6 台湾の古都・台南(タイナン)と鄭成功の安平(アンピン)(六日目)
南国情緒の台南駅
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朝食付きのビジネスホテル、「光華商務大飯店」を出た私たちは、徒歩5分の台南駅前バス停に向かった。今日は丸一日観光なので、リュックはホテルにおき、荷物が軽いのが嬉しい。
バスが出たばかりでかなり待たされたが、30分足らずで安平の中心部、安平開台天后宮前に着いた。これは、鄭成功(ていせいこう)が渡台の際、安置された「媽祖」が起源らしい。いろいろ曲折はあったらしいが、現在ある宮は豪華である。
安平開台天后宮
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その近くに駐車場があり、その前に墓場があった。小高い丘の上まで、このような墓がつづいている。墓は一部顔写真を貼り付けた個人墓もあるが、多くは「代々墓」らしく立派な作りである。石造りで中に石室がある造りは、沖縄の「代々家族墓」に類似している。これは、地理的に言って当然であろう。
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安平古堡に向かった。不覚にも地図の方向を見誤って、反対の方向に出てしまった。周りにはそれらしいものが見あたらない。交差点に食堂があり、中年の客が何人もいた。本の地名を見せると、婦人が「あちらだよ」と教えてくれた。
礼を言って歩き始めたが、50mほど歩いたら、分かれ道がどれかがまた分からない。後ろから声がした。何と先ほどの婦人が、私たちの困っている姿を見て、追いかけてきてまた教えてくれた。有り難かった。見も知らない人にここまでして教える人が、どこの国にいるだろうか?。台湾の人は何か温かい。何度も礼を言った。
分かってしまえば何のことはなかったが、何と安平開台天后宮の反対側の裏手にあった。ずいぶん回り道をしたものだ。
安平古堡にある「民族英雄」鄭成功の像
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安平古堡の築造当時の部分(下図の丸い弧部分) |
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この城は、オランダが作った当時1624年頃は、「ゼーランディア城」と呼ばれていた。
煉瓦は当時のオランダ植民地、バタヴィア(現インドネシア)から運んだという。
形は函館の「五稜郭」にやや類似する。 |
安平開台天后宮にかくれてよく見えなかったが、古堡は道の正面に、「ドーン」と鎮座していた。入場料を払って、階段を上がる。説明を読むと、ここのかなりの部分が、近年復元されたものらしい。下の段に鄭成功の像(左上)があった。大きな立派な像である。周りには観光客も多い。
中学校の社会科で、明の時代に日本人の海賊が中国沿岸を荒らし回った。これを「倭寇わこう」という−と習ったことを、覚えておられる方も多いであろう。彼の父は海賊・鄭芝竜、母は日本人田川氏だという。しかし彼がただの「海賊」でなく 、滅んだ明を復興しようとした「遺臣」であり、当時このあたりを押さえていたオランダを追い出し、異民族の国・清と戦った男であった。彼はこの地に「明の亡命政権」を作り、明王室の末裔を招いた。
そういうことから、この地では彼は「英雄」なのである。成功大学や通りの名やいろんな所や名前に、彼の名前が登場する。日本でも「国姓爺合戦」に登場するので知られている。
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この古堡も、清に支配される時代になって荒れ果てたらしい。左の写真の部分は、全くの後世の復元部分である。大砲も当然当時のものではなく、レプリカであった。左の最上段の部分に、小さな博物館と高い見学用の展望塔があった。
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最上段にある小さな博物館に入ると、不思議なことに、中世風の甲冑をつけた騎馬騎士があった。日本語ではなく、解説の意味は分からなかった。旗からいって、多分オランダの甲冑であろう。 |
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馬の左側にショウケースがあり、「台湾歴史人物介紹(紹介)」とあった。胸像の人物は「台湾民政局長」になったドクター・後藤新平(のち「満鉄」総裁・勲一等従三位)であった。彼は第四代台湾総督、児玉源太郎(のち陸軍参謀総長)下でアヘン撲滅や台湾の電気、鉄道など社会資本(インフラ)の敷設整備に尽力し、台湾民政の礎を作ったのである。
不思議なことには、台湾の「支配者」であるこの日本人のことが、好意的にしかも業績をたくさん並べてあった。よほどここの人たちに好意を持たれていたのだろうか?ここで、旧日本の「植民地政策」も地元で歓迎されることもあったのを知った。
「後藤新平記念館」HP(岩手県水沢市)
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安平古堡内にある当時の様子が分かる絵
隣の部屋の壁に左の油絵が掛けてあった。オ ランダ人が支配していた頃の安平古堡の絵である。当時はこのように湾になっていたらしい。この絵でも、これが西洋式星形の城塞ということがよく分かる。この形は守りに強い。現在でもオランダ、ドイツ辺に多く残っている。
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左は明・清時代の中国の武器である。夏休みのためか、多くの小学生がメモ用紙をもって、親同伴で見学していた。夏休みの宿題レポートになるのかもしれない。
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博物館を出て階段を下りると、敷地の端に「市立丘永漢博物館」がある。ここは台南出身で東京帝大出の台湾人、丘永漢きゅうえいかん氏のコレクションを展示している。彼は現在日本でもよく知られた「直木賞作家」で、経済人でもあり、経済界には知己も多い。「財テク」でも知られている彼は、また故郷でも「工業団地」の造成に関与しており、地元でも有名人であるらしい。
資料(HPサイト)
1 もしもしQさんQさんよ (ほぼ日刊糸井新聞)
2 「直木賞」の非公式サイト(丘永漢)
清代の美人画
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億載金城の濠(画像は変えてあります、印象派風)
安平の街から、暑い日差しの中を汗を流して、エッチラオッチラ歩くことおよそ30分、「億載金城」の入り口にさしかかった。堀にかかる正門前で、入場料を払うと、堀を渡って小さなトンネルを抜ける。中は広い運動場風の場所だった。
堀から見た外観は、完全に「西洋式星形要塞」である。規模は安平古堡を遙かに上回る。清代末に日本の侵略意図が明白になると、清政府は西洋式要塞を造成し、大砲を多数備えた。これが、この億載金城である。「時代末」に作られた「外敵から守る城郭」という意味では、「五稜郭」とよく似ている。
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億載金城の砲台
左の写真の大砲の右手には、台湾海峡につづく海が広がる。海からの侵略に対して、睨みを利かせていたのがよく分かる。大砲はすべてレプリカであるが、けっこう迫力があった。
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「伍角船板」の内部
億載金城の前にある「伍角船板」という名のレストラン。大変オシャレで、東京にあったら人気が出たであろう。台湾としては少し値段が高いが、スペースもゆったりで、「自然派」の雰囲気があり、くつろげた。台湾各地に系列店があるらしい。
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億載金城からバスで台南市内に戻った。途中で降りて、台湾最古の「孔子廟」に向かった。折しも、「七夕」祭りの終わりの日で、参拝者で賑わっていた。
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「孔子廟」の境内では、お飾りが無料で配られ、人々は好きなところにぶら下げていた。家族連れも多く、何となく楽しい。どこの国でも、祭りは楽しいものだ。本当に来た時期がよかった。何かの催しものらしい音が聞こえたので、そちらの方へいってみた。
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「スーさん」・写真は変えてあります
「孔子廟」境内につづく公園では、ちょうど「国際七夕フェスティバル」が開かれていた。日本からも、沖縄の和太鼓グループ他が参加していた。その客席に「スーさん」(67歳)がいた。日本語が大変上手である。訊くと、日本のオモチャ・メーカー「タカラ」の下請けや、ヤマハの下請けの会社に勤めていたそうである。言葉の端々に、「日本が好き、日本語を話したい」という雰囲気があった。自分のコンピューターに、「日本語フォントを入れている」ともいった。いろいろ親切に教えてもらった。
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この日の最後に、スーさんに道順を訊いた「延平郡王祠」に行った。ここには鄭成功が祀られてある。しかし時間が遅く、すでに閉門されていて、建物の中を見ることはできなかった。仕方なく庭を散策した。大きな木の上には、大きなリスが何匹も走り回っていた。しばし口を開けて、上を見上げていた。ホントにいい庭である。アルファ波が出てくる。
こうして古都の一日観光に大満足した私たちは、おいしそうな食堂を見つけに、黄昏てゆく駅前を歩き回った。台湾の「古都」のいい一日であった。
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