・・・・ お わ り に ・・・・

 
 これまで述べてきたように、「
このたびのたび」は<列車で台湾島一周>することと<故宮博物院を見学>することが、二大目的であった。


 しかし当然ながら、この国の歴史や歴史的人物、日本による「植民地支配」を捨象して、この国について述べるわけにはゆかない。とくに、省くことができない「歴史的人物」は、以下の二人であろうか。






「民族英雄」
鄭成功

 
 <台湾近代史>では、鄭成功はビッグ・ネームである。「中興の祖」と言ってもよい。父が「海賊」、母が日本人で、中華民族の国「明」の遺臣として、異民族、満州族の「清」と戦った。さらに、この辺りを支配していたオランダと戦い、それを追放した−というのはすでに述べた。このあたりのストーリーは、この国の人たちの「愛国心」をかき立てるであろう。とにかく、台南、安平だけでなく、国のあちこちで彼の像や名前を見かけた。

 この「民族英雄」の血の半分が「日本人というのも、なにか台湾人の「親日的」な所と関係があるかもしれない。日本でいうと、源義経や西郷隆盛のような庶民的人気があるが、もっと一般的でさえあるだろう。台南には「成功大学」はあるが、鹿児島には「西郷大学」や「南州高校」は存在しない。岩手県に、「義経大通り」もないだろう。

 この鄭成功とほぼ同じ時代に、日本ではあの豊臣秀吉軍が朝鮮に侵略し、民衆を殺戮した。そしてその時に鄭成功と同じように、「英雄」が活躍した。それが李舜臣」(イ・スンシン)であった。このあたりの「日本との関わり方」が正反対である。そういう経緯が、朝鮮、韓民族の「対日感情」と関係しているのかもしれない。


孫中山先生



上海孫中山故居HPより

http://www.sh-sunyat-sen.com/








http://www.china-study.net/より




 
 孫中山(孫文)
は、台湾現代史、いや中国史の「ヒーロー」と言ってもいいだろう。日本人なら誰でも、中学校、高校の社会科で習った人である。異民族、満州族の国「清」を倒し、皇帝のいない「共和制」の国を作った人、「辛亥革命の指導者」である。たぶん、アジアでは初めての「快挙」であろう。

 孫文は台湾では、「国父」である。日本にはこういう人はいない。台湾を旅行して見ると分かるが、どこの町にも「中山路」がある。日本でいうと、どの町にも、「長島茂雄通り」や「犬養毅通り」があるようなものなのだ。もっとも、社会主義だった「旧ソ連」では、どんないなか町にも「レーニン像」があったようだが、「ソ連」解体時に引き倒されて今はない所も多いらしい。

 その孫文でも、仕方なく日本へ「逃げて」来たことがあった。明治期の日本には、「アジアの革命家たち」が集まることができるような「進取の気風」があった。アジアの中でいち早く近代化に乗り出し、アジアで白人の国に勝った(日露戦争1904-05)ただ一つの国であった。「植民地、半植民地」だったかなりのアジア人が、日本を「手本」にしようとしていた。日本人の中にも、「アジアは一つ」という考え方の人もおり、何となく通じるところがあったらしい。後に中国本土で有名な指導者になったものも、日本で学んだ人が多い。

 NHKの番組によると、「清朝打倒、三民主義、大アジア主義」の孫文を、金銭的に支援したのが、日本人梅屋庄吉であったという。こうして孫文と日本、日本人との関係が明らかになる。「庄吉」については、多くのHPが存在する。代表的なものを紹介する。

(リンク)梅屋庄吉伝・・・・・孫文と歩んだ30年

 しかしやがて、「日本の中国の対する侵略(帝国主義)」の意図が明確になると、中国民衆の「反日」「抗日」の気運が高まっていった。孫文は何度も日本に来たが、最後に来た時に神戸でこう演説したという。「日本は覇道を行くより、王道を行って欲しい」と。王道、覇道は中国に古くからあることば、概念である。彼は無理と知りつつ、日本に「王道」という立派な道を望んだのである。

 現在でも、孫中山は中国本土、中国共産党でも大変評価されている。南京をはじめとして、本土各地にゆかりある建物や記念館が存在するらしい。歴史上の人物で、彼ほど「呉越」両者から評価されている人物も少ないであろう。それだけ、「偉大な人物」ということである。インドのガンジーとともに、日本人としても、アジア人としても、決して忘れられない一人であろう。


孫文関連全サイト検索(要:中文フォント、一部英語)http://chinese.yahoo.com/Arts_and_Humanities/Humanities/History/People/Sun_Yat_Sen/



      
<私から見た台湾の人々>

 
最初からお読みいただいた方には、すでにお分かりのことと思うが、今回の私たちの旅は、台湾のさまざまな方々の親切や好意によって成り立った。本当に、異国の旅先での親切、思いやりは有り難いものである。台湾の方々は、老若男女を問わず、暖かく優しい方が多かった。目つきもやさしい人が多いし、立ち居振る舞いがおっとりしていた。「タイムマシン」で、日本を何年も昔に戻した感じさえあった。また旅行中に身の危険を感じたことは一度もなかった。治安も大変よい感じだ。何年も前に中国本土へ行ったとき、莫大な数の民衆の大変なエネルギーは感じられたが、残念なことに人々は決して優しくはなかったし、むしろ「えげつない」ところもあった。

 次に、日本や日本人に対しての親近感や、日本(語)に対する関心が顕著であった。これは大きく分けて、二種類があるだろう。まず70歳以上の老人は、植民地時代に学校で、日本人の教師から日本語を習って育った。ものを考えるのも日本語であるから、たぶん戦後、中国語になった時大変困ったであろうことは、想像に難くない。戦後も夫婦間は日本語で、子どもたちとは中国語で話したことだろう。また少数民族間では中国語ではなく、日本語を「共通語」として使ってきたという。

 こういう経過から、日本人と見ると話しかけてくる傾向があったし、むしろ日本語を使うことが喜ばしいようにも感じられた。本文中の霧社へのバス内で老人が言った「日本語が話せるぞ!」というセリフがそれを表している。さらに、日本人と仕事でつきあってきた人たちは、丁寧で綺麗だがやや古い日本語を話した。日本の植民地時代は、決して楽しい思い出ばかりではなかったようだが、戦後60年経った今では、反感よりむしろ親近感を持って私たち日本人に話しかけてくることが多かった。

 もう一つは、若者に見られる傾向である。親である今の中年の人たちは、当然ながら日本語は片言しか話さない。それでも人によっては、用が足せるくらい話せる人もいた。しかし若者たちは、日本語を習っている人以外はほとんど日本語は使えないし、むしろ英語の方を比較的流暢に話す。しかしそれとは別に、日本の歌手や俳優・タレントや日本的生活様式、文化については詳しく、抵抗なく受け入れている。店でも日本のCDや雑誌が多く売られていたし、そこに若者も多くいた。町で多く見られる「コンビニ」も、日本にある名前のものが多かった。そこでは日本製の品物が氾濫していた。彼らにとって、まるで「当面の目標が日本」だといわんばかりである。

 これというのも本文で書いたように、地上波のテレヴィのチャンネルに、日本のNHKや民放専門のものが4つあり、日本のドラマでさえ、毎日どの家庭でもふつうに見られるのである。私もNHKの「朝ドラ」はほぼ毎日見ていた。金大中大統領になって、やっと「日本の文化」が解禁になった韓国とは大違いである。台湾は文化的には、中国本土よりも日本に近い感じがした。ただ、ここで一つだけ気になることがあった。ここの若者たちの間で、日本の若者のように「戦争が風化」していないかということである。「歴史体験の次世代への継承」は、いずれの国でも課題なのではあるまいか。

 さて、公共の場面でも、日台の「親密な関係」が見受けられた。台北の「故宮博物院」では、背丈より高い「唐三彩」の立派な馬俑の展示がガラスケースの中にあった。下に「元日本国首相佐藤栄作氏及令夫人寄贈」という意味の表示があった。他の日本人の名前もあった。こういう地道なつきあいが、両国の友好に手を貸していたのだ。そういう積み重ねが、「国民的感情」を動かしてゆく。正式な国交はなくても、台湾から見れば日本は「友人」なのである。

<日常生活の中の「日本」>

 すでにお気づきのように、日常生活の中で日本植民地支配の「後遺症、残滓、残り香」があちこちで見受けられた。下の「旧台湾総督府」の建物だけでなく、言葉、文化の中にも多くの日本語の単語や日本的使用が見られる。「便當(弁当)」もそうだが、ウーロン茶や砂糖が入った緑茶同様に、日本の緑茶を「日式緑茶」として多く販売していた。そういう意味では、同じ「資本主義」として発展してきた英領香港とは、やや異なる文化として存在している。また汽車(自動車)が「右側通行」にもかかわらず、火車(汽車)だけは「左側通行」であることの理由はすでに書いた。

 また本文にもあるように、戦後の教育は一貫して「日本式、日本流」をそのまま継承し、勤勉な国民性を育成した。老人たちは、自分たちが受けた教育でもって、子どもたちを育てたのだ。ただその老人たちも、「今は教育も時代も変わってしまった、若者が何を考えているのやら・・」と嘆くのである。いずれにしても、有形無形の形で「日本的、日式」は散見されるのである。

  




旧日本支配のシンボル、旧台湾総督府、現台湾総統府

<「日本の植民地支配」とその後の影響について>

 
述べてきたように、私たちはこの旅で多くの老人たちと話をした。いろいろな情報もいただいたし、昔の話も聞くことができた。しかし私たちは、「日本語が通じる!」といって単純に喜んでばかりはいられない。帰国後調べてみると、朝鮮半島のように「皇民化政策」の一環として、やはり「創氏改名」が行われていた。下の写真と説明を読んでいただきたい。話しをした老人たちも、「ワシは名前が二つある」と言って日本名も紹介してくれた。このように総督府は「アメとムチ」で台湾人を懐柔しようとした。また老人たちは私たちと話す時は、微笑みながら話してくれたが、戦後の下の記事から見ても、いろいろ苦悩や葛藤があっただろうことは容易に想像できる。私が日本の若者たちにもっと知ってもらいたいことでもある。


「創氏改名」・・「日本人」になった台湾家庭の表札

 
朝鮮と同じく、台湾でも「皇民化」が推し進められた。台湾人の家庭で、日本語を常用する家庭を「國語家庭」とさだめ、日本式の姓名にすることが「許可」された。「國語家庭」には、物資の配給面や子どもの教育面で日本人と同等の待遇をするなどの優遇措置がとられた。
(日本の侵略、抄)


「高砂義勇兵」の遺族
 
1937年から始まった「日中戦争=日本の侵略」以来、植民地台湾の若者も戦場に駆り出された。はじめは軍夫、軍属として、後には兵士として召集された。当時「高砂族」と呼ばれた「山地少数民族」も南方戦線では「猛勇で大活躍」をしたという。こうして日本の敗戦までに徴用された台湾の若い男性たちは、約二十万人といわれ、三万人が戦死したといわれる。一家の柱である労働力を失った家は困窮した。また若い女性たちも「徴用」され、腕に「慰」の字を入れ墨されて「慰安婦」として、日本兵士たちの相手をさせられたという。
日本の侵略、抄)

写真右上に「遺影」がある。日本は「山地人」の戦意が喪失しないよう、
「名誉の戦死」とし、その家を「誉れの家」とした。
(日本の侵略)



 こうして「日本の戦争に協力」した元兵士たちは、「侵略者日本の手先で同胞を殺した裏切り者」として、本土からは冷たい目で見られた。元宗主国、日本も「台湾兵」には冷たかった。中国本土と国交を結んだ時点で「補償問題」は終了−という態度を取った。生存者たちは日本の裁判所に提訴した。しかしほとんどは棄却、日本の裁判所も「元日本人」には冷たかった。1992年の最高裁判決でも、上告は棄却された。この間1987年に、日本政府は「一人あたり最大限200万円の弔慰金または見舞金を支給する」という措置で決着をつけようとした。いまでは「元日本軍兵士」は「植民地支配の犠牲者」として同情されているという。
                                          (日本の侵略、抄)

台湾人元日本兵が、日本の裁判所に補償を訴える

 1982年2月26日、地裁判決後のインタビューに答える台湾人元日本兵。請求棄却の判決に、「血も涙もない判決」と、手や足を失った身体を怒りでふるわせた。マイクを向けられている原告のケ盛さんも、その右側に立つ同じく原告の蘇鈴木さんも、最高裁の判決を待たずに亡くなった。
(日本の侵略)


<むすび>
 
 台湾は現在、また世界有数の「外貨保有国」である。これは戦後「社会主義の中国」に対抗して、「資本主義の牙城」として、米日が軍事的経済的に積極的に「援助」してきたことによる。また、国力(面積、人口、資源)が圧倒的に負けている本土に対抗するため、日本同様「加工貿易」に徹するため、「人的資源と教育」に大変力を入れてきた。さらに、本土が「中国人を代表するただ一つの政府」として、国際社会(国連)で認知されると、ますます工業生産に力を入れ、「NIES」諸国のひとつとして、たいそうな発展をしてきた。コンピューター関連では、韓国と並んで世界をリードしている分野もある。いまでも韓国とともに、日本へ工業製品(部品)を供給する国として、「国交がない」にもかかわらず緊密な関係を保ってきた。

 今現在、世界の資本主義国は行き詰まっている。日本も「拡大再生産の夢」が壊れ、「バブル」がはじけて久しい。今となっては、台湾を含めたアジアの国々が、「日本が歩んできた道」を追いかけても意味のないことである。日本は戦後の「高度成長」と引き替えに、多くのものを失ってしまった。更にここ数年「共産党政府」の中国が路線転換し、名ばかりの「社会主義」、実態は「国家的資本主義的社会主義」となり、本気になって経済発展追求の姿勢を強めている。今後、本土が爆発的に工業発展する可能性も非常に高い。

 こういう世界とアジア情勢の中で、「中華民国、台湾」も「これからの生きる姿」を模索し始めている。長かった「国民党支配」を脱して、「独立」も含めた新たな方向を探している。そういうなかで、大切なものはやはり「人的育成のための教育」であろう。現在、台湾は日本以上に「学歴社会」だという。しかし戦後の50年間、日本の「学歴社会」が生んできたものを冷静に見ても、弊害も多いことは明瞭明白である。いつまでも、「大きいことはいいことだ」「有名大学を出ないと、幸せになれない」という「迷信」を持ち続けることは、決して良いとは言えない。


                       

 私は英国が「斜陽大国」といわれた頃に、その国内旅行をしたことがあった。確かに国家財政や国際的政治力は、あのエリザベス一世の時代の「栄光」もなく、「大英帝国」時代の経済力もなかったが、それぞれの家庭では「ガーデン作り」で庭が美しく飾られ、つつましく地道だが精神的に「豊かな生活」をしていた。その時思ったのは、「豊かさとはいったい何だろう?」ということであった。国家財政が豊かで物があふれていても、個人としては決して「幸せ」ではない。「国民総生産が世界でトップクラス」でも、「狭い家で高い物価」では決して豊かとは言えない。こころも荒んでいる、病んでいる。日本人もむしろつつましく見えても、もっと幸せな生き方があるのではないかと・・・。

 私は思いやりがあり、優しい眼差しの「台湾人」には、「日本と同じ道」を歩んで欲しくはない。小さい国には小さい国の生き方があるはずである。「小さいことは恥」ではない。むしろ「個性や自主性や独自性」があってよいのだ。二年前にオーストリアを再訪した。十数年前にもこの国へ行った。景色は全然変わっていなかった。人々の生活も変わっていなかった。みんなが自分のペースで歩いていた。私はそれが嬉しかった。景色が変わるのが、「進歩」ではない。拡大再生産を続けるのが、「進歩」ではない。自分の生き方を貫くのが肝要だと思うし、内面的な変化こそ「進歩」なのだ。台湾の国父、孫文が言った「日本は覇道ではなく、王道を歩んで欲しい」ということばは、台湾にも当てはまるような気がする。   
                                               (完)



 特 記
霧社事件、第二次霧社事件で亡くなった関係の山地人の方々と、
日本植民地時代に亡くなった方々、もと大日本帝国陸海軍台湾人兵士、軍属の方々の
ご冥福をこころよりお祈りいたします

付 記
筆者夫婦が台湾旅行中にお世話になった方々、特に郭さん(仮名)を
はじめとする老人の方々、モルモン教のアメリカ人宣教師の方々、
南投県仁愛郷公所および地区の皆さんに感謝を捧げます

翻訳協力者
霧社事件の記述を日本語訳してくださった、
中国内モンゴル出身の留学生KH君にお礼申し上げます

・・・・ 参考資料全般について ・・・・

引用、参考にした地図・出版物等文書類 著者・出版社等
 地球の歩き方 31(2002−2003版)  ダイアモンド(ビッグ)社
 合歓礼讃  台湾・南投県仁愛郷公所(役場)
 世界の博物館事典(世界の博物館・別巻)  講談社
 世界の博物館 21 故宮博物院  講談社
 世界各国史 9 「中国史」   鈴木俊編 山川出版社
 20世紀全記録(クロニクル)  講談社
 写真図説 日本の侵略  アジア民衆法廷準備会編 大月書店

参考および使用したウェブサイト名 U R L

中華民国交通局(省)観光局
http://www.tbroc.gov.tw/
台湾鉄路管理局(台鐵) http://www.railway.gov.tw/index.html

台鐵・鉄道博物館
http://www.railway.gov.tw/museum/mhead.html
台湾・YAHOO!(要・中国語・繁体字フォント) http://tw.yahoo.com/

中国語・繁体字・簡体字のダウンロードサイト
http://www.yahoo.co.jp/docs/help/bridge/
天気 http://tw.weathers.yahoo.com/
台湾旅行 http://kimo.eztravel.com.tw/
汽車の旅 http://www.eztravel.com.tw/package1/train/index.htm
http://www.npm.gov.tw/japan/index_j.htm

Taiwan Touch Your Heart (日本語)
http://202.39.225.132/jsp/Jap/html/attractions/scenic_spots.jsp?id=74

孫中山記念館(神戸市舞子)
http://www.china-study.net/
孫文「三民主義」について・山口一郎訳
(上記「china-study.net」にリンク)
http://www.china-study.net/yamaguchi-disgrahy.htm




「台湾一周・列車の旅」
"Around Taiwan by Train"
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