6 略奪跡も生々しいベゼクリク千仏洞



 あの火炎山の山麓にむかってバスは走る。やがて、山はますます高く、谷はますます深くなり、道は山の横腹を延々と上がってゆく。空は紺に近い青、両側の山は黄土色、崖は所によっては80度くらいに屹立し、谷の川は水量は少ないが澄んだ水が流れ、その両側に瑞々しい緑が続く。しかも全体の中では、バスの大きさは点でしかない。何という色の対比、スケールの大きさだろう。このような構図は日本国内では見られない。

 やがて、川から屹立した崖の横腹に洞窟が点々と見えだすと、そこが千仏洞であった。その崖の上は、多量の砂が丘をなし、まさに洞窟をつぶさんばかりに見えた。入り口の売店横の階段に沿って斜面を降りてゆくと、崖に沿ってテラス状の回廊があり、大小の洞窟五十余があった。もっとも大きな窟に入ってみた。保存状態は大変悪い。色が褪せているうえに、ひっかき傷があり、半分以上は顔だけが削り取られている。後にやってきた偶像崇拝禁止のイスラム教徒の仕業であろう。これらの洞窟を作ったウィグル人自身も、後にイスラム教に改宗したという。


(ベゼクリク手前の渓谷・筆者写)



砂丘と千仏洞 (上下・筆者写)


 大変ショッキングなことがあった。何枚もの仏像の絵が真四角に切り取られ、地肌が見えていたことであった。これらはすべてヨーロッパ人が切り取り、持ち帰ったとのこと。その一角だけが異様な雰囲気を漂わせていた。「そうか、そういうことだったのか。」と、思わず独り言を言ってしまった。私が世界各地の博物館で、うれしがって見た東洋のコレクションは、すべ てこういう所からの「略奪品」であったのだ。それら の中には、確かにこの一帯から出土の物も多くあった。


 私は言い様のない気持ちになった。あのドイツ探検隊のル=コックが、フランスのポール=ペリオが、「学術研究」と称して本国へ持ち帰ったのは、このような品なのだ。無惨としか言いようがなかった。 大英博物館を訪れた時、シャンポリオンの逸話で有名なロゼッタストーンに感動し、パリのギメ美物館で中央アジア出土の壺に見入り、ベルリンのドイツ博物館でエジプトのネフェルティティ王妃の胸像に見とれたのも、「先進国」がこのようにして奪い取った財宝の一つであったのだ。


 しかし反面、後述の敦煌仏跡のいわゆる「敦煌文書」の場合のように、大変な価値を認めたヨーロッパ人によって「保存」されたと評価する見方もある。そのままその場所に置いていたら、消失または散逸していたかもしれなかったと言われているからである。大英博物館で、カーターの発掘で知られるツタンカーメンの黄金のマスクを探した時のことだった。その時うかつにも、それがエジプトに既に返還されたことを知らなかった。そして、すでにそこには存在しないと知って、しばらくは呆然と突っ立っていた。しかし、元の場所である故郷の国立カイロ博物館に帰ったと聞き、また安堵したのであった。ニューヨークのメトロポリタン博物館でも、ピカソの「ゲルニカ」が故国スペインのプラド美術館に里帰りをしたのを知り、「残念」という気持ちはあったが、ファシストの殺戮(さつりく)を憎む彼の精神が、やっと故郷に還った感がしたものだった。歴史上の文物は、その生まれた土地にあって初めて活きるものだからである。