ワット・アルン(暁の寺)へ "Temple of Dawn"  寺の衛星写真と地図(Google)



 
 帰国の前日、バンコク市街の見残した場所へ行こうと街に出た。そして、最後に残ったワット・アルンへ行こうとしていた。バスの路線図を見て、乗るべき番号が書いてある停留所に行き、ベンチに座って待った。汗がしたたり落ちる。しかし待てども待てども、その番号のバスは来ない。およそ30分経って、隣に座っていたおじさん(私もおじさんだが)に聞くが、英語が通じない。「ワットアルン」と何度も言うと、おじさんはしばらく考えてから、私について来いというジェスチャーをする。あまり豊かそうでない身なりをしているが、悪い人には見えない。そこでついて行くことにした。

対岸から見たワット・アルンとチャオプラヤ川
 
 通りをいくつも横切りやっとバス停に着くと、バスは待っていた。それに乗っておよそ10分、おじさんは私の分までお金を払って先に降りてしまった。そこで10分待って、別のバスに乗り換えた。私がよほど困っていたように見えたにしても、この人は自分が待っていたバスに乗らずに、見も知らない外国人のために自分の予定を変えて違うバスに乗り、さらにバス代まで払ってくれている。自分が逆の立場だったらどうだろうか。ここまではできない。現代の日本に、こんな人はいないだろうと思った。国が「豊か」なことと、人間の心が「豊か」なことは、必ずしも一致しない。むしろ逆なことが多い。
 
 やがてバスは、ワット・アルンの美しい塔が近くに見えるバス停で停まった。おじさんは(ここだ、ここだ)と指をさす。今度は金を握った彼の手を押さえて、私が先にバス代を払った。彼は路地を歩く間、何かを伝えようと懸命に説明してくれていたが、タイ語なので結局なにも分からなかった。裏門の中まで入ると、お別れだと言わんばかりに手をかざした。私はそばへ歩み寄り、両手で手を握り何度もなんどもお礼を言った。彼は微笑みながら門を出ていった。私はしばらく後ろ姿を見送っていた。ふと気がつくと、黄色の衣に身を包んだ若い僧侶が、うなずきながらこちらを見ていた。その目が微笑んでいた。何かしら仏の化身を見たような気がした。


 こうしてあの三島由紀夫が、小説の題材にしたワット・アルン(暁の寺)に着くことができた。まずその美しさと大きさに圧倒される。寺はたくさんの塔や伽藍からなっている。ゆったり流れる大河チャオプラヤそばを流れ、対岸から見ても美しいし、塔に登って川越しに街の中心部を見ても美しい。暁の陽光にも映えるし、夕日のシルエットも素晴らしいという。どこから見ても絵になるのだ。流石に、あの高名なタクシン王が作った、この国いちばんの寺だけのことはある。塔の表面の装飾も美しかった。全てが、色とりどりの石と彫刻で飾られている。

素晴らしいワット・アルンの仏塔と装飾 
 
 いままで寺院や教会建築で美しいと思ったものは、イタリアのフィレンツエにある花のドォーモ大聖堂であったが、東洋ではここが特記ものであろう。同じ仏教の「寺」でも、日本のそれとは趣が全く異なる。花に例えるなら、日本の寺がアジサイとしたら、ここの寺はブーゲンビリアであろう。それは、大乗仏教と小乗仏教の違いによるものか、それとも温帯と熱帯の違いによるものなのか。この日は気分が大変良かったので、寺へのお布施はいつもより多めにさせて貰って、それから渡し船で対岸に渡った。渡船料は、なんと2バーツ(6円)であった。


外部リンク:「ワットアルン」(Wikipedia)


  
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