連合軍共同墓地で  Allied War Cemetery, Kanchanaburi
連合軍共同墓地の衛星写真と地図(Google)

 戦争博物館から川沿いの一本道を、汗を拭きふき1km以上歩くと、やっとその墓地は見えてきた。近づくにつれて墓地の美しさ、整備状態の良さが分かってくる。連合軍の共同墓地は2つあり、こちらは6982体が眠り、別の墓地には1750体が眠っているという。仮埋葬された骨を集めたものだ。街の中心に近く、目抜き通りに面するこの墓地は、まわりに美しい花樹が植えてあって、芝生の地面に墓碑がはめ込まれている西洋風のものだ。解説書の写真を見ると、これができた頃は石でなく白い十字架だったらしい。道路正面にアーチの付いた門があり、そこに英語で次のようにはめ込まれてあった。


門から内部を望む(筆者写)

 連合軍墓地 
1939−1945
この墓地の立っている場所は、ここで名誉を与えられた海軍、陸軍、そして空軍将兵の永久の安息の場として、タイ国民より贈られた

 
 そこから入ったところが、もっとも墓地全体を見渡せる所であった。それぞれの墓の間にも熱帯の花が植えられ、大変美しい墓地公園となっている。端から墓碑銘を見ていった。どれも決まって名前、所属、年齢があり、賞賛の言葉か遺族の言葉で終わっていた。年齢も22歳くらいから40歳くらいまで幅があった。

 気づいたことがある。それは死者が戦闘員だけではないということである。たとえば、イギリスシャーウッドの森の監督官とか、エンジニアとか民間人のドライヴァーとかもいる。戦闘員の方は、砲兵、空軍兵(R.A.F)、衛生隊員、マレー沖海戦で日本軍に沈められた戦艦プリンスオブウェールズの乗組員やシンガポール陥落時の志願部隊員もいる。これらは昭和16年頃の戦争初期の捕虜であろう。





       共同墓地正門の碑銘 (拡大・筆者写)


共同墓地墓地内部 (筆者写)
 
ほんの一部だが、墓碑銘を紹介する。(氏名、所属、階級等は省略 訳は筆者) 
 

* 彼は私たちが生きてゆけるように(そのために)死んだ

* 私たちが彼のために密かに流した涙を誰も知らないだろう
  私たちは世の誰よりも彼を愛したのだから
      注 彼の墓碑のマークは他の者のように十字架ではなく、「ダヴィデの星」=ユダヤ人のシンボルであった

* ただ一人の息子にしてただ一人の兄弟の思い出のためにまだ日暮れではないのに、
  もう彼の太陽は沈んでしまった    (両親と兄弟)

* 私たちの愛した、けれども救うことのできなかった者の物言わぬ墓の上に星がひとつ輝いている

* 私のもっとも愛した宝が悲しくも静かに去っていったその思い出に寄せて   (母)

* 美しい思い出、あふれる笑顔、私たちの決して何物にも代え難い絆が消えたのだ

* 私たちは彼のことを未だに変ってはいないと思いそしてこう言う−彼は死んではいない、
  ただ、遠くへ行っているだけなのだと 


 このような銘が延々と続いている。志に反して、若くして人生を、命を奪われた若者に対する家族、兄弟の悲痛な想いが伝わってくる。ひとつずつ読みながら、私は次第に涙腺がゆるむのを感じていた。熱帯の空は抜けるように青く、芝生は青く、花が咲き乱れていることが、余計に想いを深くした。


オーストラリア・カウラの日本人墓地
 話は変わるが、四、五年前に、私はオーストラリアの東南部にある田舎町カウラの戦争捕虜収容所(P.O.W Camp)に行った。ここは正確に言うなら、「日本人収容所」ではなく、「枢軸側捕虜収容所」であったのだ。だから韓国人やイタリア人もいた。オーストラリア人の友人が、「ケンジ、キャンベラの方へ行くのなら、ぜひ寄ってみたらいい」と薦めてくれたのである。あまりにも有名な米国の「マンザナ日本人収容所」を除いては、恥ずかしいことに、この国ではその存在さえも知らなかった。その収容所跡からさほど遠くない場所に、日本人墓地があった。

 その町は日本の市と都市縁組を結んでいるらしく、大きな日本庭園や日本の文化を紹介している立派な建物まであった。建設当時は、日本の東京都知事や外務省、商工会議所の寄付や協力があったらしい。そのためもあってか、地元の人たちの大きな墓地のそばに、広くはないが整備がされている専用の一角があった。そこは芝にセメントをはめ込んだ簡素な造りで、氏名と年齢しか彫られていなかった。中には民間人もたくさんいて、75歳の老人の墓もあった。ブルームという熱帯地区での真珠貝養殖者のものであった。女性の墓もあった。収容所で反乱を起こし、射殺された兵士のものも多くあった。

 オーストラリアの質素で粗末な墓板からいうと、ここの連合軍墓地のそれのなんと恵まれていることか。ここの市をあげて手入れをしているのがよく分かる。しかし、墓がいかに立派でも、手入れが十分であろうと、墓の主にとっても遺族にとっても何の意味もないことだろう。未来のある若者達が、異国で不本意に死んだのだ。戦争は全ての人にとって、不幸そのものである。
  
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