私たちが旅行中にみた
Witnesses in the World History
東西冷戦時代 「東ドイツ・東ベルリン」側から見たブランデンブルグ門 元は「プロイセン(プロシャ)王国」の凱旋門であった
その栄光の門が「東西冷戦」のシンボルとなった 「ウンター・デン・リンデン・シュトラッセ(菩提樹下通り)の突き当たりである
写真中央の門奥の白い部分が「ベルリンの壁」 柵があって門には近づけなかった 向こう側は自由圏の西ベルリン
この撮影から4年後、1989年に壁は崩壊し東西冷戦は終了した (東ドイツ・東ベルリン)
Brandenburger Tor from "East Berlin " side, DDR 1985 Analog photo
上記写真と同じ日に「ベルリンの壁」の「西ベルリン」側から同じブランデンブルグ門を撮った写真
写真下方にあるのが「ベルリンの壁」でこちら側には「西側の人間」が落書き(メッセージ)を書いている
いちばん下のはドイツ語で「ロシア人はアフガニスタンから出て行け!」とある 当時、「ソヴィエト」はアフガニスタンに侵攻していた
(西ベルリン) Brandenburger Tor from "West Berlin " side, West Germany,
1985 Analog photo
東西冷戦時代、「東側」への入り口 「チャーリー検問所」 "Check point C"
「東ドイツの東ベルリン」に入るのは、米・英・仏軍共同管理のここ「チャーリー検問所」からであった
手前左の白い建物が連合軍の検問所、ここでは検査は全くなかった 向こう奥の白い部分が「ベルリンの壁」
その手前のバリケード脇に東側検問所があって、機関銃と大きなサーチライトが「西側」を向いていた
「東ベルリン訪問一日ヴィザ」はここの建物に入り、お金を払って入手した 「東」側の車輌出入り検査は厳しく、
室内・トランクはもちろん、特に西側に出る車は下まで大きな鏡で検査していた 歩いて行ったが通り抜けるまで大変緊張した
中央右奥の看板は「注意!あなたは西ベルリンから離れようとしています!」と警告している
Check-point Charlie (left) of Allied Forces of USA, UK and France, during "Cold-War" days, 1985 Analog photo
「東西冷戦」終了のきっかけになったニコライ教会 (ドイツ・ライプツッヒ) Nikolaikirch, Leipzig, Germany
1989年10月9日の「平和の祈り] Friedliche Revolution
・・・東ドイツ時代、ここでは東西冷戦の緊張の中で毎週月曜に平和のあり方を考える「平和の祈り(Friedensgebete)」が開かれるようになり、その規模は言論・政治活動・出国の自由を求める人々によって次第に拡大し、教会外へのデモ行進へと発展してゆきました。来たる1989年10月9日、7万人に膨れ上がった参加者が「我々が人民だ(Wir sind das Volk!)」(=我々こそが主権者たる国民だ)と叫びながら広場や通りを埋め尽くすという大規模なデモが起こり、これによって東ドイツ平和革命の口火が切られます。瞬く間に東ドイツ全土に広まった反体制運動はその1ヶ月後にベルリンの壁を崩壊させ、わずか1年後には東西ドイツが統一されました。ニコライ教会は「東西ドイツ統一革命の出発点」として世界史にその名を刻み、ライプツィヒの象徴として現在を生き続けています。・・・
(説明文はライプツィヒ観光局公式サイトより部分抜粋) (C)Leipzig Tourismus und Marketing GmbH |
負の世界遺産 アウシュヴィッツ(=ビルケナウ)強制収容所 (ポーランド・オシフィエンチム市)
ドイツ・ナチ・親衛隊SSがヨーロッパ各所に造った恐怖の収容所の一つ 人種差別によるホロコースト(絶滅政策)を目指した
被害者はおもにユダヤ人だったが、政治犯、ロマ(ジプシー)、障害者、同性愛者、捕虜、聖職者、エホバの証人なども対象だった
KZ Auschwitz-Birkenau (Nazi Concentration Camp), Osciencim, Polska(Poland)
負の世界遺産 アウシュヴィッツ(=ビルケナウ)強制収容所 毒ガス室外観 (ポーランド・オシフィエンチム市)
ドイツ・ナチ・親衛隊SSがヨーロッパ各所に造った恐怖の収容所の一つ 「収容者」を裸にして狭い部屋に入れ
天井から猛毒チクロンBを噴射し大量に殺した この収容所だけでも150万人が殺された
有名なアンネ・フランク姉妹も一時ここにいたが、後にベルゲン・ベルゼン収容所に送られチフスで死亡した
KZ Auschwitz-Birkenau (Nazi Concentration Camp), Osciencim, Poland
負の世界遺産 アウシュヴィッツ(=ビルケナウ)強制収容所 ガス室で「処分」した死体を焼いた窯(復元)
(ポーランド・オシフィエンチム市)
ドイツ・ナチ・親衛隊がヨーロッパ各所に造った恐怖の収容所の一つ 「収容者」の「処理」の方法はいろいろで
この様に焼いて灰にしたり、穴を掘って殺したまま埋めたりした
今は常に鎮魂の蝋燭に火がともされている 二度とあってはならない人間の狂気である
KZ Auschwitz-Birkenau Gedenkstaette (Nazi Concentration Camp), Osciencim,
Poland
ブッヘンヴァルト強制収容所
アウシュヴィッツ収容所以外にもドイツ国内外に多くの強制収容所が造られナチの思想で除外する人々を「処理」していった
"KZ Buchenwald" Gedenkstaette, Deutschland
1937年7月に設置されてから1945年4月のアメリカ軍による解放を迎えるまでの間に、ブーヘンヴァルトには
総計で23万3800人の人間が「囚人」として送られ、そのうち5万5000人以上の人間がここで殺されたといわれる
写真は連合軍がの突入後、発見された死体の山 すべてやせ細って栄養失調状態である
(ブッヘンヴァルト資料館展示の写真より)
(C)Original copyright by Buchenbald memorial museum
西大門刑務所歴史館正門 (大韓民国・ソウル市)
The Seodaemun Prison during Japanese rule period, Seoul, South Korea
施設の写真
「日帝時代」、植民地となった朝鮮半島では、日本の覇権主義、植民地支配に反対する愛国の指導者だけでなく、
時には市井の人民にまで仮借ない弾圧迫害が加えられた。その牙城となったのが、この西大門刑務所であった。
日本は第二次大戦敗戦前、これらの証拠書類を焼却破棄し、施設は埋めて消し去った この「刑務所」も戦後歴史館(博物館)となり、
国民の熱意と努力で再発掘し整備されてきた 今では学校の校外学習の場所になっている
The Seodaemun Prison during Japanese rule period, Seoul, South Korea
ユダヤ人ゲットー(強制居住区)跡の慰霊碑 (ポーランド・ワルシャワ)
ドイツのナチは占領したポーランドのワルシャワにユダヤ人ゲットーを作り収容、一部は強制収容所に送った
ユダヤ人監督ロマン・ポランスキー製作・カンヌ映画祭最高賞受賞の映画
「戦場のピアニスト」("The Pianist"by Roman Polanski) にも登場した場所
Memorial of the Warsaw Ghetto by Nazi, Warshawa(Warsaw), Polska(Poland)
「泰緬鉄道」のクウェー川鉄橋 (タイ・カンチャナブリ)
アカデミー賞映画「戦場にかける橋」で知られる橋 第二次大戦中、日本軍はビルマ(現ミャンマー)、
印度方面に進撃するため作らせた この「泰緬鉄道」は現地人や連合国側捕虜を使い、突貫工事で多くの死傷者をだした
"Thai-Burma Railway", so-called "The Death Railway," Kanchanaburi, Thailand Analog photo
クウェー川から町中に入った場所にあるカンチャナブリの「連合国軍墓地」には多くの連合軍捕虜の墓が残る
ここは大変整備状態がよい 墓に彫られた多くの家族のメッセージを一つひとつ読んでいくと心が痛む
Kanchanaburi War Cemetery (Allied Forces), Kanchanaburi, Thailand Analog photo
「泰緬鉄道」で使われた日本のC56型蒸気機関車 (タイ・カンチャナブリ)
クウェー川鉄橋傍にある日本製車両C56で年月を経た割には保存状態がよい
Japanese Locomotive C56 used during the war, Kanchanaburi, Thailand Analog photo
第二次大戦時ヨーロッパ戦線で活躍した米第三軍司令官 ジョージ・S・パットン将軍の墓 (ルクセンブルグ)
「米軍墓地」に並ぶ米第三軍兵士の墓 「バルジ大作戦」「バストーニュの解放作戦」の戦死者が中心
彼らを閲兵するように手前に立つパットン将軍の墓 彼はアカデミー賞受賞映画「パットン大戦車軍団」でしられる
US 3rd Army, General Patton's grave at Cemetiere Americain, Luxemburg
「北」と「南」を分けるリムジンガン(イムジン川) (大韓民国・パジュ市)
烏頭山(オドゥサン)統一展望台からみたリムジンガン 川向こうは北朝鮮側 天気の良い日は対岸が鮮明に見えるという
手前は韓国軍施設 有名な板門店(パンムンジョム)の南北会議場は写真右の向こうにある 平時のここにいてもなぜか緊張感がある
第二次大戦後の「東西冷戦の遺産」である分断国家は、ドイツもヴェトナムも統一された現在は南北朝鮮以外にはない
Odusan Unification Tower, Paju, South Korea
世界遺産 秦・始皇帝兵馬俑坑 (中国・西安市)
始皇帝の将兵の実物大で顔もすべて異なるという 今なお発掘中で現在まで約8000体あるという 近くに始皇帝の巨大な陵墓がある
Mausoleum of the 1st Qin Emperor, Xi'an, China Analog photo
世界遺産 秦・始皇帝兵馬俑坑 (中国・西安市)
兵馬俑は未だ発掘中 一部焼け焦げたところがあるが、これは秦を滅ぼす中心になった西楚の項羽の仕業といわれる
Mausoleum of the 1st Qin Emperor, Xi'an, China Analog photo
世界遺産 大慈恩寺・大雁塔 (中国・西安市)
唐の高僧・玄奘法師三蔵が天竺(印度)から持ち帰った経典や仏像を保存するため作らせた塔(唐代・七世紀)
現在も階段で最上部まで上がれる 西安(旧長安)市内から見渡せるランドマーク
Giant Wild Goose Pagoda, Xi'an, Chiana Analog photo
世界遺産 古都アユタヤ 寺院跡にある首をはねられた仏像 (タイ・アユタヤ)
アユタヤ王朝の多くの寺院跡が残るアユタヤだが、いくどもビルマの侵入を受けた
像は同じ仏教徒のビルマ軍に首を刎ねられたものだという
Broken Budda during Ayuttaya Kingdom, Ayuttaya, Thailand Analog photo
ドクター・フォン・ジーボルト旧居 (オランダ・ライデン)
江戸時代交流のあったオランダ船で来日したドイツ人医師、ジーボルト(通称シーボルト)は長崎を中心に
蘭学・医学を日本人に伝えた 日本女性(タキ)との間の娘(イネ)は後に日本最初の産婦人科医となった
後代彼は「シーボルト事件」で国外追放となりこの町ライデンで15年間過ごした 近くのライデン大学植物園には
日本から持ち帰った紫陽花などと上の胸像がある なお彼はドイツ・ビュルツブルク出身で医者の家系の貴族である
Dr. von Siebold house in Leiden, Nederland after going back from Japan
旧台湾総督府 (現中華民国総統府) (中華民国・台北市)
日清戦争の結果、清から割譲された台湾を統治するために設置された日本の出先官庁
初代総督は樺山資紀、第四代が日露戦争の満州軍総参謀長だった児玉源太郎
彼の元で台湾民政に尽力したのが後藤新平で「台湾の近代化」を推し進めた
ex. Government-General of Taiwan, during Japannese rule, Taipei, Taiwan Analog photo
世界遺産 スペイン最古の大学町・サラマンカ マヨール広場にある大航海時代の征服者ピサロ (スペイン・サラマンカ)
南米の「インカ帝国」皇帝の身代金を受け取った後、皇帝を殺しインカ帝国を滅ぼした 莫大な金を略奪しスペインに持ち帰った
Pisarro the conqueror, Spain
世界遺産 スペイン最古の大学町・サラマンカ マヨール広場にある大航海時代の征服者コルテス (スペイン・サラマンカ)
中米のメキシコのアステカ帝国を武力で滅ぼし、中南米のインディオたちを奴隷として鉱山で働かせた
こういう征服者たちを町の市庁舎前広場アーケードに英雄としてレリーフで残してある
Cortes the conqueror, Spain
清教徒(ピューリタン)が新大陸アメリカに向けて「メイフラワー号」で出港したプリマス港の波止場 (英国・プリマス)
当時英国では新教の清教徒は迫害を受けていた(国教は英国教会) そのため彼らピルグリム・ファーザーズは1620年、
信教の自由を求めてアメリカに旅立った 乗った船メイフラワー号は180トンで、66日かけてコッド岬に到着した
経緯があって多くの者が死んだが、生き残った者はイギリスからニューイングランド地方への最初の永久移民となった
The pier where the ship Mayflower sailed to America in 1620, Plymouth, England
「百年戦争」のさなか「オルレアンの少女」ジャンヌ・ダルクが一時逗留した家
(フランス・オルレアン) "Maison Jeanne d'Arc"(Rebuilt)
英国とフランスが戦った「百年戦争」は大きな戦争であった 田舎から出てきた少女は様々な経緯で
フランスのために戦った 1429年4月ジャンヌは当時英国軍に包囲されていたオルレアンに向けて出発した
彼女は勇猛果敢に戦ったが、左肩に矢を受け負傷した その時彼女は不安から泣いたという のち捕縛され裁判にかけられ
ルーアンで火刑により殉死した 現在彼女はフランスの守護神となっている
The House where Jeanne d'Arc stayed temporally during Hundred Year's War,
Orleans, France
(注:写真のジャンヌ・ダルク像はモンサンミッシェルの教会にあるもの)
沖縄戦跡国定公園 (沖縄県糸満市・八重瀬町)
沖縄県沖縄本島南端部にある沖縄戦最大の戦跡の国定公園 沖縄戦激戦地でなおかつ終焉の地でもある
Okinawa Senseki Quasi-National Park, Okinawa
平和の礎(いしじ)
世界平和を願い沖縄戦でなくなった国籍も身分も関係なく全死亡者の名を刻んだ祈念碑群 今なお参詣者が絶えない
最大の激戦地「摩文仁まぶにの丘」からみる海 この明るい景色も当時は阿鼻叫喚の陸と海であった
沖縄平和祈念公園があり摩文仁の丘ともいう 各県出身の死亡者の名簿と慰霊塔が林立する
日中戦争以後のすべての戦没者を合祀合計で1277163柱、沖縄戦戦没者は72525柱である
沖縄戦では沖縄県民の約4割が死亡したといわれる 日本のために亡くなった彼らの冥福を祈る
沖縄戦・ひめゆりの塔 (沖縄県・糸満市)
沖縄戦末期に沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に立つ小さな慰霊碑
名称は、当時第三外科壕に学徒隊として従軍していたひめゆり学徒隊にちなんでいる
沖縄戦の過酷さ、悲惨さを象徴するものとして、現在でも参拝する人が絶えない。
ひめゆりの塔から外科壕跡を挟んだ奥には慰霊碑(納骨堂)が建てられている
The Himeyuri Monument in Itoman, Okinawa
「ひめゆりの塔」脇の千羽鶴 全国からの祈りが寄せられる
崖に口を空けているのが学徒隊のいた第三外科壕 その壕は深さ14mあり当時はハシゴで昇り降りしていたという
「・・職員を含むひめゆり学徒隊240名中、死亡者は生徒123名、職員13名であるが、
このうち解散命令以後に死亡したのは117名で全体の86%にものぼり、さらに判明しているだけでも
全体の35%にあたる47名が第三外科壕に攻撃があった6月19日に亡くなっている・・」(Wikipedia)
負の世界遺産 原爆ドーム (旧広島県産業奨励館)(現広島平和記念碑) (日本・広島市)
戦後の日本の再スタートとなった「反核運動・平和運動」の原点
Atomic Bomb Dome (Hiroshima Peace Memorial) Hiroshima, Japan
原爆ドーム 被爆からまもない時期の写真 広島平和記念資料館(原爆資料館)展示写真 (日本・広島市)
廣島原爆 あの時8時15分で止まった懐中時計 広島平和記念資料館(原爆資料館)展示写真
原爆死没者慰霊碑から原爆ドームを望む (日本・広島市・平和記念公園)
毎年8月6日此処で式典が開かれ世界から多くの人が集まる
世界遺産・日本三景 厳島神社 大鳥居と社殿 (日本・廿日市市)
平清盛により厳島神社社殿が造営されたが、「平家納経」など国宝類も多く、毛利元就や空海など歴史にも多く登場する歴史スポット
Itsukushima Shrine, World Heritage, National Treasure, Hiroshima pref.,
Japan
世界遺産 厳島神社 大鳥居 (日本・廿日市市)
厳島神社社殿が造営されて以来、たびたび日本史に登場する 一遍上人の「一遍聖絵」1287年にはこの鳥居が見られる
現鳥居は明治八年の再建 奈良の春日大社、敦賀の気比神宮の大鳥居とともに「日本三大鳥居」に数えられる
The Torii gate, Itsukushima Shrine, accessible from the island during low-tide,
Hiroshima pref., Japan
厳島神社 大鳥居 満潮時 「日本三舞台」で舞楽を舞う姿 手前は此処で挙式をした新婚夫婦と親族
世界遺産 首里城 守禮之門 (日本・沖縄県・首里市)
首里城は琉球国の尚氏の城(グスク) 琉球国は古来より中国の朝貢し、また日本とも通交してきたが、
関ヶ原後島津氏の支配下に入り、また明治後は日本に編入(沖縄県)された 第二次大戦時の沖縄戦では城は多大な損害を受けた
米軍占領統治時代を経て日本に復帰 その後一部が再建されたが、2019年ふたたび正殿がほとんど焼失した
この守禮之門は日本城郭でいう大手門にあたる 中国から冊封使が来琉時には国王がここで出迎えた
この正門は沖縄戦で焼失したが1958年に再建され沖縄県指定有形文化財になった
Shureimon gate is the main gate of Shuri castle, Naha, Okinawa pref., Japan
正殿で琉球国王に扮した姿
踏み絵 (日本各地・写真のものは模造品)
江戸幕府はスペイン・ポルトガル等の宣教師やキリスト教徒の伸張を弾圧するため、
キリスト像やマリア像を絵踏みさせることによって、人別(宗門改)した 明治に入っても
「太政官布告」という形でキリスト教徒を弾圧迫害した そういう日本の負の遺産
(島根県津和野町・カトリック聖堂・殉教切支丹展示室)
"Fumie" Suspected Christians to step during Edo-period, Japan
切支丹禁制の太政官布告(京都府・明治初期)
(島根県津和野町・カトリック聖堂・殉教切支丹展示室)
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US Fighter North American P51 "Mustang" at Imperial War Museum,
London, UK