3 マルクス墓地 St. Marxer Friedhof Leberstrasse 6-8
衛星写真と地図(Google)
前述のように、このマルクス墓地は、後にでてくるこの国最大の中央墓地よりも、歴史の古い墓地である。WOLによると、「広さは6ヘクタールあり、1874年に閉鎖された」とある。現在のウィーン市営墓地一覧にも、ここの名前はない。有名な話だが、このHPにも、「モーツァルトは、共同墓地に埋葬されたと言われ、墓は特定できない」とある。
1984年度アカデミー賞作品賞他をとったあの映画「アマデウス」の中で、妻コンスタンツェやサリエリが、城門でモーツァルトの棺を見送った後、棺は付き添いもなく墓地に運ばれて、死体袋は無造作に「第三等」の共同埋葬用の穴に放り込まれ、墓堀人に石灰をかけられるというシーンがあった、あの墓地である。この墓地も満杯になり、また衛生上の問題から中央墓地他に統合されることになった。
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1891 モーツァルト旧記念墓 |
以前に中央墓地を訪れ、あのモーツァルトの墓参りをしたと思っていた私は、後になってあれは墓ではなく「記念碑」(ドイツ語でDenkmal)だったと知り、悔しい思いをしたものだ。「今度は本当に詣でてやるぞ」という意気込みで、シュヴァルツェンベルク・プラッツ(広場)から市電71番に乗り込んだ。15分も乗っただろうか、ラントシュトラッセ・ハウプトシュトラッセ停留所で降りると、高速道路A23が、コンクリートの高架という無粋な姿で、すぐそばを走っている。並行して走るSバーン(郊外電車)の高架をくぐり、左折して数分も歩くと、意外にこぢんまりした墓地のアーチ門に辿り着く。
門から覗くと、正面にまっすぐ狭い道が延びて、その両側にはいかにも時代を感じさせる墓石が並んでいる。木々が繁り、やや外の明るさを遮っている。時期的にいって、花は咲いていなかったが、ライラックの木があった。満開の時期は、きっと香りも素晴らしいのだろう。門からの道は、ごく緩やかな登りになっていた。この雰囲気も道も、映画「アマデウス」のものとは全く違う。やはり、ここでロケされたものでないことが、改めて分かった。
もともと、映画の舞台はほとんどヴィーンなのに、映画そのものはチェコ共和国のプラハで撮影されたといわれる。ヴィーンの街が、第二次大戦で徹底的に破壊されたこともあるが、近代化されたヴィーンでは、もはや当時の雰囲気を出せなかったのであろうか。プラハで撮った映画は、結果的にはセピア調の画面と相まって良い仕上がりになっている。 |
フィガロハウス入り口(現モーツァルトハウス) |
実際と異なる−といえば、モーツァルトが結婚式を挙げ、そして葬式が出された、市中心部にある聖シュテファン大聖堂(St.Stephans Dom)のすぐそばにある「フィガロハウス」(Figaro-Haus)(後日注:2006年モーツァルトハウス・ウィーンと改名)も、今でいう狭い共同住宅で、中は記念館になっていたが、映画にあるような広い部屋はなかった。
この家で、彼は「フィガロの結婚」他の素晴らしい作品を書き、もっとも充実し幸福だった時代を送ったといわれているが、それでも本当の家は狭いと言わざるを得ない。故郷ザルツブルグのゲトライデ・ガッセ(横町)にある彼の生まれた家(Mozart's
Geburtshaus)は、これよりも大きかった。*
*ただし、彼の生まれたその部屋は、大変狭かった
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モーツァルトの墓(記念碑)
注:オリジナルではありません
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閑話休題、マルクス墓地だが、先ずヨーゼフ=シュトラウスの墓を見ようということで、大きな声で話している墓掃除の市の職員のおじさんとおばさんに声をかけた。「エントシュルディ゙ーゲンジービッテ」(すみません)と声をかけると、忽ち「モーツァルトの墓はあっちだよ」とドイツ語で返ってきた。まだ何にも尋ねてないのにである。いかに日本人が多くここを訪れ、同じ質問をしているかということであろう。日本人の顔を見ると、パブロフの犬の実験のように「モーツァルトの墓」がひらめくのであろうか。可笑しくて、不思議だった。
そこで、「その前にヨーゼフ=シュトラウスの墓が見たい」というと、「先にモーツァルトを見なさい。シュトラウスのは帰りに見られるから」とおじさんはいう。聞くと、なるほど帰り道だ。今度はおばさんが「シュトラウスはここから3ブロック先、左にブルンネン(泉)があるからその奥よ」と、ニコニコしながら教えてくれた。親切である。お礼を言ってモーツァルトへ向かった。
「墓」は写真を見ていたこともあって、すぐに見つかった。というより、墓の前に色とりどりのサクラソウが植えてあり、すぐに目についたのだ。ここは疎らな林の中にあるが、木は比較的低い。大理石らしい石で上半分が円柱、下半分は四角形で名前と生年と死亡年が書いてある。それにもたれるようにして天使像が嘆いている。
いきなり、頭の中でK626の「レクイエム」の一節キリエの冒頭が流れてきた。そして、しばしそれに浸った。しかし、おかしなものだ。私も墓のそばで暫しの黙祷はしたが、彼の墓は「共同墓」であって、墓は特定できないはずだ。とするとこれも一種の「記念碑」なのか。本当に、墓がないとハカナイものなのだ。ある本によると、以前共同墓付近で、モーツァルトのものらしい頭骸骨が発見され、学者も認定したので、今はザルツブルグのモーツァルテウムにおいてあるという。医学の進んだ今、ザルツブルグのモーツァルト家墓にある親のDNAと件の頭蓋骨のDNAを比べてみれば、一目瞭然だと思うのだが・・・。これについて、天国のモーツァルトは笑っているか、それとも・・・?。いや、むしろ調べないのが良いのかもしれない。 |
墓の写真を何枚か撮ってから、シュトラウスの墓へ向かった。清掃人たちは既に居なくなっており、代わりにその先のベンチに老夫婦が腰掛けていた。散歩の途中で休んでいるらしい。その前を会釈をしながら通り過ぎようとすると、いきなり、老男性が「ヨーゼフ=シュトラウスの墓は分かるか」とドイツ語で話しかけてきた。「たぶん」というと、なんと立ち上がって、先に立って案内をしてくれたのだ。でも、どうして知っているのだろう。想像だが、あの掃除人たちが「日本人が通ったら教えてやってくれ」とでも頼んだのだろうか。旧ソ連のゴルバチョフ元大統領のソックリさんみたいなその老人は、わたしのためにドイツ語をゆっくりと話して、一生懸命墓の説明をしてくれるが、それでも半分しか分からない。「シュプレッヒェン ズイー エングリッシュ?」(英語は話されますか)と聞くと、「残念ながらダメ。でも妻は少しだけ話せる」とベンチの老婦人を振り返りながら言う。
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マルクス墓地にて Marxer Friedhof 筆者と「ゴルバチョフ」老人 後ろが正門 (老人の夫人写) |
老人が指し示した墓そのものは、高さ4,50cmくらいの小さなもので、しかも古くて貧弱で合葬墓であった。説明がなければ、とても有名な作曲家のものとは思えない。「ゴルバチョフ」老人はこう言った。「このヨーゼフの墓の中にはもうなにもない。掘り出して中央墓地に移したのだ。」「中央墓地はここから電車で・・・」私「中央墓地は知っている。ムカシ行って、また昨日行った。今日もこの後行く・・・・」 この辺になってくると、私のドイツ語はヨレヨレになってくる。現在形も過去形も、男性名詞も中性名詞も女性名詞も、三格も四格もお構いなしだ。「すみません。うまくいえない。ドイツ語は難しい。」老人は微笑みながら聞いていたが、「外国語は誰にでも難しいのだよ。わたしは日本語は、ぜんぜん話せないのだから。でも君の言うことは分かるよ。」といってくれた。ことばの後ろに、ある種の優しさが感じられた。
この国では何人かの老人と話したが、だいたい英語は話せない人が多い(日本でも同様だが)。これに対して、若い世代の英語能力は大変すばらしい。元々同系の言語でもある。EUになってから、この傾向は強まったのではないだろうか。高校生に道を尋ねても、堂々と淀みなく英語が返ってくるし、態度もすばらしい。相手の目を見ながら話す。これが日本だったらどうであろうか。文部省もやっとこの頃になって、入試中心の英語でなく、小学校も含めて実用的な英会話を重視するようになったのは救いではあるが、日本人のメンタリティーと併せて、日本の特殊な語学環境は、ずっと英語教育の「障害」となるであろう。
老人は墓地近くの人で、長いことここに住み、この墓地を奥さんとの日常の散歩コースにしているといった。これは日本の感覚だったら奇妙だが、西洋諸国ではごく普通のことだ。墓地=公園といっても過言ではない。ピクニックをする者もいる。それほど自然がすばらしく、また手入れもよい。一緒に写真を撮った後、老夫婦に何度もお礼を言い、私は中央墓地に向かった。振り返ると、手を振る二人の笑顔が素敵だった。
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