5 あっ!トイレが詰まった!、高雄の人・郭先生のこと(水里・四日目晩/五日目)
                    ビンロウ樹
  
 昨晩のうちに、埔里(プーリー)まで帰って来た私たちは、本に載っている中で、最も安いクラスのツインNT700(約2500円余)というホテルを、裏通りに見つけていた。ホテルはお世辞にも新しくはなかったし、日本語も英語も通じなかった。カウンターには中年の夫婦と高3くらいの息子がいたが、まるで「商談」にならない。困っていたら、奥さんが奥から自分の妹らしい女性を連れて出てきた。「何でしょうか?」とその女性は日本語で聞いた。「ちょっと部屋を見せて欲しいのですが・・。」というと、鍵束をもってエレヴェーターへ案内してくれた。「日本語の発音きれいですね」とほめると、照れくさそうに、「ずっと前に、大学で習いました」と言った。部屋の掃除が行き届いていて小綺麗だったので、そこに決めた。

 裏通りとはいえ、両替できる「台湾銀行」は目の前だし、周りはすべて庶民的商店街で、生活用品の買い物には困らなかった。また、バス・ステーションまで歩いて5,6分というロケーションは、「移動途中の宿」としては申し分なかった。こうして見学しながら、夕食の食堂を探して歩いた。商店街のはずれまで来ると、中が丸見えのドアのない庶民的大衆食堂があり、調理も客の面前でしている。台湾にはこの手の食堂が実に多い。見るからにおいしそうだったので、入って牛肉麺と焼きめしと中華サラダと「台湾ビール」を頼んだ。

 そこの中年主人は、「食堂の主人」としては、珍しく英語が流暢だった。奥さんも少し話せた。すぐに訳が分かった。彼は青年時代にロスアンジェルスの「中華街」に住んでいたのだった。店に高校生くらいの男女の子供がいた。ちょっと可愛い女の子に英語で話しかけると、なぜかあまり話せない。主人は「この娘が小さいときに台湾に帰ったから・・。」と娘を庇った。ヒトの頭の「言語構造」は、だいたい小中の年齢でできあがる。だから二十歳を過ぎて「バイリンガル」などというのは聞いたことがない。

 彼とは何となく気が合った。「無口な普通の食堂のオッさん」とは違う、何となく愛想も良く「社交的」なところがあった。アメリカ旅行の話などしていたら、彼は小皿におかずを入れてもってきた。「注文していないが・・。」というと、「サーヴィス」だという。まあ、日本にも似た話はあるが・・。あと四方山話をして勘定の段になると、金額がなぜか安い。これも「サーヴィス」だからいいよ−と言う。お礼を言って帰ろうとすると、”Wait a minute !”と言ってから、冷蔵庫からチマキ二本を出し、私たちに呉れた。ホテルで食べると、これが実に美味かった。「ウーン、台湾もいいなあ!」と思ってしまった。わたしがこの辺りに住んでいたら、時々は「顔を覗かせる店」になっていただろう。

 さて翌朝、私たちは出発の準備に大童だった。いざ部屋を出る段になって、妻が「トイレが流れない!」と慌ててでてきた。トイレを覗くと、「もと妻の所有物」は満水の陶器中でくるくると踊っていた。そこでやっと訳が分かった。ふき取った紙は便器の中にではなく、そばのゴミカンの中に入れるのだった。台北以外のどのホテルにもあったけれど、それが嫌でそうしていなかったのだ。しかし、直前にわたしが紙を流したこともあり、とうとう詰まってしまった。大変だ、バスの時間もない!あわてて下に降りて、カウンターにいた奥さんに「便器が詰まった!」と伝えたが、またまた意味が通じない。仕方がないので、わたしは便器に座る格好や便が流れない様子を、ジェスチャーでやって見せた。やっと意味が通じたので、「すみませーん!」と言って、逃げるようにバスセンターに走った。あとでその時の自分の格好を思うと、笑いがこみ上げてきた。しかし妻の方は、「迷惑かけた」と真剣に悩んでいた。いや、ウンが悪かった!。
  ビンロウ樹の実
  
 埔里(プーリー)発のバスに乗って水里まで戻ってきた。駅舎は内外とも工事中で、足場が組んであってベンチも何もない。ただ窓口だけが開いていた。そこから顔を覗けて駅員を呼んだ。出てきた駅員は日本語が少ししか分からなかった。そこで、後ろで並んでいた女子大生が、英語で「手伝いましょうか?」と申し出てくれた。彼女のおかげもあって、台南行きの列車の予約も取れ、次の列車もあと一時間以上あると確認された。

 その時、改札口の奥から「管理職」風の男性が、「日本の人、こちらへ回って来なさい」と声をかけてきた。建物を回ると、部屋の中に案内された。声をかけてきた男性は、駅長でも助役でもなく、ただの「水里の住人」だった。郭さん(仮名)といった。窓口にいた駅員が汀さん(仮名)で、定年後「嘱託」として鉄道業務に就いていた。ここのたった一人の駅員だった。客は少ないので、汀さんはお茶を入れ、私たちに何度も振る舞ってくれる。彼はいま日本語を習っているといった。彼は齢六十を過ぎているはずだが、もっと若く見え物静かでシャイだった。
  中央・「嘱託」駅員汀さん/右・郭さん(それぞれ仮名)(水里駅にて)
 
 茶を飲みながら、郭さん(仮名)が自己紹介をした。彼は南部にある台湾第二の都市、高雄で手広く事業をしていた。ここ水里には自分の家があり、よくここへ帰ってきて滞在する。すでに彼の妻は「鬼籍」に入っており、その墓参りも兼ねてよく帰省するという。彼は奥さんの話をするとき、遠くを見ながら話した。病床の奥さんは死の直前に、「あなたと一緒になって、いい人生だった。ありがとう。」といったという。須く、こういう人生を送りたいものだ。

 1999年9月21日の台湾中部大地震では、この町も大きな被害が出た。この駅舎もそうだし、家もたくさん倒壊した。被災者は駅へ逃げてきて、プラットホームや敷地内でテント生活をしていた。それを援助したのが、郭さんであったテントや食料を寄付した。後になって駅構内に木も植えたという。

 話しをしている最中に、また年輩者が入ってきた。「退職警察官」だった。何と彼も日本語が上手だった。郭さん、汀さんともまるで幼なじみのように話しをする。こんな小さな町では、みんながお互い顔を知っている。特に郭さんは、町にいろいろ貢献をしている。他の二人も敬意をもって話しているのが分かる。汀さんが茶を何度もついでくれる。わたしも外国でいろいろ汽車旅行はしたが、駅でこんなにリラックスしたのは初めてだ。

 やがて列車の時間が来た。「これから高雄に帰る」という郭さんと一緒に乗った。そして、彼からいろんな話を聞いた。彼は「7人の子供がいて6男1女で孫は18人いる」と言った。仕事上では日本の会社とも取引をし、時々日本へも行ったという。いまはすでに子どもたちに仕事を譲り、半ば「隠居」の身らしい。「日本語は日本へ行っても困らないくらい話せるが、戦前習った日本語なので言い回しが古いのと、最近の日本語の単語が分からない。いつも辞書などを脇に置いて勉強している。」そうだ。

  
 彼の「青春時代」は日本統治下だから、日本語で考え日本語で育った。日本人の教師は厳しかったけれど、一生懸命まじめに正直にやっていたら、それを正当に認めてくれた。彼自身も戦後、自分の子どもたちに自分が受けた「日本式教育」をそのまま実行した。結構厳しくしつけたらしい。彼の教えのひとつに「正直」というのがあった。息子は父の教え通り「正直な商売」をした。商品の送料でかかった正味の「片道分」だけ相手に請求した。台湾では、通常このような場合は「往復分」を請求するらしい。このひとつのことで、相手は感心して、それ以後商売がトントン拍子で進むようになったという。「これもワシが日本式の教育をしたからだ。」と郭さんは胸を張った。わたしは聞いていて、「今の日本はそんなことはありませんよ」と言いたかったが、郭さんの気持ちを考えて止めにした。

 彼はまた大家族の中で生まれ育った。兄弟姉妹の中には、「不運な人」もいた。ダンナに逃げられた姉がいたが、生活に困っているのを見て、郭さんが全面的に援助をした。中国系の人が「大家族主義」なのは有名で、世界のあちこちで助け合ったり、本国に仕送りをしていると言うが、彼も「当たり前」に善行を行ったのだ。他の話から想像しても、「人格者」である。「大家族のみんなが幸せになったらいい、困ったら助ける」という考え方は、「個人主義」の今の日本では、すでに滅びつつある。

 旅行の話をしていると、彼が最近行った中国本土の話になった。最近の台湾では、「中台接近」で台湾の資本もたくさん本土に流入し、本土への観光客も増加している−という。「郭さんも本土に工場を出すのですか?」と訊いてみた。「いや、わたしは絶対出さない」と意外な答えが返ってきた。「中国政府は外国が投資した会社、工場は何年か経ったら中国に寄付しろ、置いて行けという。そんなバカらしいことはしたくない」「それに台湾人が納めた税金で、中国軍が台湾に来たら困る。」とも言った。相当「本土不信」があるらしい。無理もない。何かあるたびに、中国海軍は台湾海峡で軍事演習をするのだ。日本人では分からない「緊張感」があるだろう。日本は本当に「平和」である。

 話がいろいろ変わって、「鉄道」の話になった。世界でも大体「道路交通と鉄道」は、同じ側を通行する。日本でいうと、車も列車も「左側通行」である。中国本土も台湾も、車は「右側通行*」である。だから、本土は列車も「右側通行」であるが、台湾だけは反対、つまり「左側通行」なのである。これは、「日本の植民地」だったことに由来するという。台湾政府は、「列車の右側通行化」を考えたが、莫大な費用がかかると分かって諦めたそうである。郭さんはこういう話もしてくれた。「植民地の後遺症」は、こんな所にもあるのだ。

  *(筆者注:イギリスの植民地だった香港は別)

 途中の二水駅で「復興号」に乗り換える。11時56分二水発。この後、郭さんが面白いことを言った。「この辺りの駅で、コンピューターがないのは水里駅だけだ。今乗ったこの汽車も、コンピューターで座席予約できていない」と。水里とは、あの汀さんの駅で私たちがいた駅だった。「どうするのですか?」「水里駅はいつも決まった分だけ座席をもっていて、その座席番号を記入するんだ」 わたしは通常訊くような、「もし座席分より多くの客が来たらどうするのか?」は聞かなかった。13時52分、台南駅到着。郭さんに住所と電話番号を教えてもらった私たちは、礼を言いながら列車から降りた。いい出会いで、いい話を聞かせてもらった。