戦国大名魁・小田原後北条氏初代・北条早雲の故里
高越城と法泉寺
岡山県井原市
町中から見上げる高越城祉(中央上) 標高172m
高越城祉遠望 いちばん高い場所が一の郭
町中の道路際にある地図
城に向かう山道
城の郭もあと少し
一の郭にある説明板
最初の高越城は蒙古襲来に備えて鎌倉幕府が作らせたという のち備中伊勢氏が支配する
四の郭下から一の郭の土塁(土垣)をみる 見る限り石垣はひとつもない
一の郭最上部 「早雲生誕地」の石碑がある 伊勢新九郎盛時(のちの北条早雲)はここで生まれ(1432年)育った
「伊勢姓から改称して北条姓を称したのは早雲の死後、嫡男・氏綱の代からであり、早雲自身は北条早雲と名乗ったことはなく
伊勢新九郎や伊勢宗瑞などであったが、一般に北条早雲の名で知られている。」(Wikipedia)
一の郭最上部
一の郭最上部からみる南方向
一の郭からみる南方 旧山陽道が一望できる城としては絶好の場所だ 小田川が流れる 出城もいくつかあるという
一の郭からみる北西方 左遠方に現在の井原市街がみえる
一の郭からみる四の郭 山下からいくつかの登城道がある
高越城址公園にある顕彰会掲示板
「早雲寺殿廿一箇条」は分国法の魁ともいえる、戦国時代に相模国の後北条氏が定めたとされる家訓(Wikipedia)
内部関連リンク:小田原城(神奈川県)
伊勢氏の菩提寺 曹洞宗・法泉寺 井原市西江原町
法泉寺の池泉と二の門 地元の悲願である「大河ドラマ・北条五代」の幕がみえる
伊勢新九郎盛時(後の通称・北条早雲)は少年時代この寺で学んだといわれる
二の門よりみる三の門 奥が本堂
本堂 当寺は備中伊勢氏の菩提寺 本堂も庭園も立派な造りである
本堂の瓦類も手が込んでいる 左の家紋は(後)北条氏のもの 右は菊の紋
本堂前の大石碑 「北条早雲公と法泉寺」
本堂前の説明板 静岡大の小和田先生の名も登場する
室町時代の五輪塔と伝わる伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)(左)と父新左衛門盛定といわれる供養墓
因みに後北条氏の公式墓所は神奈川県箱根の早雲寺だという
早雲寺(そううんじ)は神奈川県足柄下郡箱根町湯本にある臨済宗大徳寺派の寺院。山号は金湯山。本尊は釈迦如来。寺内には後北条氏5代の墓[1]、連歌師・宗祇の碑がある。国の重要文化財の織物張文台及硯箱、北条早雲肖像画、県指定文化財の北条氏綱・氏康らの肖像画がある・・ 天正18年(1590年)、小田原征伐において一時的に豊臣秀吉軍の本営が置かれるが、石垣山城が完成すると当寺を含む一帯は焼き払われた。北条氏の庇護を失って荒廃したが、焼失後の寛永4年(1627年)、僧・菊径宗存により再建。慶安元年(1648年)、3代将軍徳川家光から朱印状を与えられ復興した・・ (脚注)早雲寺境内にある北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の墓所は、江戸時代の寛文12年(1672年)に、北条氏規の子孫で狭山藩北条家5代目当主の北条氏治が、北条早雲命日の8月15日に建立した供養塔。氏綱墓所は、かつての広大な旧早雲寺境内の春松院に、氏康墓所は大聖院に葬られたが、豊臣秀吉の軍勢に焼かれたため、その位置は不明となっている。 (Wikipediaより部分抜粋) |