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Places of the Peace Treaty
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1814~1815
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ウィーン会議の会場はシェーンブルン宮殿(ハプスブルグ家の夏の離宮)
ナポレオン軍は初期には破竹の勢いでヨーロッパの大半を征服したが、しかし1812年のロシア遠征で大敗
1813年10月ライプツィッヒの戦いでフランス軍は多数の死者を出し敗走、フランス国内が戦場となった
1814年連合軍はパリに入城、ナポレオンは退位し、地中海のエルバ島に流された
これら「ナポレオン戦争の講和会議」として1814年9月ウィーン会議が開かれた
しかし各国の利害がぶつかり進展しなかった 会議の状況をあらわす「会議は踊る されど進まず」で知られる
ウィーン会議がもたついている頃、フランスではルイ18世による王政復古がなされたが国民からは不評であった
1815年こうした中ナポレオンはエルバ島を脱出してフランス上陸、パリに入城してふたたび帝位についた
各国はふたたび「対仏大同盟」を結成しナポレオン打倒に邁進し、ワーテルローの戦いでフランス軍を破った
この時活躍した英軍の将軍がウェリントンであった こうしてナポレオンの「百日天下」が終わり、
彼は大西洋の孤島セント・ヘレナに流された その処理が第二次パリ条約であった
これによると、同盟国軍のフランス駐留、仏の賠償金は7億フラン、その領土は1790年当時に戻すなど厳しい物だった
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J.J.ダヴィッド:アルプスを越えるナポレオン(ウィーン美術史博物館蔵)
ダヴィッドはナポレオンの「お抱え画家」で事実とは異なりカッコよく描いている
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「ワーテルローの戦い」のあった場所 「ライオンの丘」 ベルギー・ワーテルロー
最後の大会戦が行われた平原には、戦後人工の丘が造られ、フランス軍の大砲を鋳つぶしたライオン像が造られた(上写真)
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「ライオンの丘」にある当時の両軍の布陣図プレート ●が仏・ナポレオン軍、●が英・ウェリントン軍
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1919
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ドイツとの「ヴェルサイユ条約(講和条約)」が調印されたヴェルサイユ宮殿・鏡の間1919/6/28
「パリ講和会議」そのものが開かれたのはフランス外務省
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「サラエボ事件」 オーストリア大公フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィー・ホテクが暗殺される (Wikipediaより転載)
オーストリー・ハンガリー帝国の皇太子夫妻が暗殺される事件(サラエボ事件)を発端とした「第一次世界大戦」
1914~1919は飛行機、戦車、毒ガス、軍艦など近代兵器を多用し、人類最初の多数の死傷者をだした大戦争であった
各国で多くの戦闘の結果、ドイツ、オーストリー・ハンガリー、オスマン・トルコなどの同盟国が敗北、
フランス、イギリス、ロシア、日本、イタリア・・などの連合国が勝利した
講和会議は紛糾したが、最終的にはドイツは1320億マルクという「天文学的」賠償金と各国に物納賠償なども決定された
この結果、ドイツ国内では超インフレになり国民は苦しむことになった これが後にナチス・ファシズムやヒトラーを生む遠因となった
反面、この未曾有の大戦の反省として、米大統領ウィルソンの「14ヵ条の平和原則」による国際連盟の設立、軍備縮小、民族独立、
不戦条約の成立など平和に向かっての動きも加速していった アジアでも中国の「五・四運動」や朝鮮の「三・一運動」
の反帝国・反植民地主義運動が起こった
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大韓民国の「三・一独立宣言記念塔」 大韓民国・ソウル・タプコル公園(旧パゴダ公園)
日本支配に対して独立の運動(1919/3/1)を展開したが一部は暴動となり、日本(朝鮮総督府)は警察、憲兵、軍隊を使って
これを大弾圧した 以後日本敗戦の1945年まで日本の植民地支配はつづく
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馬関条約(下関条約) 1895
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馬関(下関)講和会議の開かれた春帆楼(左)
本来の木造建物は空襲で焼失 講和会議の資料が展示される日清講話記念館(右)
下関条約または日清講和条約とは、日清戦争(1894年-1895年)で大日本帝国が清国に勝利したことにより、
山口県下関市の料亭春帆楼(しゅんぱんろう)での講和会議を経て、1895年(明治28年)4月17日(光緒21年3月23日)に調印された条約である。
調印者は、日本側全権が伊藤博文・陸奥宗光、清国側全権が李鴻章・李経方である
前文および11か条からなり、これには付属議定書があって、解釈・批准等について規定している (Wikipedia抜粋)
日清講話記念館 内部に講和会議当時の室内が復元展示される
講和会議の日本側代表 伊藤博文(総理大臣) 陸奥宗光(外務大臣)像 上写真では左奥にある
記念館内の講和会議画 中央が伊藤博文 右が清国代表・李鴻章
画面にガラスの映り込みがあります
記念館 講和会議時再現の調度類
講和会議議定書(部分)
画面に映り込みがあります
講和内容の骨子は
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・清は朝鮮が独立国であることを認める
・清は遼東半島、台湾などを日本に譲る
・賠償金として銀二億両を日本に支払う
・他に貿易などで税金を日本に有利にする
など清の要望はるかに超えた日本有利の条約となった
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この後、露、独、仏からの「三国干渉」があり、日本は有償で遼東半島を返還した
日本は賠償金などを軍事費と産業革命での綿紡績業や官営八幡製鉄所などに投入した
こういう経緯から日本の資本主義は発展してゆく
(付録) 日本側が用意した清国代表宿舎の浄土宗・引接寺 当時清国全権大使李鴻章はこの近くで暴漢にピストルで襲われたが一命は取り留めた
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