アウシュビッツ収容所博物館元館長 カジュミシ・スモーレニ氏の証言
(株)ホライズン社サイトより転載 Approved2003
ナチスの総督ヒットラーは、ナチス軍が1939年にポーランド占領後、ポーランド人の絶滅をはかり、ポーランド語教育を禁じた。同時に知識階層の逮捕、無差別の銃殺が行われた。ポーランド人は、名前を書けること、500まで数えられること、ドイツ人を尊敬することができればいいと教えられた。ポーランドの若者たちはフランスに逃げて、亡命ポーランド軍に入ろうとしたが、その途中で逮捕され、アウシュビッ強制収容所に入れられた。1940年6月14日にはじめてのポーランド人囚人が入ってきた。当時はまだ小さい収容所にすぎなかつた。さらにワルシャワ、クラコフ、ルブリンから囚人が送られ、囚人が増えたので、大きな収容所を作る必要がでてきた。囚人たちは強制労働にかきたてられ、収容所は拡張された。12月には6000人の囚人を数えるまでになった。さらに3km離れたビルケナウとモノリッツに収容所が建設された。この3つの収容所に、最大時には15万人が収容されていた。45年1月までに囚人番号は40万を超えた。
1940年と41年は、ポーランド人とソ連からの捕虜だけしかいなかった。42年春にナチスの方針が変わり、ドイツ、フランス、ベルギーからユダヤ人も送られてくるようになった。最初は労働力として使える人と使えない人の選別はされなかった。やがて絶滅行動がはじまり、障害者、病人、子ども、老人、妊婦は、直接ガス室へ送られた。収容所長だったルドルフ・ヘスの日記によれば、到着した囚人の70%から80%は直接ガス室へ送られた。ナチス親衛隊長ヒムラーの命令にこたえるため、ヘスは第11棟の地下で毒ガス実験を実行し、ソ連人とポーランド人800人を48時間かけて殺した。このガスがチクロンBである。こうしてヘスは、大量殺人の方法を発見した。銃殺や絞殺は、親衛隊(SS)隊員の精神的負担が大きかった。殺人場所は、第11棟の地下だけでは足りなくなった。大量に早く、確実に殺すという目的で、ビルケナウにガス室を建設した。鉄道の引込み線を収容所の中に入れ、プラットホームで選別でき、利用できない人はすぐにガス室に入れられるようにした。戦争中のドイツ企業は、労働者が必要で、働ける者は、工場に送られた。ドイツの化学工場IGは収容所の近くに建設された。その労賃は、SS隊員が受取り、囚人には渡されなかった。
収容所の囚人たちは、靴をはくことが許されなかった。外での点呼のときも裸足だった。冬の気温は零下20度まで下がった。ほとんどの人は囚人服だけで、満足な防寒服もなかった。冷えが足からきて、内臓疾患を起こす人が多かった。多くの人が腎臓病にかかった。衛生状態はひどく、最初は疥癬がはやった。疥癬でも死ぬ人がいた。さらにシラミによって、チフスが流行した。41年〜42年のチフスの流行では、年間に5000人が亡くなった。さらに栄養不足による下痢が人々を苦しめた。長い間苦しみ、体力がなくなり、やがて亡くなった。私が生き延びることができたのは、若かったからというしかない。
体が弱った人の選別が行われ、早く殺された。選別は医師が行った。ここにいたSS医師隊員は、犯罪者だった。ヨセフ・メンゲレ博士は人体実験をした。彼は、双子の実験に熱心だった。たとえば、双子の片方に薬を与え、片方には与えないとか、解剖して2人の違いを調べるとか。メンゲレは片目が青、片目が茶色という人を探した。見つかるとその人を殺し、眼球を取り出し、研究のためにベルリンの大学研究所へ送った。
カール・クラウベルグ博士は、悪名高い産婦人科医で、どうすれば子どもをたくさん生めるか実験した。ナチスは人口の減少を危惧していたので、子どもが多いほど出世できた。また、ヒムラーの命令で、ポーランド人、ジプシー、ユダヤ人に子どもを生ませないようにする実験もした。実験は第16棟で行われた。クラウベルグはヒムラーに自分の成功を手紙に書き、1日に1000人の避妊ができると報告した。
囚人たちは、精神的に苦しんだ。ここから出ることができるか、出られとしたらいつか、それまで生きていることが出来るか、自問し、回答が出ずに苦悩した。耐えられない人の多くは自殺した。中でも女性囚人の自殺が多かった。飢え、過労、銃殺への恐怖などから、精神的におかしくなった。衰弱した囚人は、自分が何をしているのかわからなくなっている人が多かった。自殺は、収容所の周囲を囲む、電気が流れている有刺鉄線を触るだけでできた。しかし、その前に射殺される人も多かった。
抵抗は、SS隊員の規則に反することをした。労働は、ゆっくり、弱い力で行う。発見されない程度に遅くやる。昼間、労働は、収容所の外で行われた。このときに外部に接触し、脱送した人もいるし、食料や薬などを入手する人もいた。収容所の情報を外部に流そうとした人もいた。こうした手紙はいまも2000枚が残っている。もし発見されれば死刑ということはわかっていた。点呼時に、外部と接触したことが判明した12人がみんなの前で射殺されたこともあった。
収容所周辺7kmの家から人は追放され、誰も住んでいなかった。強制労働で石炭鉱山や農業の仕事をしていた者は、外部と接触できた。かつて人が住んでいた家は、地下組織として利用された。ポーランドは占領されていたが、地下政府があり、強制収容所の囚人たちとコンタクトを取ろうとした。一人コンタクトが取れれば、そのネットワークはひろがっていった。だが、収容所にもゲシュタポ隊員がいて、コンタクトを取った者を銃殺した。
戦争中にここから脱走した人が報告したため、連合軍はSS隊員の犯罪についての記録を作っていった。隊員の名簿もある程度はでき、これは戦後の犯罪者追及の役にたった。
私は、1920年にシレジア地方で生まれ、20歳のときに、フランスのポーランド軍に入隊しようとして国境近くで逮捕された。アウシュビッツ収容所には1940年7月6日に送られてきた。ドイツ語ができたので、4か月の重労働のあと、SSの事務の仕事についた。囚人登録が仕事で、どこから何人くるかも知っていたし、ベルリンにいるアイヒマンにいつ何人きた、何人殺されたという報告文書を作った。44年に、囚人の姉とコンタクトが取れ、私たちの記録を写して、外へ出た折に、彼女に渡した。それは私の母にもわたった。そして、この中のことを記録として残すことができた。第11棟の報告書、ジプシー収容所の書類も、収容所の外の土に穴を掘り、埋めた。これは戦後に掘り出され、ビルケナウ収容所にいた2万人のジプシーの名簿がわかったが、そのほとんどは殺されていた。私は44年末にドイツの収容所へ移され、45年5月にようやく解放された。その後、大学の法学部に入り、卒業後に再びアウシュビッツに移り、35年近く博物館長を勤めた。
アウシュビッツ収容所は、地獄といわれたが、ポーランド人、ユダヤ人というだけで囚人にされたので、罪を犯したわけではないから、地獄という表現はおかしい。ここで何人殺されたのか、正確にはわからない。たぶん何十万人も殺されている。その悲劇の大きさは、想像できないものだ。この事実をいまの若者たちに伝えていかねばならない。資料にもとずいた事実を、まず伝えたい。
以上の講義は、当社手配のグループがアウシュビッツ収容所博物館を訪問したときに記録したものです。
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