江戸期岡山藩・産業土木事業の大立者
岡山後楽園・閑谷学校・和意谷池田家墓所・百間川開削・新田開発
旭川・岡南大橋の津田永忠像 (岡山市)
津田家は父が岡山藩士で600石取り、永忠は第六子(三男)
岡山藩主・池田光政に取り立てられ、25歳で300石重役
津田永忠(Wikipedia)
特別史跡 閑谷学校 校門(鶴鳴門)校名額
江戸前期、岡山藩主・池田光政による日本初の庶民のための学校 津田永忠は奉行 写真の大講堂は国宝 岡山県備前市閑谷
閑谷学校入り口に掲示の説明板
閑谷学校入り口より数百m入った山あいにある津田永忠の屋敷跡 敷地はかなり広い 岡山県備前市閑谷
津田永忠の屋敷跡奥にある黄葉亭 文化十年に建てられた憩いの場兼接待所
和意谷池田家墓所入り口 神道式で鳥居がある 津田永忠が墓所選定 岡山県備前市吉永町
和意谷墓所入り口にある案内図 数字は現在地からの距離 「七の御山」のみが地図外にある
倉庫跡(右)
お茶水井戸 今なお水が湧く
注:元の説明板が汚れています
三の御山 姫路藩第三代藩主・岡山藩初代藩主・池田宗家第三代:池田光政墓所
一の御山 姫路藩主・歴戦の勇将・池田輝政・家康娘督姫と結婚
池田輝政・墓碑銘下部の石刻(部分) 左下に秀吉の名がみえる
(注)岡山池田家墓所は他に臨済宗曹源寺、国清寺がある
国指定史跡 臨済宗曹源寺 池田家墓所 やはりここも津田永忠が担当した 岡山市中区円山
同曹源寺 池田家墓所 ここは和意谷墓地のように土盛はない 手前は侯爵・池田章政夫妻の墓
日本三名園 岡山後楽園 元の名は御後園または後園 藩主・池田綱政(光政の子)が郡代官・津田永忠に命じて造営 岡山市北区
岡山城下を流れる旭川のバイパス川<百間川>の造営 新田開発とともに行われた
児島湾に百間川が流れ出る場所にある水門 新しい水門ができ現在は使われていない
岡山市中区沖元
百間川出口にある説明板(部分)
国史跡 津田永忠一族の墓地への階段 墓地は丘の中腹にある 岡山県和気町吉田
津田永忠(左)と妻の墓 土盛がならび主君池田氏と同様の造りである
永忠墓の印刻 「贈従四位故津田左源太」 永忠は父の名「左源太」を継いだ
永忠夫妻の墓(左)と父津田左源太と妻、後妻の墓(右奥)
永忠夫妻墓所の奥にある長男猪之助と長女津也の墓 二人とも成人前に死亡
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