のだ。緊張感があった。そうでなくても暑い時期に窓を閉めたので、たまらない暑さになった。長いことかかったが、釜山までは食事も出来ず、ただ水を飲んだきりだった。それでもなぜか空腹感はなかった。
1928年頃の大田駅(4)
釜山からは、日本から帰国する
朝鮮人を乗せてきた船の「帰り船」に乗った。博多港に着いたが、何年ぶりかの日本であったわりには、感動はなかった。疲れ果てて、頭がボーとして何も考えられなかった。とりあえず、博多駅から八幡駅(現北九州市)に向かった。そのころ、
「復員兵」は汽車賃はタダだった。用事を済ませてから、熊本の伯父の家へ行った。
生きて帰ったので、大歓迎してくれた。当時は、「白木の箱」(骨)で帰ることも多かったのだ。しばらく居てから、応召前に勤めていた
八幡製鉄の寮に戻った。
日本へ帰ってきた帰還船(5)(文章とは無関係です)
ある日、寮に若い女性がやってきた。話してみると、しっかりした感じのよい娘であった。男の寮生の「服直し」に来ていると言った。朝鮮の山の中に何年もいたのもあってか、この明るく話好きな娘が輝いて見えた。それに読書好きで、物知りであった。この時、
私が25歳、その娘法子が23歳であった。だんだん意気投合して、一緒に散歩したり、趣味の話をしたりと、急速に仲が進んでいった。いつしか、結婚を意識するようになった。
ちょうどその頃、
アメリカに残っていた父親から、手紙と日用品が届いた−と熊本の伯父から連絡があった。手紙には「帰っておいで」と書いてあった。「そうだ、親父のもとに帰ろう」と思った。ほとんど記憶がないアメリカであるが、今となっては、父のもとに帰りたかった。戦争中はずっとひとりで生きてきた。ここでアメリカに帰らなかったら、もう父に会えないような気がしていた。早速手紙を書いた。
折り返し、
父から「出生証明書」が送られてきた。ここからの手続きが大変長いので、簡単にまとめてみる。