(C)Photos:Central State Archive of Documentary Film and Photography 連合軍によるアウシュビッツ解放直後の収容者たち |
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「いわゆる反ユダヤ主義というものは、人道上の問題ではない それはノミやシラミ退治と同じく衛生上の問題である」 第三帝国ナチ親衛隊SS指導者 ハインリヒ・ヒムラー |
"" アルバイト マハト フライ 「働けば自由になれる」 収容所正門の上には「働けば自由になれる」のスローガンがあるが、 この文句(スローガン)が大ウソだったことは歴史が証明している ほとんどの者は生きてはここから出られなかったのだ 関連リンク(英語)"Arbeit macht Frei" |
(C)2003 All Rights Reserved by Kenji Kakehi(無断使用・無断転載等禁止) ユダヤ人たち収容者の死体を焼いた焼却炉(しょうきゃくろ)の施設 半地下式になっている(筆者写) |
(C)US Holocaust Memorial museum 解放直後、焼却釜に焼死体が残っているのが発見される(1945.4) |
<項目リンク> アウシュヴィッツはどこにある? 空から見たアウシュヴィッツとビルケナウ 生き残り目撃者の証言 アウシュヴィッツのドイツ側関係者たち 「ユダヤ人はドイツ国民の永遠の敵」 読者・生徒の意見・感想集 |
参考写真: ガス室の入り口の鉄製ドア 上部に「のぞき穴」がある (マイダネック強制収容所) (C)the United States Holocaust Memorial Museum |
ドイツ兵が笑いながら寄ってたかって棒でたたき、オノで殺す (場所不明・館内展示写真) |
ドイツ兵に射殺される直前の母と幼児 (母は子どもをかばって背中を向けている) (場所不明・館内展示写真) |
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(C)together.net/~wbaker/ aneye.htm |
(C)www.leksikon.org/html/ dk/auschwitz.htm |
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ゴミのように積まれたやせこけた死体 (アウシュヴィッツ収容所) |
ロシア赤衛軍の検査を受ける生き残った男性 (アウシュヴィッツ収容所1945) |
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貨車に乗せられてここで「処分」された (ビルケナウ収容所)(注:アウシュヴィッツと一体化された収容所) |
裸にして殺した死体を焼却する (場所不明) |
「アウシュヴィッツ」(旧ドイツ名)(現地名ではオシフィエンチム)の位置と行き方 |
上の地図を見てください ヨーロッパの中央部にEU(欧州連合)がありますが、その中心の位置にドイツ(上地図左)があります その東どなり(右)がポーランドで、ポーランドの南どなりにはチェコとスロバキアがあります ポーランドへはヨーロッパ各都市からの国際列車、航空国際線、それに自動車道路があります ポーランドの首都ワルシャワ(上地図右上黄色)から南南東(左下)の方角に旧ドイツ名アウシュヴィッツ(現在のポーランド名は「オシフィエンチム」)があります (上の地図で下中の●、下の地図で●印) 下地図の真ん中右のワルシャワ(WARSZAWA)●から列車で下方のクラクフ(KRAKOW)●でローカル線に乗り継ぎ、4時間半くらいで行けます (列車はワルシャワから行くより、ウィーンやプラハから直接向かう方が便利かも知れません) *参考資料:現地の宿の取り方とオシフィエンチム駅から「収容所」への行き方 |
正門付近・上にかかった「働くと自由になれる」の文字が悲しい 国旗を持った団体はイスラエルから来たユダヤ人学生たち |
二重の柵には高圧電流が流れていた(中央は監視塔) 右はユダヤ人からはいだ衣服や猛毒チクロンBの倉庫だった |
仲間の脱走を助けて見せしめに公開処刑(絞首)された犠牲者の写真 | つるし首にした死体のそばでニヤニヤで笑うナチSS将校 |
「ブタ!」女性の首にカードをかけ「さらし者」にする突撃隊員 | 数多くの展示の中のアンネ・フランクの部分 関連内部リンク: 「アンネの家・訪問記」(オランダ・アムステルダム) アンネ・フランクと姉マーゴット・フランクの墓碑(慰霊碑) ベルゲン・ベルゼン収容所 |
アウシュヴィッツのすぐとなりのビルケナウ収容所の空からの写真 | 貨車に乗せられ収容所に送られる小学生、子どもでも容赦(ようしゃ)はなかった |
ガス室に入る直前の写真(トレブリンカ収容所?) 「シャワー」と偽って裸にされた彼女たちは直後の自分の運命を知らない 幼児子供も含む彼らの生前最後の写真となった 死体の山の中の若い女性の死体 →→→→ 違う時代だったらどんな幸せな人生だったのだろうか? |
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ドイツ兵に射殺される直前の母と幼児 (母は子どもをかばって背中を向けている) 左にはすでに殺された父親の死体がある (殺される前に自分の墓穴を掘らされている) |
公開処刑死体の前の右端女性の表情が印象的である この後殺される彼女たちも縄でつながれている 「耐える悲しみ」・・人間は悲しすぎると涙も出ない |
館内は処刑、銃殺などの写真が延々とつづく・・あまりにも多い死体の写真・・ | さらに、ドイツ兵による銃殺、しばり首、ナタでたたき殺す写真が続々と・・ |
「囚人たち」が着せられた囚人服 | 水洗式の囚人用のトイレ 他の収容所では穴を掘って木を渡しただけのも多かった |
藁を敷いた「三段ベッド」 | 別棟の寝室のようす |
数え切れない人たちが銃殺された「死の壁」(向こう側)がある中庭 真後ろの灰色の部分には無数の弾痕が残る |
半地下式の「ガス室」と死体焼却炉(左)と絞首台 地元の学生が生き残り(生き証人)の話を聞いている 絞首台(右)と死体焼却炉(左・半地下式)と煙突 |
焼却炉設備の外にあった「ガス室」の説明図(三カ国語の掲示板) |
猛毒殺人ガス・チクロンB使用後の空き缶の山 これで何人が殺されたのだろうか? |
多くの人が殺されたガス室内部、見上げるとガスの出る穴が上にある ここから猛毒の殺人ガス・チクロンBが出てきた 壁には死ぬ直前に書かれたと思われる文字もあった |
死体を焼いた焼却炉(かま)のくち 冥福(めいふく)を祈るためか、それぞれに火のついたロウソクがあった |
焼却炉の内部(高さ80cm位、幅60cm位、奥行き2m50cm位) この中で焼かれた何千人ものユダヤ人たちの体脂が ススとなって壁に張り付いている(炉の中にカメラを入れて撮影した) |
焼却炉のある同じ部屋の死体処理関係(焼けた死体を外に出す) |
焼却後の人骨の山の写真・下中央に頭蓋骨が見える | No way back (帰り道なし) アウシュヴィッツで鉄道は途切れる この先には線路はない 線路はもう必要ないのだ |
「囚人」から切り取った髪とそれで織った布 他の部屋には山のような大量の髪があった |
数え切れない「処刑者」の靴の山 見ていると、無性に悲しくなってくる |
死体から外された義手義足や松葉杖(まつばづえ)の山 5,60年たっても妙に生々しい |
殺されていた人がつけていためがねの山 一体いくつあるのだろうか? |
やせこけたが助かった若い女性(髪を切られている) 女性の長い髪は編まれてランプの傘になった |
米軍進攻による終戦で一命を取り留めたユダヤ人 収容所では餓死させる実験や病原菌を植え付ける実験が行われていた |
アウシュヴィッツ強制収容所のドイツ側関係者 |
(C)"shoa.de" |
"Wikipedia US" |
(C)"shoa.de" |
アウシュヴィッツ 強制収容所長 ルドルフ・ヘス |
ナチ親衛隊SS中佐 ゲシュタポB4責任者 アドルフ・アイヒマン |
ナチ親衛隊SS 隊長(総司令) ハインリヒ・ヒムラー |
注:ナチ副総統のルドルフ・ヘスとは別人 上の名前をクリックするとくわしい説明がでます |
1941年夏、・・・私は突然、ベルリンのヒムラーのもとへ来るようにという命令を・・・受けた。このときヒムラーは、・・・副官も遠ざけた上で、およそ次のような意味のことを言った。 総統(注;ヒトラー)は、ユダヤ人問題の最終的解決を命じた。われわれSSはこの命令を実行しなければならない。東部にある既存の虐殺施設は、この大がかりな計画を実行できる状態にはない。従って、自分は、アウシュヴィッツをそれに当てることにした。理由の第一は、交通の便がよいこと、そこなら一定区域を遮断、偽装するのも容易であること。 自分は最初SS高級幹部をこの任務に当てようとした。しかし・・・・中止。今は、君がこれの実行に当たらなければならない。これは厳しく重大な仕事で、その任にあたる者は全員、いかなる困難にもひるまぬことが要求される。・・・・この命令については、君は絶対の秘密を守り、上長にも絶対に洩らしてはならない。アイヒマンと打ち合わせたあと、自分は予定の計画書を君に送る。 ユダヤ人はドイツ国民の永遠の敵であり、殲滅(せんめつ)し尽くさなければならない。われわれに手のとどくかぎりのユダヤ人はすべて、現在のこの戦争中に抹殺(まっさつ)されなければならない。今、われわれがユダヤ民族の生物学的基礎を破壊するのに成功しなければ、いつかユダヤ人がわがドイツ国民を抹殺するであろう。と。 ヘス著「アウシュヴィッツ強制収容所」 p183 1 ユダヤ人をどう処理したか *筆者注:このあとのページに殺人ガス「チクロンB」が使われるようになったいきさつがくわしく書かれています |
ユダヤセンター公式サイト (C)Jewish Center |
アウシュヴィッツ(下)、ビルケナウ(上)、ユダヤセンター(下右)の位置
アウシュヴィッツより「ビルケナウ絶滅収容所」の方がはるかに大きいのが分かる
両方合わせて第一収容所・第二収容所としていた
(C)"Auschwitz 1"
アウシュヴィッツ強制収容所の空撮写真
上はソラ川・・一枚上の地図では下方にある 写真下に行き止まりの線路が見える/正門は線路中央部の上方
(C)www.bdp.it/~copc0001/ebraismo/ auschwitz-air2.jpg
アウシュヴィッツと一体のビルケナウ絶滅収容所の空撮写真
上中央左と右上が毒ガス室・中央やや左に縦に走っているのが行き止まりの線路
ナチ親衛隊SS隊員募集ポスター |
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「ある中尉の手記」サイトより転載 許可済 |
ヨーロッパ各地に強制収容所はあった (館内掲示の地図の部分・筆者写) (地図中●がアウシュヴィッツ−ビルケナウ) |
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(参考)ナチによる「KZ強制収容所」の一つ:ポーランド・クラクフ・プヴァシュフ強制収容所の見取り図 |
1939年9月1日、ナチス・ドイツ軍はポーランド領に侵攻しました。同9月3日イギリスとフランスがドイツに宣戦布告し、ここに「第二次世界大戦」が始まりました。同年10月6日、ドイツと「ソ連」は実質的にポーランド全土を占領しました。その40日後に、ユダヤ人に出された「命令」が下の物で、時間からして、このような「計画」が前もって用意されていたことがよく分かります。 | |||||
「ユダヤの血が入った12歳以上 のすべての者」に対する「命令書」 上半分がドイツ語、下半分がポーランド語 1939年11月18日付 クラクフ地区ドイツ軍司令官発令 (ワルシャワ・ユダヤ博物館蔵・筆者写) |
*「シオンの星」= 「*ダヴィデ(ダビデ)の星」とは? (C)the United States Holocaust Memorial Museum |
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(関連参考写真) | |||||
「ポーランド侵攻」より |
アウシュヴィッツ収容所博物館公式サイト The official web-site of この収容所博物館の公式サイト(英語)をのぞいて見ましょう 公式サイトだけに大変内容が濃いサイトです 英語がよく分からなくても、写真などひととおり見ると勉強になります 英語の好きな人や高校生・大学生はぜひ内容にもトライしてみてください |
(右上の下線部をクリック) (「ホライズン」HPリンク・2003・認証済) |
*この欄はすべて.「ある中尉の手記」サイトより転載(2003認証済)
<当時の関係者の証言>
ドイツ第三帝国ナチス親衛隊帝国指導者ハインリヒ・ヒムラー
「いわゆる反ユダヤ主義というものは、人道上の問題ではない。
それはノミやシラミ退治と同じく衛生上の問題である。」
★ニュールンベルグ裁判の時の連合国側のある検事の言葉
「彼ら(ナチ)は、家族を愛し、犬を可愛がり、音楽などの芸術を好む。
だが、その一方で大量虐殺に手を染めているのだ。
その辺の彼らの神経が理解できない。
これでは、 音楽や芸術を愛しているからといって、
その人が善人だとは言い難く、 人間不信に陥る。」
★旧ソ連反戦映画「狼たちの午後」のナレーター
「彼らドイツ兵はとてもハンサムで賢そうだ。
だが、彼らのポケットの中には、彼らの愛する家族の写真に混じって、
我らが(ソ連人)同胞の虐殺現場の写真が誇らしげに保管されているのだ。
このような写真と家族の写真を一緒に持ち歩くとは・・・・・」
ドイツ国内にあった別の収容所(現記念館)の写真
内部リンク: ブッヘンバルト強制収容所
Buchenwald Gedenkstaette, Germany
6000人のユダヤ人の命を救った
すぎはら ちうね
(上クリック)
アンネ・フランクと姉マーゴット・フランクの墓碑(慰霊碑)
ベルゲン・ベルゼン収容所
二人の姉妹は一時アウシュヴィッツ-ビルケナウ収容所に居たが、
後この収容所に移送された ここの不衛生な環境で姉もアンネもチフスに罹り死亡
アンネ享年15 二人の死亡日も断片的証言のため墓は後年作られたものである
(デュッセルドルフに在住した日本人女性よりの投稿写真)
このような大量殺人、殺戮(さつりく)はいずれの国であれ、二度とあってはなりません 収容所内外で殺されたすべての方々のご冥福(めいふく)を心よりお祈りします 当サイトはすべての戦争、暴力、虐殺(ぎゃくさつ)に反対します 世界に平和あれ |
<項目リンク> アウシュヴィッツはどこにある? 空から見たアウシュヴィッツとビルケナウ 生き残り目撃者の証言 アウシュヴィッツのドイツ側関係者たち 「ユダヤ人はドイツ国民の永遠の敵」 読者の意見・感想集 |
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ことばにならない「アウシュヴィッツ」 むかし強制収容所に入れられた老人のこと |
当サイト内の<戦争・収容所等>関連リンク
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書物名・サイト名 | 著者編集者 (敬称略・順不同) |
発行所・サイトURL・その他 |
アウシュヴィッツ収容所 | ルドルフ・ヘス 片岡啓治訳 |
サイマル出版会 |
世界各国史・ドイツ史 | 林健太郎 | 山川出版社 |
地球の歩き方A17 ウィーンとオーストリア |
「地球の歩き方」 編集室編 |
ダイアモンド社 ダイアモンド・ビッグ社 |
地球の歩き方A26 チェコ ポーランド スロヴァキア |
同上 | 同上 |
旅に出たくなる地図(世界編) | (五訂版) | 帝国書院 |
New Universal World Atlas | Rand Mcnally | 1995 USA |
アウシュヴィッツ-ビルケナウ 国立博物館(英語) |
http://en.auschwitz.org/m/ | |
ある中尉の手記 * | 冴島 歳三 | http://members.tripod.com/~prettyevita/holo.html |
アウシュビッツ絶滅収容所訪問記 | アミューズ和田 | http://www2u.biglobe.ne.jp/~zeturin/index2.html |
shoa.de | ドイツのサイト | http://www.auschwitzluege.de/auschwitz.html |
アウシュビッツ収容所元館長 カジュミン・スモーレニ氏の証言 * |
株)ホライゾン 東京都知事登録 旅行業第3-3515号 |
http://www.aht.co.jp/ (許可をいただきリンクしています) |
広島平和記念資料館公式サイト |
広島平和記念資料館 | http://www.pcf.city.hiroshima.jp/ |
フリー百科事典 『ウィキペディア(Wikipedia)』 |
非営利団体 ウィキメディア財団 |
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3 %83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8 |
アウシュヴィッツ ユダヤ・センター (英語) |
http://208.184.21.217/index.asp | |
アメリカ合衆国 ホロコースト記念館 |
http://www.ushmm.org/ | |
独立行政法人 情報処理推進機構 (IPA) |
http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/index1.html | |
ドイツ現代史を訪ねて * | 現代史研究者 清水正義 |
http://www.geocities.jp/dasheiligewasser/index.html |
Infos.aus-germanien.de | (ドイツのサイト) | http://infos.aus-germanien.de/ |
"ARBEIT MACHT FREI" | (ドイツのサイト) | http://www.inidia.de/arbeit_macht_frei.htm |
<項目リンク> アウシュヴィッツはどこにある? 空から見たアウシュヴィッツとビルケナウ 生き残り目撃者の証言 アウシュヴィッツのドイツ側関係者たち 「ユダヤ人はドイツ国民の永遠の敵」 読者の意見・感想集 |
参考資料:「一人旅でアウシュヴィッツに行く方へ」 現地の宿の取り方とオシフィエンチム駅から「収容所」への行き方 オシフィエンチム駅前の大通りを右方に歩いて大きな交差点で左折し(標識が出ています)、計2kmほどで収容所入り口の駐車場に着きます 途中は片側(左)に塀が続きます 直ぐに分かりますから、「ひとり旅」でも大丈夫です 同じ収容所の「ビルケナウ」は左折せずにそのまま行きます(これも標識があります) バスはありますが本数は少ないようです 「見学」は施設・展示が大きいので、丸一日は必要です 折角行く人は駆け足にならず、時間をたっぷりかけたいですが、帰りの列車時刻だけは確認したいものです 宿はカトヴィッツェには少ないので、観光スポットが多いクラクフが良いでしょう オシフィエンチムの町は小さくて、夏場は「飛び込みの宿確保」は事前予約でもしない限り難しいかも知れません お薦めする「一人旅」の場合は、あらかじめクラクフに宿を決め、大きなカバンは部屋に置いたままで、カメラとデイバッグだけで往復するのが身体が楽で安心です 蛇足ながら、ポーランドでは公共交通機関の料金は安いので、無理に「レールパス」購入の必要はありません <注:収容所内(博物館管理棟)には地下にコインロッカーなどがありますが数は多くありません> |