<はじめに Prologue>
日本人強制収容所(上) 兵士に先導され入所する日系人(右) ともに(A)より転載 |
第二次世界大戦が終わって、すでに55年以上が経過した。言うまでもなく、この大戦のもたらした惨禍は筆舌に尽くしがたい。これについて、これまでに多数の出版物、記録フィルム、ドキュメンタリー番組等々が出版、放映、発表されてきた。しかしながら、最近この種のものが減ってきているうえ、戦争を知らない世代が増加する反面、戦争体験者が老齢化してきているという現実がある。
さて、我が国では明治以来多くの日本人たちが、移民として外国に渡っていった。その出身分布は各県にわたるが、人数が多かったのは、沖縄、広島、和歌山などである。それらの中で最も有名なのが、ブラジルを中心とする南米への農業移民である。それ以外では、旧「満州国」への移民(後に消滅)があるが、数のうえでも無視できないのが、ハワイ、カリフォルニアを中心とした米国への移民である。
一口に「移民」といっても、初期の頃はいわゆる「出稼ぎ」が多かったようだ。金を日本に送金したり、一旗揚げると帰国する者も多かった。意外と知られていないのが、米国における日本人鉄道労働者である。もともと山を切り開き、線路を敷設する過重労働のこの仕事は、最初は中国人が担当していた。しかし中国人が「反乱」をおこしてからは、日本人がこれにとって代わった。日本人のその他の仕事では、野菜作りや庭師などの仕事が知られている。いずれも、あまり言葉(英語)を必要としない「肉体労働」である。最初に海を渡った人々は、当然のことながら、英語は苦手だったのである。
こうして、米国内に中国人や日本人などアジア系住民が増えてくると、合衆国では「黄禍論」*が広まってゆく。この考え方は、まず「黄色人種」の日本が、「白人」の大国ロシアを負かした日露戦争後から起こり、のちに日本が中国をはじめとするアジアを侵略し始めると、ますます広まってゆくのである。この裏には、白人の有色人種に対する人種的偏見や差別意識があり、またアジアにおける米国の利権・権益の障害となる軍国主義・帝国主義日本の存在もあるであろう。
このあたりが、同じ敵国であったドイツ系・イタリア系アメリカ人は「お構いなし」だったのに比べ、11万2353人の日系人が入れられた「日系人強制収容所」の背景ともなったとも考えられる。これはもともとヨーロッパ各国で差別されていたユダヤ人が、ヒトラーの出現と共に「強制収容所」に入れられ抹殺されてゆく経緯と比較して考えると、興味深いものがある。
解放された ユダヤ人 |
*黄禍論コウカロン・・・直接的には「黄色人種が禍いをもたらす」という考え方で、英語で"Yellow Peril"という。起源は13-14世紀ごろモンゴル(蒙古)人が、ユーラシア大陸を西進し、ヨーロッパに侵入、ポーランド・ハンガリー辺までが修羅場と化した。その後、ロシアはモンゴル人に長い間支配された。これを「だったん(タタール)のくびき」という。以来ヨーロッパ人は、本能的に肌の黄色いアジア人に恐怖心をもつに至った。
さらに近代日本が「日露戦争」に勝利すると、白人の黄色人種への恐怖がふたたび芽生え、ドイツ皇帝ヴィルヘルムがこの考え方を発表すると、たちまちヨーロッパに広まった。アメリカでは中国人、日本人などのアジア系移民が増加してゆき、単純労働をしている白人の仕事をさらに安い報酬で奪うことから、感情的に憎しみを込めてこのような考え方が喧伝(けんでん)されるようになった。こういう考え方が、現在までに白人による「人種差別」の根底にあると言われている。
さて話は戻って、述べたような「一世」としての日本人(日系人)のあとには、「一世」の子として生まれたいわゆる「二世」がいる。彼らは当然合衆国生まれである。米国の法律では、何人の子であろうと、米国で生まれた子は「米国人」なのである。(米国憲法修正第14条)これを「属地主義」という。因みに日本では、どこであろうと、日本人から産まれた子は日本人という「属人主義」を採っている。 これが「二つの祖国」の伏線である。
「二世」には大雑把にいって、二つの種類がある。一つはアメリカでそのまま成長した者、(これを現地日本人社会では非帰米組という)もう一つは、一度日本に行って再びアメリカへ帰った者である。(これを同じく帰米組という)前者は、米国の教育を受け、英語ができる人たちである。前者と比べて、後者は、日本語が英語より得意な傾向がある。これは、言語構造が身につく未成年時代を、日本で過ごすためと考えられる。言語と同時に、「日本的」な思考も身に付くようだ。こう見てゆくと、その生い立ちから「一世」と「二世」の間の考え方や意識が違うことに加えて、さらに二世間でも、「非帰米」「帰米」の間で、同様に違いがあることが、想像できる。
なおつけ足すと、既述のように、米国領土で生まれた「二世」は、生まれながらにして「米市民権」が取得できるはずだが、差別が表面化した1924年の「差別的」法律により、実質的には、「市民権付与」は制限され、やっと1952年になって、初めて正式に「市民権」を与えられることになるのである。
以上見てきたように、日系米国人と一口にいっても、いろいろなタイプがあることが分かる。今回は、特に「二世」の方々の話を聞く機会をもてたので、それらの方々のストーリーを中心にまとめてみた。読んでいただければ分かるが、彼らの苦労は大変なものがあり、とくに戦争中に、毒蛇もいたという荒野の中の「日系人強制収容所」(Japanese Concentration Camp)に入れられた方々の労苦は、なかなか簡単には文章に著しにくいものがある。彼らは戦争の被害者であると共に、歴史の証人でもある。これから、その「証人たち」に少し語っていただくことにする。
暗雲立ちこめる
トパーズ強制収容所
(A)
(注)なお、本文に登場する人たちは、カリフォルニア州に全て実在の方々であるが、諸般の事情から
この文章中では、全て仮名にさせていただいていることを、前もってお断りしておく。