Never-Forget Scenes in the History
「負の世界遺産」・独ナチスSSによる「アウシュヴィッツ強制収容所」
決して「美しい風景」ではないが歴史的にも見た人の心にも強く残る場所
原爆の「ヒロシマ」と並んで、人類が二度と通ってはいけない道である (ポーランド・オシフィエンチム・旧独名:アウシュヴィッツ)
"Auschwitz-Birkenau,"State
museum, Oswiecim, Polska
アウシュヴィッツ強制収容所 「死の壁」 銃殺台の壁 多くの「囚人」がここで銃殺された 今も弾痕が残る
アウシュヴィッツ強制収容所 絞首台 多くの「囚人」がここでも殺された
アウシュヴィッツ強制収容所 復元されたガス室内部 毒ガス「チクロンB」が上から噴出された
阿鼻叫喚の修羅場になったであろう
毒ガス「チクロンB」の使用済みカン どれだけの人が死んだのであろうか 館内展示
アウシュヴィッツ強制収容所 資料・写真展示コーナー 死体の山の写真
アウシュヴィッツ強制収容所 死体を入れて焼いた窯 慰霊の蝋燭が灯る
アウシュヴィッツ博物館入場券
ワルシャワ・ゲットー慰霊碑
町の一角を壁で取り囲んで「囚人たち」(主にユダヤ人)を閉じこめたゲットー跡地 ワルシャワゲットー記念広場
中央の像は「ワルシャワ蜂起」を記念する「英雄記念碑」 映画「戦場のピアニスト」にも登場する場所 (ポーランド・ワルシャワ)
上の慰霊碑の裏側レリーフ
「ワルシャワ蜂起戦士記念碑」 ナチ占領下で1944年ポーランド軍を中心に蜂起したが失敗し多くが殺された
「蜂起博物館」(ポーランド・ワルシャワ)
ブッヘンヴァルト強制収容所(現記念館)
ブッヘンヴァルト強制収容所 現在の様子
ここには23万余人が収容され5万5千人が死亡したといわれる
連合軍が収容所を開放した時トラックに無造作に積まれていた死体 展示写真より転載
焼却炉棟脇に積まれた死体 展示写真より転載
ブッヘンヴァルト強制収容所 死体焼却炉 焼いた灰は床の穴(写真下)に入れたようだ
<関連参考写真>
ヒトラー・ナチス時代数千人ともいわれるユダヤ人を救った日本外交官 杉原千畝
旧カウナス日本国領事館(現杉原記念館) (リトアニア・カウナス)
海外に逃亡したいユダヤ人がこの領事館に集まった 日本はナチ・ドイツの同盟国だったため
日本外務省の許可を貰えなかったが、千畝は寝食を惜しんで通過ヴィザを発行し続けた
杉原千畝ファミリー (記念館展示写真)
領事館 千畝の事務机
杉原千畝が書いた通過ヴィザ 通称「命のヴィザ」
これのおかげでユダヤ人たちは日本を経由して安全な所に避難できた
旧日本軍泰緬鉄道「死の鉄道」 カンチャナブリ鉄道橋
アカデミー賞受賞映画「戦場に架ける橋」の舞台 (タイ・カンチャナブリ)
旧日本軍はタイからビルマ(現ミャンマー)に向かう鉄道を敷こうとした その際連合国軍捕虜を労働者として使い多くの死者を出した
町中にある連合国軍兵士の墓地 現在も手入れが素晴らしい それぞれの墓碑銘を読むと心が痛む (タイ・カンチャナブリ)
西大門刑務所(現博物館)
日本の植民地時代 反日・抗日の人びとを収容した (大韓民国・ソウル)
西大門刑務所(現博物館) 内部の独房
西大門刑務所 絞首台(復元)
西大門刑務所(現博物館)にある当時の復元 警察官などによる拷問シーン再現
現在の西大門刑務所(現博物館)全景 (大韓民国・ソウル)
今は学校の生徒や家族連れが校外学習で訪れる
独立宣言をしたタプコル公園(パゴダ公園)
1919年のベルサイユ条約で「民族自決」が決められたが、その結果朝鮮半島や中国では「五・四運動」が盛んになった
(大韓民国・ソウル)
タプコル公園(パゴダ公園) 朝鮮半島では「三・一運動」が起こり、この公園で「独立宣言」が朗読された
タプコル公園(パゴダ公園)の「三・一運動」の記念レリーフ (大韓民国・ソウル)
独立運動が盛んになった朝鮮半島では「三・一運動」が広がっていった
これに対して日本は武力で弾圧した その様子が一連のレリーフで描かれているが痛ましいシーンもある
負の世界遺産 広島原爆ドーム
現在の原爆ドーム (白黒化) (広島市)
被爆後の原爆ドーム 広島原爆資料館展示写真 (広島市)
広島原爆資料館と原爆慰霊碑
痛ましい全身やけどの少年 広島原爆資料館展示写真
多数の死体を集め並べる 広島原爆資料館展示写真
沖縄戦跡国定公園内の「平和祈念公園」
沖縄県立平和祈念資料館 (沖縄県糸満市)
「平和祈念公園」の沖縄戦没者墓苑
沖縄戦没者墓苑 平和の礎(いしじ)
平和の礎(いしじ) 沖縄戦没者の名前が彫られている 沖縄戦では住民の4割が亡くなったといわれる
他の区画(摩文仁の丘)にはそれぞれの都道府県関係の死者慰霊碑がある
沖縄戦女子学生の儚い運命 「ひめゆりの塔」
「ひめゆりの塔」(左下)と納骨堂と折り鶴 今も此処を訪れる人も多い
「ひめゆりの塔の記」 石碑より転載 反転加工済みのため細部不明瞭
「第三外科壕」 深さ14m 壕内で米軍に手榴弾攻撃を受け学徒動員の沖縄県立第一高等女学校生徒教師など87名が死亡
死んでいった学友たちを悼んだ歌の歌碑
東西冷戦時代の東西ベルリン チャーリー検問所とブランデンブルグ門
「チャーリー検問所」(チェックポイント・チャーリー・左) (西ドイツ・西ベルリン)
「ベルリンの壁」の手前にある米・英・仏共同管理の検問所
写真右奥の「ベルリンの壁」脇に東ベルリン側の機関銃が設置された検問所がある
写真当時はその検問所で「一日ヴィザ」を貰い「東ベルリン」に入ることができた photo in 1984
ブランデンブルグ門 「ベルリンの壁」時代西ベルリンから見た風景 (西ドイツ・西ベルリン)
手前の塀が「ベルリンの壁」の一部 注:現在は消滅
ブランデンブルグ門 「ベルリンの壁」時代東ベルリンから見た風景 (東ドイツ・東ベルリン)
門の向こう下に見えるのが「ベルリンの壁」(上写真の裏側) (注:上二枚の写真は同日撮影)
日本植民地時代の台湾で起こった現地人の反乱 「霧社事件」
先住民族高山族の「反乱軍」リーダー モーナ・ルダオ像 その墓(写真上) (台湾・仁愛郷)
モーナ・ルダオの墓 墓碑には「烈士」 英雄の意味 霧社
なお手前には無名戦士の墓もある
1930年、反乱した現地人 「合歓禮讃」仁愛郷公所発行より引用転載
日本による強制労働や日本人巡査による殴打事件、台湾総督府の弾圧が背景にあった
霧社事件の現場 日本人学校 「合歓禮讃」仁愛郷公所発行より引用転載
「反乱軍」は各地の日本人駐在所、学校の日本人を襲い132人が惨殺された
霧社事件の現場(今の姿:現台湾電力用地)
殺された反乱現地人の生首 「合歓禮讃」仁愛郷公所発行より引用転載
現地人の中にも日本軍についた人たちもいた
「合歓禮讃」 南投県仁愛郷公所発行
上の白黒写真引用転載 筆者が役場で入手した冊子
「フランスの守護神」 ジャンヌ・ダルクが処刑された場所に立つジャンヌ・ダルク教会 (フランス・ルーアン)
ずっと後の現代に建立されたジャンヌ・ダルク教会 (フランス・ルーアン)
「オルレアンの少女」 ジャンヌ・ダルクが火刑にされた場所(刑場跡・手前)
「百年戦争」時の時代 戦って捕らわれ宗教裁判にかけられた 火刑台上のジャンヌ・ダルク
火刑は1431年5月30日に行われたとの表示板
ヴェスヴィオ火山噴火で全滅した 世界遺産 ポンペイ・ローマ遺跡
ヴェスヴィオ火山 今は穏やかな姿 ポンペイはAD79年ヴェスヴィオ火山の噴火により全滅したローマ時代の町
世界遺産 ポンペイ・ローマ遺跡 路地の様子 歩道・車道・横断歩道が分けられている「近代的」な都市であった (イタリア・ポンペイ)
火砕流に覆われて死亡した人の石膏型 顔を覆った死亡時の様子がよく分かる ポンペイ・ローマ遺跡 (イタリア・ポンペイ)
火砕流で死亡した犬の石膏型 悶え苦しんで死んだ姿 ポンペイ・ローマ遺跡 (イタリア・ポンペイ)
宗主国フランスに対する アルジェリア独立戦争 「アルジェの戦い」
アルジェ郊外の「ノートルダム・ダフリーク」教会 アルジェリア
この聖堂はカトリックで「アフリカのノートルダム」という意味でフランス植民地支配のシンボル的存在
19cのアルジェリア独立運動指導者 エミール・アブデルカーデル (アンボアーズ城)
「ジハード」としてフランスに抵抗を続けるものち降伏 フランスの城に幽閉され、のち釈放された後シリアに移る
1883年に死去 彼の名が付いた広場(銅像)がアルジェ市内にある
アルジェの戦いの主要地点・カスバ 向こうはアルジェ港
132年間のフランスによる過酷な植民地支配に立ち上がった人民の立て籠もった「アルジェのふるさと」
アルジェリア・アルジェ
アルジェ最古の地区ともいわれるカスバ 内部は古い迷路のような路地が張り巡らされている
独立前はフランス官憲も容易に入れない場所だった
独立後にイタリアとの合作映画「アルジェの闘い」が作られたが、抵抗の内容が詳しく描写されている
市内でもっとも大きな繁華街 ディドゥーシュ・ムーラッド通り
「アルジェの闘い」では爆弾を抱えたパルチザンがレストランに仕掛けるシーンが出てくる
丘上に立つ「独立記念塔」 戦いで亡くなった人びとを慰霊するため独立後1982年建立 永遠の火が燃え兵士が護っている
市内のどこからも見える象徴的な塔
連合軍の反撃 映画でも知られる「史上最大の作戦」の舞台 ノルマンディ上陸作戦
「ヨーロッパの解放」はここから始まった 兵士以外に民間人が2万人死亡した アロマンシュ・レ・バン
海岸には当時の上陸用舟艇の残骸が多くのこる フランス アロマンシュ・レ・バン
海岸を見下ろす丘上にある英軍の米国製M4シャーマン戦車 車体には多くの弾痕が残る実車
ノルマンディ上陸博物館
記念館前にある英国海軍と海兵隊の記念碑 この地区上陸は連合軍のなかでイギリス軍が担当した
「私たちが忘れないために」と表記される
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