16 このたびの旅のメインイベント
(とんこう・ばっこうくつ・せんぶつどう)
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翌日、まだ幾分涼しさの残る乾いた空気の中、バスは敦煌のホテルを出発した。25km走って、沙漠の中の緑濃いオアシスに到着した。水の少ない広い河原に沿って、向こうに数kmも続く崖があり、無数の横穴が開いている。門の近くにはポプラ林があり、中に小川が流れている。崖長は1600mで、石窟は492もあるそうだ。「ここは撮影完全禁止です。門のところの事務所に預けるか、バッグの中に完全にしまっておいて下さい」とガイドが言う。
莫高窟入口
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真夏というのにさすが「超名所」、日本人の団体はもちろん、中国人のグループも多い。洞窟の外には、たくさんのグループが順番を待っている。我々のグループの二十数名も、ここが見たくてツアーに参加した者が多いので、メモ片手にガイドにくっつき、必死で聞いている。洞窟も3m四方ぐらいの小さなものから、講堂くらいの大きなものまで様々である。
4世紀南北朝頃のものは顔かたちもインド風であるが、時代が下って隋唐になると中国人の顔や雰囲気になる。種類も壁画、彫塑が中心で、壁画はシャカの物語から旅人が山賊に襲われるようなものや、天女が琵琶を弾いているものがある。彫塑はシャカの涅槃(ねはん)や弟子と並んだものなど様々である。
北大仏殿前で(筆者) |
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最高傑作と思われたのは、第45窟であった。窟自体は小さいが、塑像のすばらしさには目を見張るものがあった。真ん中に如来、その両側に弟子の阿難と迦葉、その外に菩薩が二体、さらに外には天王と並ぶが、それぞれがすばらしい。千数百年前の物なのに、描写はリアルで細やか、色もほとんど褪せていない。さらに体の線や表情、手指先に至るまで動きがあり、全体の印象も優しい。
特に印象的なのが、左右二つの菩薩である。S字型にくねった胸と腰、化粧をしたような肌色、波打ち動きそうな赤い唇、夢想しているような半開きの目や、少し傾けた首と色鮮やかな色彩など、まさに息をのむ美しさである。
莫高窟第45窟 (注 中央の如来像は写っていない)(「絲路勝跡」より転載)
しばし見とれていると、同行の婦人から声をかけられた。「きれいですね。これは惚れ惚れしますね。」というと、「あの井上靖先生が<恋人>と呼んだ菩薩ですよ。でも井上先生もういないから、あなたの恋人にしたらどう?」私にはこういう発想はなかったが、有り難く採用することにした。「そうするかな。ウンそうしよう。」と独り言を言った。このように、すばらしい作品は盛唐・中唐期の物に多い。それらは、まるで極楽浄土を見ているようで、心が和んだ。
これに対して、初期(南北朝)の窟天井部の飛天は、黒の縁取りに褐色に近い肌色でより南国的かつ天真爛漫であるが、実は顔料を使わなかったために、表面の白が褪色し、地の色が出ているといわれる。どちらかといえば、唐代の飛天と比較して姿も動きも無骨であり、優雅さには欠ける。唐代のそれは、ルネサンス期キリスト教宗教画の天使に比肩する。ずっと通してみると、作品として魅力があるのは唐までで、宋になるとはっきりと衰退し、すべてがつまらなくなる。そして終わりの清代の作品になると、稚拙そのものであり、唐代の作品でも、後の時代に補修した物は違和感が残り、もとの作品の価値を毀していた。まさに「仏作って魂入れず」の良い見本と思われた。
ここまでは気持ちよくいくつかの窟を見学してきたが、またもや嫌な物を見てしまうハメになった。それはベゼクリク千仏洞で述べたような盗掘痕である。何カ所もの窟では、首だけがない菩薩や並んだ五体の一体だけ紛失した塑像や、いちばん保存状態の良い顔の部分だけが削り取られた壁画などがあり、それを見る度に心が痛んだ。中国人ガイドが「これはアメリカ人がニューヨークに持って帰りました。」と毎回説明した。ひょっとして、メトロポリタン美術館か?。私には「日本人が・・」と言われないことだけが、せめてもの救いだったが、非難めいた口調一つせず、淡々と客観的に説明するガイドの態度が、むしろ不思議だった。