7 終わりに
 

 ナポレオン戦争の後、
「会議は踊る。されど進まず。」と、高校の歴史で習った−のは、ウィーンの話である。モーツァルトが、マリー=アントワネットに、「僕と結婚してくれるかい。」と言ったのも、ウィーンの話である。ユダヤ人で精神分析の大家フロイトの研究が花開いたのも、ウィーンである。また、見てきたように、クラシック音楽の大作曲家が集った街もウィーンである。こうしてみると、ウィーンという街は、まるで何でも入ってしまう大きな袋のようである。

 また、「オーストリア:エステルライヒ」(英語名Austria、正式名Oesterreich)という国も、長い歴史の中では、神聖ローマ帝国、ハプスブルグ時代、周りの国(ハンガリー、スイス、ドイツ、バルカン半島など)を飲みこんだ大帝国であった。しかし、帝国崩壊前後は、ドイツ、フランスなどに影響され、第二次大戦直前からドイツ・ナチスに併合され、戦争中は戦場になり、戦後は東西冷戦の接点にあり、国際政治の狭間(中立国)で脅かされてきた。そういう意味では、
複雑な歴史、複雑な国境線をもつ国であるが、そういう中で、数多くの作曲家、演奏家、画家、科学者などを輩出してきた。この国は、現在は小国ながらも、「文化大国」である。

 こういう国の「墓場」は面白い。
墓を見ることが、即ち歴史を見ることになるからである。偉大な音楽家、探検家、大科学者、思想家、大事件の関係者、高名な建築家等々が、墓場という一カ所に集い凝縮するのである。全体的に見ると、その国が分かるだけでなく、墓の形や墓碑銘を見ると、その人の考え方や、その時代背景や後世の評価が分かるのである。そして、それぞれの墓にストーリーがある。たかが「墓」、されど、「墓」なのである。

 また、調べていくうちに、その後ろの歴史も見えてくる。この国の音楽家や学者、銀行家には
ユダヤ人が多い。今回見てきた墓にもユダヤ人のものも多い。この国は彼らが集まりやすい地理的環境があるうえ、ハプスブルグ家は比較的ユダヤ人に寛容な政策であったという。しかし、ナチが「侵入」した1938年を境に、彼らは外国へ亡命、移住したことがみえてくる。そういう意味では、この国出身の(一説には自身がユダヤ人であったという)ヒトラーが支配した時代は、ユダヤ人にとってはもちろんのこと、文化的学問的に言っても、不幸な「不毛の時代」と言わなければならない。文化全体が停滞するのである。このように、歴史は多くの教訓を与えてくれる。
                                       

 
ウィーン・ユダヤ博物館(公式サイト・英独語)Boesendorfer
                          
*わたしの「墓巡り」の経緯, etc.

 わたしの海外での「墓めぐり」の始まりは、1995年に行ったオーストラリア・カウラにある「日本人」墓地であった
(マイホームペーシ「オーストラリアあれこれ」参照)。そして次は、今回の3ヶ月前に行ったタイでの第二次大戦の連合国軍捕虜の墓地(マイホームページ「微笑みの国を旅して」参照)であった。そして昨10月には、ロンドンのウェストミンスター寺院の墓を見てきた。本文のものは、前二者とは全ての面で異なる墓ではあるが、「歴史」を感じさせ考えさせてくれると言う面では同じである。墓たちが歴史を語るのである。

  「このたび」のわたしの旅は、見てきたように、長年の懸案を実現して、著名作曲家の墓を見ていったのであるが、調べてゆくうちに別の課題がでてきた。この都市ヴィーン以外にも音楽家の墓が多いことや、見たい知りたいその他のジャンル、つまり政治家や科学者、画家、歴史上の王、貴族の墓も、当然のことながら莫大にあることが、今更のように気がついた。とりあえずは、
パリのモンマルトルペール=ラシェーズ墓地、それにフィレンツェのサンタ=クローチェ墓地である。多くの「魅力ある方々」が眠っている。いつの日か、一目お目にかかりたいと思っている。

 
(後日注:2014年にフランスを訪問し、モンマルトル墓地ペール=ラシェーズ墓地を訪ねた。長年の課題を一部であるが実現できた。残りの墓を次回に訪れたいと思っている。)

 最後に、この小文をお読みになった方のうちで、何人かの方が、「墓」に興味をお持ちになり、またそれを訪問するキッカケでもお持ちになったら、わたしには望外の喜びである。しかしながら、今回のテーマはわたしのいわば「専門外」でもあり、素晴らしい資料の助けを得て自分なりには調べてはいるが、認識不足や事実と異なる点があるかもしれない。識者のご指摘を喜んでお受けする。いずれにしても、拙文を最後まで忍耐強く読んでいただき、感謝している。
(2001年4月吉日)
                 *終わり*ENDE*END*FIN*

*筆者加筆注・・本文を書いたちょうど3年後、ウィーンを再訪し、本文関係の写真を若干撮影付加した。さらにポーランド、チェコを巡り、ショパン、スメタナ、ドヴォルジャック関係の地を訪れた。興味をお持ちの方は以下をクリックされたい。→「音楽家の史蹟(生家、墓、博物館)を訪ねて)」(2003.4)


 
 
付記  Very special thanks to these advisers, und Vielen Dank :

 
なお、この小文を書くにあたり、特に墓碑銘のドイツ語の翻訳を快く引き受けてくださった、我が従姉妹の多賀照子氏、及び私が墓碑から書き写したドイツ語の誤りを直してくださった、元教師のFrau Neef 、また英語翻訳の一部を手伝ってくださった橋内幸子氏(中国短大・助教授)、並びにそのヒントと解釈を与えてくださったMr. Richard Lemmer に心からお礼を申し述べたい。この方々の協力なしには、この文の完成はなかった。



ウィーン市立公園のヨハン・シュトラウス像"Webcam Stadt park from "Wien.at"

  

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