。もしやと思ってシャワーのつまみを回したが、冷たい水が数滴出ただけだった。こうなると、私もだんだん肝が据わってくる。妻と「どうせ2泊のことだ。メチャ安だから・・。」とあきらめることにした。それにその頃は、妻もわたしもフランス語はまったく話せなかったので、「文句」のひとつも言えなかった。

 Sさんに聞いても、部屋の様子はやはり同じようなものだった。それよりも、「銀行送金や振り込み」のことで頭がいっぱいだった。翌日、銀行では時間はかかったが、妻が英語で窓口嬢と延々と渡り合い、何とかT/Cを使っていろいろ「処理」ができた。「肩の荷」が下りると、アフリカに無い生活用品を少し探し求めた。「海一つ」でこんなになぜ違うのか不思議な気がした。

 夜は流石に大通りに面するホテルらしく、一晩中車が行き交い、五月蠅くてよく眠れなかった。ベッドのシーツも何日も替えてない様子で、どうにも気持ちが悪く、服を着替えずにそのまま寝た。翌朝、私は旅行バッグに手を入れかけて、腰を抜かさんばかりに驚いた。中からゴキブリが飛び出してきたのだ。ジッパーは閉めてなかった。それも一、二匹ではなかった。十匹以上が一挙にどっと飛び出したのだった。そしてあっという間に、四方八方に逃げ去った。19年経った今でも、そのシーンはよく覚えている。

       
                       



2 「ノミとシラミ」の宿(アルジェリア・ガルダイア)





サハラ最大のオアシス・ガルダイアのイメージ
               
 サハラ砂漠最大のオアシスと言われる「ガルダイア」は、地中海岸の首都アルジェからアトラス山脈を越え、ステップ(乾燥草原)、土漠、砂漠を延々と横切って約600km南にある。サハラにありながら、外国から直行便が飛来し、中心部には交通信号さえあるまさに「都会」であった。ここの目抜き通りを歩く人間の半分は、エトランジェ(異邦人)である。私たちがここに来るのは、二回目。最初に来た時は、職場のメンバーとその家族の十人以上で、いわば「社員旅行」であった。しかも事前に商社の方のご厚意で、この町最高級の「ロステミデス」という三つ星ホテルに予約してもらっていた。清潔でなおかつ安心して「エキゾティズムやサハラの雰囲気」を味わいたい外国人は、たいていこのホテルに滞在していたのだ。

                        昔の旅のイメージ


 二回目は、私たち夫婦だけでドライヴした。しかし今回は事前にホテルの予約ができていなかった。ホテルの電話番号は分かってはいたのだが、アルジェからかける長距離電話は、いくらかけてもまったく通じなかった。こんなことは、この国では「日常茶飯事」であった。今のように「E-mail」のない時代だから、企業のもつテレックスしか確実な連絡方法がなかったが、私たちの職場にはそういう便利なものは存在しなかった。しかし私たちは、「ま、行けば何とかなるわ」と楽観的に考えていた。

                          サハラの大砂丘

 少し脱線するが、私たちがサハラにドライヴするのは、決まって秋から春までである。夏は気温が40〜50℃で、地表面は70℃を越えるともいわれていた。ある日本人が試しに、車のボンネットで「目玉焼き」をしたらできた!ともウワサされる季節である。常識的に考えれば、「熱射病か脱水症状」で、どちらか好きな方を取れ−と言われても困ってしまう。しかし冬の時期はいわば「雨期」に当たり、空全体に雲が覆い被さり、一日中肌寒い。そして時には集中的に雨が降るので、「一時的」な湖があちこちにできる。ウソのような話だが、豪雨のため「砂漠で溺れ死んだ人」の話も何回か聞いた。そして夜中には氷点下になり、わずかだが霜も降りる。だから、ふつうこの時期は「野宿」などはできない。「溺死か凍死」のいずれかである。これもどちらも「お断り」である。いずれにしても、どんなにひどくても屋根のある所が要る。
 

                       交通手段・むかしといま


 脱線ついでにいうと、「600km」という距離は、大阪−東京間よりやや遠い。東名・名神高速道路なら、時速100kmとして6〜8時間はかかるだろう。では、サハラのドライヴはどうか?。これが意外と早い(速い)のである。下の写真のように、南部に行く幹線であるから、幅もあり立派とは言えなくても、「完全舗装*1」である。スピードも好きなだけ出せて、平均時速は100kmは可能である。(実際は休憩・昼食・給油を入れるので8時間かかった)私は瞬間的に184kmはだしたことがある。更に良いことは、途中の小さな町でも信号が全くないことと、パトカーが全然いないことである。(当然街中は徐行するが・・)だから好きなだけ「とばせる」のだ。*2 そういうわけで、私たちは朝7時半にアルジェを出ても、8時間後の午後3時半にはガルダイアに着いていた。 
                           
          *注1・・上のような良い道路は幹線のみで、いったんはずれると未舗装となる。
                  交通量が全くないところが多く、いったん遭難(車のガス欠など)すると、
                  助からないことが多い。私たちも当時「サハラで全員が死んだ西ドイツ人一家」
                  の話を聞かされていた。従って「サハラに行くときは、車2台」が常識とされていた。


          *注2・・砂漠ではスピードを出しすぎて、コースアウトして車が大破して、
                 死亡する事故がよくあるといわれ、日本人も数人が死んだ−と聞かされた。
 

                       
サハラの意外に?良い一直線の道路

 さてホテルの話だが、まず以前に行った最高級の「ロステミデス」へ行ってみた。案の定、にべもなく断られた。この町では、冬のこの時期は旅行の「ピーク・シーズン」なのであった。このオアシス都市も見てみると、外国人(エトランジェ)が意外に多い。仕方がないので、観光書にあった次のクラスのホテルに行ってみた。ここも満員だといわれてしまった。有名な町だが、思ったほど「外国人用のホテル」は多くなかった。私たちは見通しが甘すぎた。時間だけがどんどん過ぎて、だんだん薄暗くなってゆく。サハラとはいえ、ここも北半球で冬は日没が早い。焦りがしだいにつのってきた。車をぐるぐる走らせていると、カスバのような狭い迷路状の場所に出た。そこに薄汚れた古い建物があり、小さな看板に「ホテル」とフランス語とアラビア語で書いてあった。中をロクに見もしないで、今夜の宿に決めてしまった。


                         世界遺産の大オアシス・ガルダイアのスーク広場

 ここは日本でいうと、「木賃宿」または「商人宿」で、それも下の方のランクらしかった。きっと砂漠を渡るキャラバンの商人や近隣のロバに乗った遊牧民が「上京」して泊まる宿なのであろう。当然ながら、外国人の姿もない代わりに、宿代はウソみたいに安かった。しかし駐車場もなく、車を狭く暗い路地に停めざるを得なかった。ここの「客」は車など必要ない人たちなのだ。荷物を持って狭く細く急な暗い階段を上がると、、古い木の扉があり部屋があった。室内は思ったより広かったが、床のアラブ風タイルもすり減って剥げかかっていた。小さな窓には鉄製の格子がはめられ、石製の壁といい、何となく「牢獄」の雰囲気だった。もうひとつ、暖房もなかった。しかし考えてみると、ここで贅沢を言ってはいられなかった。泊まるところがあるだけでも、「しあわせなこと」であるのだ。

                           

 ここは「素泊まり」専用の宿屋であったが、まわりにはレストランらしいものは何もなかった。仕方なく、家から昼用にもってきたパンの残りなどを食べた。薄暗い地区で外出もできず、することがまったくなかったので、寝支度に入った。ベッドは木製の古いモノで、上がるとキシキシ大きな音がした。なぜかシーツはなく、マットの上に粗末な毛布が、二枚だけはだかで置いてあった。しばらくしてあることに気がついた。マットの上を何かが跳んでいる。よく見ると、何とノミだった!手で押さえて捕まえようとするが、身が軽く跳ね回る。やっと捕まえても、意外に固く指でつぶしにくい。親父から戦中戦後のノミの話は聞いたことはあったが、実物を見るのは初めてであった。二人でマットを叩きまくって、何とか追い払った。寒さとノミ対策で、車に積んであった「非常用の寝袋」を取りにゆき、ベッドの中につっこみ、二人でいっしょに入って、ジッパーを首まで引き上げた。寝袋は一つしかなかったのだ。しかしこれでは寝返りも打てなかった。ひとつ良いことは、これが意外と暖かいことだった。

                          オアシスの特産、ダーツの実 キャラヴァンの食料

 いつの間にか眠っていたが、真夜中に妻に揺り起こされた。「トイレの鍵がかからない!」という。この宿はシャワーなどはなかったが、トイレも部屋の外にあるいわゆる「共同式便所」であった。中は日本と同じ「しゃがみ式」で、後ろに丸い穴が一つあった。最大の違いはロール紙がなく、代わりに水の入った小さな空き缶がおいてあった。手を使った「水洗式」である。手は左手を使うそうである。世界のかなりの地域で、左手を「不浄の手」と呼ぶとある本に書いてあった。そのトイレのドアの外の暗がりで、私は寝ぼけてもうろうとした頭で、ふらふらと立って「見張り」をしていた。

                          イスラム・朝の祈り

 「アッラーヘアキベル・・」モスケのスピーカーから聞こえるコーランの詠唱で目が覚めた。一日5回のお祈りで、最初は「日の出時」と決まっている。あたりはまだ暗い。気のせいか何だかからだのあちこちが痒い。妻も目が覚めたらしい。彼女も「何かに咬まれた」といっている。電気をつけてみた。体のあちこちが赤く腫れている。ツベルクリンの注射のようだ。しかしノミとは違う感じである。よく見ると、飛び跳ねない小さなモノがいた。今まで見たことはなかったが、たぶんシラミであろうと思われた。そう思うと、ますます痒くなった。こうして私たちは、一晩でいくつもの「得難い貴重な体験」をさせてもらったのだ。寝不足のためその日は一日中頭に霞がかかっていた。


          

(ドライヴに使用した地図と資料:フランス製 Michelin No172, "Algerie", les guides bleus, Hachette, Paris, France)
(参考資料:Algeriequandtunoustiens Ghardaiaガルダイアの写真集)