おわりに Epilogue
まず始めに、「一世」「二世」そして「三世」について考えたい。すでに書いたように、「一世」は初期は、ほとんどが「出稼ぎ」目的であった。だから、金は日本に送るし、また金を持って日本に帰った者もいる。また「お嫁さん」は日本人から「もらう」のである。仕事も既述のように肉体労働が中心で、英語もあまり必要としない。日本で育ち、日本食を食べ、日本語で考え話すのであるから、いつも「日本」が頭にあり、かなり日本と繋がっている。ふつうならアメリカの「市民権」は取りにくいので、「完全なアメリカ人」にはなれないのである。戦争中にはアメリカは、こういう人たちを”EnemyAliens” エニミー・エイリアン=「敵性外国人」と呼んだ。 これに対して「二世」は、基本的に生まれた場所がアメリカ(親が日本帰国時に出生した者は別)である。動物でいう「刷り込み現象」の最初のシーンが、アメリカの風景である。家庭の中では日本語でも、学校へ行けば全て英語である。耳で覚える英語だから発音もアメリカ人に近い。そのうちに親を通り越して、親より英語がうまくなる。内容が難しくなってくると、親が子供の英語を「当て」にするようになる。後になると、人によっては、「お嫁さん」を白人からももらうようになる。夫婦間では英語時々日本語であるが、子供とは英語である。 しかし二世の心には、「日本」が残っている。一世が、物心ついた頃から日本のことを話して聞かせてきた。そして親の後ろ姿を見てきたのだ。こうして彼らは、「日本の影」がありながらも、「アメリカ人」である。ただしこの場合も、まだ完全な「アメリカ人」ではなかった。1924年の米法は、アメリカ生まれの彼らに、事実上「市民権」を与えないようにしていた。二世たちが正式に「市民権」を獲得できたのは、戦後も1952年になってからのことである。 三世になると、姿形は「アジア人、日本人」でも、考え方も生活もアメリカ式・非日本式である。彼らの友人達も、ヨーロッパ系、アジア系、アフリカ系、先住民系と多彩である。極言すれば、「三世」はほぼ完全に(またはほとんど)「アメリカ人」なのである。たまたま、先祖が日本人だっただけである。三代同居の家庭では、会話は英語が中心となる。そうなると、一世のおじいちゃん・おばあちゃんは、家族の英語の話に入ってゆけない。孫とも話が出来ない。寂しさだけが募るのである。今さら「英会話」の勉強もできない。近くに「日系人」の話友達がいればよいが・・・という状態になる。ここには、日本における「世代間のギャップ」よりも、さらに大きな世代間の「ギャップ」がある。 さて、話が戻るが、もちろんすべて個人差はあるが、こういった一世・二世のメンタリティーや「英語能力」の違いが、また心情的な日本との繋がりの強弱が、日米開戦時の行動の差になって現れたのであろうか。繰り返すが、一世が「ほとんど日本人」なのに対して、二世は強弱はあるにしても、彼らの本当の「故郷」はアメリカなのである。 |
マンザナーの記憶 ヤスコ・モトワキ |
私たちの顔の色が違うという理由だけで |
(資料)第二次大戦後のアメリカ政府の対応
この詩には、何もこの国に対してやましいことはしていないのに、苦しみを与える「祖国」へのメッセージがある。戦争を始めたのは「日本」であって、「日系人」ではない。つまり彼らの預かり知らぬところで、「勝手に」戦争が始まったのだ。なのに「私の国は非道いことをする」−のだ。
確かに、自分を収容所に入れたアメリカに対して、わだかまりがあって当然である。言いたいこともたくさんあるだろう。本当にこの国が「嫌い」なら、日本へ「帰る」こともできた。しかし、「ここは私の国なのだ。私の生まれて育った国なのだ」そして、「日本は私の祖先の国、私の血、わたしのアイデンティティは、そこから来ている。」できれば、アメリカも日本も両方とも戦争をしないで欲しい。私にとって、どちらの国も大切なのだから。これが、二世の二世たる所以であろうか。
それにもかかわらず、戦争中の二世たちの実際の行動は、極端にばらつきがあった。ある者は、自ら兵役を志願し戦場に出た。積極的に「アメリカ人」になろうとしたのだ。また、別の者は収容所の中で、心の葛藤で悶々としながら生活に耐えた。またある者は、本文中の写真の若者のように、悩んだあげく、自ら死を選んだ。
(注:二世たちは「アメリカ人になるため」、第二次大戦中にアメリカ陸軍第442連隊戦闘団に入隊し、
ヨーロッパ戦線で多数の死傷者をだしたが活躍した その結果日系人の地位が上がったのも事実である)
いろいろなことが考えられるが、共通に言えることは、彼らがアメリカの地で、自分の信じるものによって、彼らなりに「一生懸命に生きようとした」ということである。いずれの「道」を取ったにしても、イージーな道はない。悩み抜いたはずである。彼らは純粋であったとも言える。そういう意味で、私は<二世こそがいちばんの「戦争の犠牲者」である>と言いたい。
さて話が変わるが、ここで「市民権」について考えてみたい。端的に言うと、外国人が「永住権」をとるのは比較的易しいが、「市民権」は難しい。何度も書いたように、アメリカの場合は「属地主義」で、米領土で生まれた者は、何人の子であろうと「アメリカ人」となる。(憲法14条修正)これはこの国の歴史から由来するのであろう。
それは、アメリカ先住民Native-Americans(通称「アメリカ・インディアン」と「エスキモー」)を除けば、『移民』で構成されたこの国の生い立ちから来ている。しかし日本をはじめとする世界の多くの国々は、原則として子の国籍は親の国籍と同じである。この二つの原則が並行してある限り、いつでも「二つの祖国」の問題は起きる。平和な時代には全く問題はないが、戦争時には述べてきたような問題が起きるのだ。
二つ目は、「人権の保障」の問題である。「人権」は、民主主義の最も基本的な要素である。古代から近代にいたるまでに、歴史の中で多くの「人権」が侵されてきた。その反省から、世界の近代国家の憲法には必ず、「人権の保障」がある。アメリカといえども例外ではない。いやむしろ、イギリスの名誉革命、フランス革命と並ぶ三大「市民革命」としての「独立革命」の結果、誕生したアメリカ『合州国*』である。アメリカは、いわば世界の誇る近代民主主義の「産物」であったはずである。
*United Statesの直訳
その国が、いかに戦争という非常時であろうと、れっきとした「アメリカ国民」とその両親たちを、法の裏付けも裁判もなしに、「隔離」して良いわけがない。合衆国憲法修正各条項を、どうこね回してもこの正当化の解釈は難しい。さらに、当時敵対していたドイツ、イタリア系市民については、「隔離」がなかったという事実に照らせば、「法の下の平等」という大原則からいっても矛盾する。それは、彼ら(独、伊)が白人ということと、「移民」の中でそれぞれ第一位、第二位という数の論理、そしてすでに彼らが政治力、経済力を持っていたということもあるだろう。しかし、結論的には、やはり「人種差別(Racism)が存在した」と言わざるを得ない。
以上のように見てくると、アメリカであれ日本であれ、憲法にかいてある「人権」が、漫然と保障されることはないということが見えてくる。イギリス絶対王政の横暴さに「市民」が目覚め、「為政者」を替えて出来たのが、アメリカという国である。それにもかかわらず、この国では、「奴隷制度」「魔女狩り」「黒人差別」「先住民差別」「少数民族差別」「有色人種差別」がおこなわれてきた。それどころか一部を除いて、今も有形無形に存在することは、衆知の事実である。
すでに60年代のアメリカに、「公民権運動」があったように、世界のいずれの国でも、市民の側に「人権意識」と「我々が政府を作っているという意識」が必要である。そのためには、「歴史の学習」と「問題意識の保持」と「一人ひとりの国民の政治への参加」が不可欠となるであろう。これらは、人類のとっての「永遠の課題」なのである。
(完)
第二次大戦後のアメリカ政府の対応
1952 日系米国人に正式に市民権が与えられる 1970代中 フォード大統領が「戦時の日本人拘留は誤りだった」と認める 1988 レーガン大統領が生存する日本人強制移住者および拘留者に、10年以内に2万ドルを認める市民的自由の権利に関する法令制定の署名を行う 小切手に添えられていたレーガンの後任、ブッシュ大統領の手紙
「お金やことばだけでは、失われた年月を取り戻すことも、痛ましい思い出を消し去ることもできません。また、国家の不正を改め、個人の権利を擁護する決意を十分にお伝えしたことにもなりません。過去の過ちをすべて正すことはできませんが、明確に公正な立場をとり、第二次大戦中に日系米国人に対して重大な不正が行われたことを認めることはできます。」1992 マンザナーが国立史跡に制定される
<出典>映画「ヒマラヤ杉に降る雪」(原題;Snow falling on Cedars)
日本語版DVD添付の解説書から要旨を引用
「ヒマラヤ杉に降る雪」ユニヴァーサル映画公式サイト