20 大迫力大規模の「始皇帝兵馬俑坑博物館」
翌日、秦の始皇帝の陵と兵馬俑坑(へいばようこう)見学に出発した。秦は日本では小学生から知っている王朝であるが、そのアルファベット表記CHINが英語のCHINAになったくらい西洋でもよく知られている。日本では、中国で最初に「皇帝」と名乗った始皇帝(これは本名ではない、帝とは古代では「神」の意だそうだ。何と不遜なことであろうか。)が万里の長城を築かせ、儒教を大弾圧したことばかりが知られているが、貨幣やはかりの度量衡や文字の字体を統一したことなど、古代国家としては画期的なことを実行したのだ。
さて、バスは西安の東方30kmの兵馬俑坑に向かうが、途中の道は高速道路風で快適である。道の左右遠方には、大小の陵や古墳らしい物が、現れては消える。行く手に大きな川が見えてきた。渭河(渭水)である。
渭城の朝雨軽塵を潤し 客舎青々柳色新たなり
君にすすむさらにつくせ 一杯の酒
西の方陽関を出ずれば 故人なからん
−という王維の詩が、脳裏に浮かんできた。高校の「漢文」で習ったやつだ。日本人は、あまりにも有名なこの詩を、何度口ずさんできたことか。後で、中国人ガイドの付さんが、中国語でこの詩を詠唱してくれた。脚韻を踏んだ響きが、日本語で詠むよりはるかに素敵に感じられた。やがてバスは、みやげ物屋、露店の食堂が道の両側に、40軒ぐらい並んでいる通りの端にある大きな駐車場に停まった。始皇帝兵馬俑坑博物館はさすが中国でも超名勝なのであろうか、日本で言うと江ノ島か日光の感じで、外国人もふくめ大変な人出である。
(左)博物館内の展示(復元後の姿) (上)破壊された兵馬俑(左共に筆者写)
「始皇帝兵馬俑坑博物館」は通りの突き当たりにあった。まず一号坑に入ってびっくりしてしまった。坑を覆う屋根付きの体育館風建物が異常に大きい。聞くと60m×200m、総面積14260uと言うことで発掘、未発掘の俑合わせて6000体という。回りが回廊の見学者用通路で、一段と高くなっている。入り口の部分のはきれいに整列しているが、奥半分は発掘中だが、グジャグジャで、まるで焼け跡の瓦礫のようである。
1974年の発見時は、すべてがこのようであったのだろう。それを破片の一つ一つを組み合わせて、今の姿にしたのだから、この忍耐と根気には舌を巻かざるを得ない。発掘は継続中で、終了は21世紀まで持ち越しらしい。「発掘が終了したら、また来て下さい」といわれたが、はたして筆者は生きているだろうか。それにしても、余りに壊れすぎていると思っていると、ガイドが、「漢の項羽、劉邦らが、部下に命じてこれらの俑を毀したのです」というのである。よく見ると、火を放った痕が黒く焦げている。この破壊はすごい。しかし、「創造」と異なり、「破壊」はアッという間だったであろう。後に権力を握った者たちの怨念と執念を見た様な気がした。
次に二号坑へ入ったが、面積こそ一号坑より劣るものの、種類、質ともにそれを凌駕している。焼き物の俑は同様だが、さらに騎兵、木製戦車、立ち姿、座った姿の弓を扱う兵士や青銅製の武器などすばらしい内容である。三号坑はもっとも小さい。しかし、将軍や馬多数で、並び方も複雑、司令部だったらしい。回廊部のガラスケースには将軍像や副葬品などがたくさん展示される。
下の作業現場を見ると、働く職員の姿が見え、一輪車で土を運び出している。中に入って一緒に手伝いたい気分であった。こうして見ていて驚いたことは、何千体とある中で、一人一人顔や服装が違うことである。ただ変化させているのではなく、一つずつモデルがあったという。一説には、顔は俑の焼き物工房の職員の顔であったというが、もしそうなら興味深い。大体、西洋の画家でも、大作の群衆の中に自分の姿を入れたりするものだ。古今東西、発想は同じなのだ。
始皇帝は、万里の長城を作っただけでなく、超弩級スケールの「阿房宮」造成や「仁徳陵」以上の世界一の規模と言われる陵とともに、この死後の地下大護衛団製造のため労役や税金をかけたので、民衆が怒って蜂起したという。この結果、作業中止になった第四坑は、未完成のままで最近発見された。誠に「兵馬俑坑」は、権力を握った者たちの執念や顕示欲が、民衆を搾取し苦しめたシンボルと感じさせた大モニュメントであった。