共同墓地墓地内部 (筆者写) |
ほんの一部だが、墓碑銘を紹介する。(氏名、所属、階級等は省略 訳は筆者)
* 彼は私たちが生きてゆけるように(そのために)死んだ
* 私たちが彼のために密かに流した涙を誰も知らないだろう
私たちは世の誰よりも彼を愛したのだから
注 彼の墓碑のマークは他の者のように十字架ではなく、「ダヴィデの星」=ユダヤ人のシンボルであった
* ただ一人の息子にしてただ一人の兄弟の思い出のためにまだ日暮れではないのに、
もう彼の太陽は沈んでしまった (両親と兄弟)
* 私たちの愛した、けれども救うことのできなかった者の物言わぬ墓の上に星がひとつ輝いている
* 私のもっとも愛した宝が悲しくも静かに去っていったその思い出に寄せて (母)
* 美しい思い出、あふれる笑顔、私たちの決して何物にも代え難い絆が消えたのだ
* 私たちは彼のことを未だに変ってはいないと思いそしてこう言う−彼は死んではいない、
ただ、遠くへ行っているだけなのだと |
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このような銘が延々と続いている。志に反して、若くして人生を、命を奪われた若者に対する家族、兄弟の悲痛な想いが伝わってくる。ひとつずつ読みながら、私は次第に涙腺がゆるむのを感じていた。熱帯の空は抜けるように青く、芝生は青く、花が咲き乱れていることが、余計に想いを深くした。
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オーストラリア・カウラの日本人墓地 |
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話は変わるが、四、五年前に、私はオーストラリアの東南部にある田舎町カウラの戦争捕虜収容所(P.O.W Camp)に行った。ここは正確に言うなら、「日本人収容所」ではなく、「枢軸側捕虜収容所」であったのだ。だから韓国人やイタリア人もいた。オーストラリア人の友人が、「ケンジ、キャンベラの方へ行くのなら、ぜひ寄ってみたらいい」と薦めてくれたのである。あまりにも有名な米国の「マンザナ日本人収容所」を除いては、恥ずかしいことに、この国ではその存在さえも知らなかった。その収容所跡からさほど遠くない場所に、日本人墓地があった。
その町は日本の市と都市縁組を結んでいるらしく、大きな日本庭園や日本の文化を紹介している立派な建物まであった。建設当時は、日本の東京都知事や外務省、商工会議所の寄付や協力があったらしい。そのためもあってか、地元の人たちの大きな墓地のそばに、広くはないが整備がされている専用の一角があった。そこは芝にセメントをはめ込んだ簡素な造りで、氏名と年齢しか彫られていなかった。中には民間人もたくさんいて、75歳の老人の墓もあった。ブルームという熱帯地区での真珠貝養殖者のものであった。女性の墓もあった。収容所で反乱を起こし、射殺された兵士のものも多くあった。 |
オーストラリアの質素で粗末な墓板からいうと、ここの連合軍墓地のそれのなんと恵まれていることか。ここの市をあげて手入れをしているのがよく分かる。しかし、墓がいかに立派でも、手入れが十分であろうと、墓の主にとっても遺族にとっても何の意味もないことだろう。未来のある若者達が、異国で不本意に死んだのだ。戦争は全ての人にとって、不幸そのものである。 |