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(前ページから同じ日がつづく)
中食をとって元気になった私たちは、台北の残った「観光」をすることにした。台北駅のキオスクに、例の「弁当箱」があったので、「台湾一周記念」に入れ物だけを買った。私は帰国しても使える、こういうちょっとした物が好きだ。使うたびにその旅を思い出すからだ。
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まず、台鐵・台北駅近くにある「国父史蹟紀念館」を訪れた。ここは中華民国・台湾建国の父、孫中山(孫文)が、台湾来島の折り、宿泊した建物である。
内部は畳敷きで、孫文胸像や書簡の写し、記録年表が展示してある。ただ「紀念館」という割には、展示物があまりにも少ない。
「国父史蹟紀念館」の建物(後ろ)と庭
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庭にでると、中華民国歴代総統の手植えの木が目に入る。蒋経國、李登輝(ともに国民党)の名前が杭に彫られている。
「国父史蹟紀念館」庭の歴代総統:
蒋経國、李登輝 手植えの木 |
紀念館庭の初代総統、
蒋介石の筆による石碑 |
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庭の隅には、蒋介石の書が石刻されていた。高さは人間の背よりはるかに大きい。建立は「民国43年11月」とあるが、今年は「民国91年」なので、50年近く前になる。
この国では、西暦よりも「民国暦」をよく使う。コンビニの領収書でも、「民国」と「西暦」が半々である。「民国暦」は、孫文があの清朝を倒した「辛亥革命」の年を元年とするようである。天皇が替わるたびに、呼称が替わる日本の「元号」とは異なる。流石に「共和制」の国である。
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MRT淡水線で、「二・二八和平公園」へ向かった。日本の植民地時代からあった公園だという。駅はひとつという近い距離である。「二・二八」とは、第二次大戦後の1947年2月28日に起こった事件の日付である。
二・二八和平公園 |
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いちばん簡単に言うと、大陸からやってきた国民党の組織が、本省人(台湾人)に発砲し、一人を殺したことから始まる。これに怒った本省人は、デモなどをするが、これにまた機関銃を発砲するなどして、多数の死者が出た。ここから暴動が起こるが、蒋介石の指示で武力鎮圧された。更にその後、本省人数千人が「抹殺」されたという。こうして長い間、国民党の独裁が続くのである。
二二八和平公園と国立博物院(左)
台北一の高さのビル(後ろ中央左) |
上写真右の東屋にある
「鄭成功」胸像と碑文 |
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公園内の東屋の中に、鄭成功の胸像があった。台南や安平では「飽きるほど」見た像や名前であったが、台北でも中正公園に次ぐ面積のこの公園にもあった。やはり鄭成功なくしては、この国は語れないのであろう。
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公園内には、他にオープンの音楽堂や鯉のいる泉水、記念碑やベンチ、椰子などの設備と緑がいっぱいで、まさに「都会のオアシス」といった風情である。
二・二八和平公園の端にある神社の鳥居 |
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「二・二八和平公園」から歩いて数分で、旧日本の台湾支配の象徴「台湾総督府」の建物が見えてくる。1895年の下関条約以後、日本はこの総督府を足場にして、「台湾の植民地化」を進めた。これは1945年8月の日本の敗戦まで半世紀も続いたのだ。
現在この建物は、「中華民国総統府」になっているが、これは「旧朝鮮総督府」の運命と比較すると面白い。ソウルにあった「日本総督府」は、旧王宮(李朝)を睥睨へいげいする場所に作られ、睨みを利かせていた。戦後も長く使用されていたが、近年取り壊された。両者のこの違いは何であろうか?。
旧日本の「台湾総督府」現「台湾総統府」
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・・・・・・・・これより最終日・十日目・・・・・・・・
朝のラッシュ風景 |
どこの国でもそうだが、「空港リムジンバス」は高級ホテル前にしか停まらない。朝食がすんだ私たちは、チェック・アウトをすませ、荷物全部を持ってバスの停まる格上のアンバサダー・ホテルへ向かった。
バスから見る台北の朝は、写真のように、「バイク・スクーター・ラッシュ」の光景であった。これで思い出すのは、中国本土の朝の通勤風景である。北京でも西安でも、もっと広い大通りに数千台?の自転車があふれていた。あの光景は、たぶん一生忘れられないであろう。
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空港リムジンバス(大有中正機場巴士)は、空港までNT100 (=360円)で、成田や関空とは比べようもなく安い。高速道路を通るのも同じなのであるが・・。こうして来た時とは違い、余裕を持ってチェックインできた。嬉しいことに?!、NW機も今度はちゃんと来ていた!
NW機は、ふつうの機内サーヴィスで、定刻通り何事もなく関空に着陸した。台湾であれだけ見なかった雨も、関空では「体験」できた。
この後、私たちはJRの「青春18キップ」を使って、関空から岡山まで「ひとり2300円」で帰ってきた。こうして、私たちの「暑い夏休み」が終わった。
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