A 日系人強制収容所に入れられた二世たち
Japanese-Americans"Nisei" put in "the Concentration Camps"
"Remember Pearl Harbor !"<リメンバー・パールハーバー!>


真珠湾攻撃・炎上する戦艦ウェスト・ヴァージニア
Pearl Harbor 1941 (6)

 
1941年12月7日(日本時間8日)、宣戦布告なし*にハワイ真珠湾を攻撃した日本に対して、米国民は激昂した。これ以来、「リメンバー・パール・ハーバー」の合い言葉によって、米国民は団結してゆく。この言葉は、「卑怯・卑劣なこと」の代名詞としても使われたという。以後、日本、日本人をJapan, Japaneseジャパン、ジャパニーズと呼ばず、Japジャップと侮蔑的に呼ぶようになる。

 日米開戦のおよそ2ヶ月後の1942年2月19日、時の米国大統領フランクリン・D・ルーズベルトは、大統領行政命令第9066号を発令し、太平洋岸の各州に住む全ての日系人・日本人を、収容所に移すことを決定したのであった。こうしてその決定は実行に移された。

*日本の対米宣戦布告
米・20世紀FOX映画「トラ・トラ・トラ!」にあるように、
「日本は宣戦布告をしなかった」のではなく、「出来なかった」のである。周知の事実であるが、当時の在ワシントン日本大使館は休日で専門のタイピストが居ず、館員が下手なタイピングをしていたため、「宣戦布告状」提出が遅れたのであった。さらに、米諜報部はすでに日本の暗号電報を完全解読し、ハワイ方面の攻撃も察知していた。「意識的に日本に先に手を出させた」というのも、誇張ではないようだ。しかし現在でも巷間のアメリカ人の中には「日本が卑怯」という比喩にこの「宣戦布告もなかった」という表現を使う者もいる。
      
当時の代表的アメリカ人の公式な発言は、以下のようである。これで、当時の米国内の雰囲気がよく分かる。

 "The Japanese race is an enemy race."
     Gen. John L. DeWitt, Commander, Western Defence Command & 4th US Army
 
      「日本民族は敵の民族である」 
          ジョン・L・デウィット将軍 西部防衛軍、米陸軍第4師団司令官

"I'm for catching every Japanese in America, Alaska, and Hawaii now and putting them in concentration camps.....Damn them ! Let's get rid of them now!"
     Congressman John Rankin, Congressional Record, Feb.19,1942

    「今すぐ米本土、アラスカ、ハワイの日本人を一人残らず捕らえ、
    そして強制収容所に入れることに賛成する。
    日本人などクソくらえだ 直ちに彼らを追放しよう!」
 
          ジョン・ランキン下院議員 下院議事録 1942年2月19日
                                                                      
(ともに”Executive Order 9066"(A)より)

 
さらに同年3月2日、カナダからメキシコに至る西海岸地域が、「陸軍軍事第一区」に指定され、日系人は即刻立ち退くよう命じられた。(1)
                         



西部防衛軍、陸軍第4師団WCCA
による日系人への「移動指示書」(ク)





「日本人をカリフォルニアから追い出せ!」
サン・フランシスコ・エグザミナーのトップ記事
(オークランド、1942/2/27)(3)

    

「10万人のジャップが西海岸から一掃される」

 右の記事は、その2ヶ月半後の1942年5月20日付の「サンフランシスコ・クロニクル」紙のものである。見出しは「今や10万のジャップが西岸一帯から一掃された」とある。さらに記事は続けて以下のように書いている。


 
ほぼ10万の日本人が、すでに西海岸地帯の家や農場から移動させられるか、移動命令を受けている−と戦時市民統制監督局(WCCA)は昨日当地で伝えた。 同局はまた、現在94,330人が、集合・移動用の仮収容所におり、2,342人が移動中で、3,035人が10日以内に移動するよう命令を受けていると語った
                
              
"San Francisco Chronicle" May 20 1942(A)
                    

 
こうして、世界でもあまり類がない「自国民を収容所に入れる」という「作業」が始まったのである。ただ一つ不思議なことは、西海岸以外の地区の日系人は、自分の意志で収容所に入るよう指示されたのである。この一連の措置は、「ハワイの次の攻撃は西海岸だ」とする考え方からきたのである。彼らは、そういう事実がなかったにもかかわらず、日系人のスパイ行為を非常に怖れたのである。