霧社事件(霧社抗日事件)の遠因・近因
「造反有理」・・台湾山地住民が「蜂起」するには大きな理由があった
Musha Incident in Taiwan in 1930


切り取られた「反乱軍」の首級(「合歓礼讃」より)


霧社事件むしゃじけんとは?
  

 
霧社事件について・・・台湾の植民地化を進める日本に対して、「先住民族・高山族」が起こした抵抗事件。現在の南投県仁愛郷(霧社)で、1930年10月27日未明、モーナルーダオ率いるタイヤル族の約300人が、管内の警察、宿舎を襲い巡査とその家族を殺害し、武器を大量に奪った。更に日本人学校と台湾人公学校合同の連合運動会を襲撃、日本人134名死亡、26名が重傷を負った。これに対して日本は警察、軍隊を投入、掃討作戦を行った。日本軍は航空機による爆弾投下、毒ガス作戦を敢行し、50余日で鎮圧した。タイヤル族は160名戦死、自殺者は140名、400名行方不明、500名が投降した。投降者は警察に拘束されたが、警察黙認のまま「味方蕃」に襲われ198名が死亡した。(第二霧社事件)あとの生き残った「保護蕃」は、全員川中島に強制移住させられ「帰順式」を行ったが、その席上で警察は38人を逮捕し、秘密裏に処刑した。こうして蜂起したタイヤル族はほぼ根絶された。以後日本の山地政策はますます強化された。                                 
                                 
(「地球の歩き方」三上美麗氏の文を大意引用
「合歓禮讃」
南投県仁愛郷公所(役場)発行
 
 筆者が「南投県仁愛郷公所」で入手した本で、当然中国語で書かれている。そのため、岡山在住の中国人留学生KH君に翻訳してもらった。その日本語を若干手直しして、下に掲載する。従って、以下は「欽定訳版」ではなく、あくまで参考としての暫定訳であることをお断りしておく。
 以下の文や写真集を読んでいただいて、大日本帝国下の植民地台湾支配の酷い実態を知っていただければ幸いである。

 注:中国人留学生が翻訳をしたため、またできるだけ原文のニュアンスを伝えるため、ふつうの日本語で使わない表現をしている。また原文直訳でなく意訳の部分もある。(部分抜粋) 



事件当時(1930)の霧社の集落
(「合歓礼讃」より)
「日の丸」を掲揚する山地少数民族少女
(「合歓礼讃」より)

(筆者注1) 山地少数民族「反乱軍」について、この本はもともと<抗日勇士>という表現をしている。しかしながら、下の文中では分かりやすく「反乱軍」と「 」付きで表現し、(抗日勇士)と付記した。現地では「抗日勇士」と表現しているように、「日本植民地主義」に抵抗した「勇士(英雄)」なのである。なお、現地のリーダーの墓には「抗日英雄烈士の墓」という記述があったことを付記しておく。
(筆者注2) このページ下に「霧社事件」関連写真集のリンクがある。(残酷写真有り、15歳未満にはお薦めしません)
        
<遠因>
(一)日本による山地資源の収奪
「甲午馬関条約(筆者注・下関条約)」(1895)を締結した後、日本植民政府は台湾の原住民を労働力として、豊かな山地資源を気が狂ったように奪いました。特に樟脳は台湾政府には重要な財源となり、さらにヒノキ等の林業や、鉱業や、農業から経済利益を吸い上げました。そのために、「林野および樟脳の製造を取締まる指示」によって、原住民を強く圧迫して帰順させ、武力で徹底的に征服して、総面積の60%の山地および資源を奪いました。日本植民政府は「討伐して自分で治める」という政策も使って、日本帝国が台湾植民地での資本主義的発展をするように画策しました。
(二)日本植民地体制の確立
同治末年に「牡丹社事件」が起こるまで、清朝政府は漢民族に対して、山に耕作するために立入ることを禁止という政策を実施していました。「牡丹社事件」で日本軍が(固定的な職業が無い漁民)を保護して武力で強硬に台湾を攻略した後、清朝政府は台湾を初めて重視して、「開山して台湾を助ける」という政策で台湾を開発していきましたが、その規模は民間並の小さいものでした。日本は台湾に侵入してから、日本帝国植民地化の政策を確立するため、少々の代価や犠牲を払っても、台湾政府に内政処理の権力機構を整備し、「武力で討伐したり帰順させたりする政策」を押し進めました。日本の警察は自由に統治・支配できたので、徐々に原住民たちの組織や機構を解体させ、原住民を「帰順」させました。以上のことや原住民のリーダーたちを拘束・迫害・弾圧したことによって、山地原住民の「抗日意識」が高揚してゆきました。
(三)「以夷制夷」政策 (「野蛮人」を使って「野蛮人」を押さえる意)
「以夷制夷」あるいは「以蕃制蕃」という台湾を統治する手段は、日本軍の台湾侵入後、山地各民族に対して多用されました。各部落間の揉め事に対して意図的に扇動して問題を拡大させて、部落間で相互に殺し合わせました
<霧社抗日事件の前に使っていた政策>
*明治三十六年に経済を大封鎖した期間で、布農族の人を脅迫して、霧社原住民に食塩や鉄器や銃弾などを提供するふりをして、泰雅族原住民を誘い騙して、百人以上を殺させました。
*大正九年(一九二〇年)の沙拉猫地区抗日事件に、日本軍は勝てないから、二回霧社の住民を脅迫して襲撃隊にして、沙拉猫築を討伐させ、多数の人が犠牲になりました。
それに、日本軍は「以夷制夷」の悪辣な手段のほかに、<報奨金で原住民が密告することを奨励>するというという「日籍警察機構」を整備しました。この「しくみ」のために、当地の部落の中のいくつかの「抗日計画」が密告され露見してしまいました。日本軍はいろいろな残忍な手段を使って、原住民の抵抗勢力を殲滅(せんめつ)しようとしました。しかし、当地住民達は次第に日本軍の策略を見破り、「民族存亡の危機」に気が着き始めていました。こういう経過で、住民たちの中に「抗日意識、感情」が高まってゆきました。
(四)日本人警察官による現地女性陵辱
日本台湾当局は政治上の目的を遂行するため、また当地の資源を簒奪促進のために、多数の警察官を山地地区に住まわせていました。これらの警察官たちは、狂ったように原住民の女性を強姦したり、弄びました。しかし、原住民の泰雅族社会は「女性の貞操が非常に大事という観念」を持っていたため、日本警察に対する恨みは次第に深まってゆきました。
さらに日本は政治権力を掌握するために、「通蕃」という手段を利用しました。日本は台湾占領初期に霧社地区で以下のような婚姻関係がありました
(1) 明治35年に日本人近藤三郎は巴蘭社の有力者の娘と結婚しましたが、後に彼女を棄てました。
(2) 明治42年に同近藤三郎は馬赫坡社の頭目・那魯道の妹特娃絲・魯道を娶っていましたが、大正6年に近藤三郎は行方不明になったので、特娃絲・魯道は仕方なく馬赫坡に帰りました。
(3) 霧社の警察官、日本人佐塚愛祐は馬西多巴翁社頭目の娘、亜娃伊・泰目と結婚しました。
日本警察は政治目的を達成させるために、このような婚姻も手段としたので、山地住民に軽蔑されていました。さらに日本人は、現住民を騙して娘を都会に売り飛ばす事もありました。
(五)山地民蔑視政策
日本理蕃当局」は「蕃地」の山地原住民を「野蛮民族」とみなしていました。彼らを「奴僕や野獣」とみなして、随時に労力として使っていましたた。そのために、彼ら住民の生計が破壊されたため、抗日暴動が起こされる一因ともなりました。
<近因>
(一)原住民を強制労働させる
日本軍は台湾に侵入後、「蕃地」の原住民を脅迫して強制労働をやらせていました。守らない場合は、さらに厳しい課徴で処分していました。彼らは原住民の「狩猟や耕作の時期」を無視して強制労働をさせていました。ところが、原住民たちは昔から自由に生活していて、束縛される事を嫌っていました。こうして生活が極度に貧困化してゆくなかで、抗日意識がさらに深まりました。
「霧社事件」の三年前、霧社警察分室は大量の原住民を集めて、極めて困難な重大工事を実施しました。
埔里武徳殿を建築する時、霧社警察分室は原住民から建殿基金を貢献するようにと命令しました。献金できない人は義務労働をされる運命になりました。原住民達はこのようないろいろな残酷な仕打ちを受けて、ついに抗日事件を続々と起こすようになりました。

「霧社事件」リーダー
莫那魯道(中央)
(「合歓礼讃」より)
(2)リーダー・比荷沙波と比荷瓦利斯への日本側の積極的策動
比荷沙波
比荷沙波は明治四十三年に荷歌社に生まれましたが、同年父親は抗日活動に参加したため、日本理蕃警察に殺されました。比荷沙波は次男で、自分の成長をずっと世話をしてきていた兄がいました。彼は子供のときから頭が良く、霧社の藩童公学校を卒業しました。兄は結婚後家庭不和になりましたが、「家庭紛争が起きた」という理由だけで、日本警察に逮捕されて死刑を受けてしまいました。比荷沙波は「兄の仇を討とう」と思っていましたから、時々抗日をまわりに鼓吹していました。日本理藩警察は、「彼がとても狡猾で、時折官の命令に逆らった事がある」から、彼を常に監視していました。
明治三十六年頃、日本政府は泰雅族に対して、「生計大封鎖」を実施していました。泰雅族は食塩や鉄器などの生活材料が制限されていましたので、生活がするために、時々日本政府の「無理な指示」に従わなければならなりませんでした。そのせいで、たくさんの族人達が命を無くしてしまった事がありました。大正14年に、比荷沙波は他の部族の人を殺した咎で、何回も日本警察に逮捕されました。その時彼は常に強制され、鞭打たれましたので、日本人に対する恨みがさらに深まって、「抗日しよう」という決心をするようになりました。
比荷瓦利斯
比荷瓦利斯は明治三十年に荷歌社に生まれ、父親と比荷沙波の父親は兄弟でした。父親は日本警察に反抗したので、ずっと追撃されていました。彼は家に戻って、竹の矢と竹の矛で日本警察の逮捕に抵抗しましたから、警彼らの家に火を放ち、全焼させました。家族の8人全員が火の中で亡くなりました。比荷瓦利斯は命掛けでもがきながら隣りに逃げて、なんとか命を取り留めました。彼は愛する自分の家族を焼き殺されことが、心のなかから消えることはありませんでした。こうして、彼は敢えて日本に抵抗・反抗をする決意をしたのでした。
(3)酒席でのトラブル
  日本人警官による「荷歌社の頭目」殴打死亡事件
 明治の末年には、日本理藩政策の高圧的な圧迫下に暮らしている人々は、日本に帰順しなければなりませんでした。日本政府は彼らの反抗が心配だったので、すべての狩猟用の銃などの「武器」を没収しました。山地民の狩猟生活のための生き方でも許可されませんでした。ある日のこと、荷歌社の頭目はイノシシを狩って帰っている途中に日本の警察官に見つけられ、中に誘われて、酒をすすめられました。
頭目は警察官のそんな親切さにイノシシを上げないと仕方がありませんでした。そのうちに頭目は何回も帰りたいと言いましたが、警察は「まだ飲もう」と勧めたので、頭目は日本語が良く分かりませんでしたが、泰雅民族の言葉の「**」と返事をしてしまいました。しかし警察官も頭目の言葉が分からないから、日本語の「馬鹿」と聞き取れてしまったので、自分だけでなく、他の警察官も呼んで頭目をかなり激しく殴打しました。ところが頭目は全然殴られた原因が分かりませんでした。家に帰って数日経って、内臓が腫れ上がり、痛みが激しくなって死んでしまいました。荷歌社の皆は、やさしい頭目が日本の警察官に殺されたので、大変悲しみ日本人警察官を恨みました。
馬赫坡社の結婚式における日本人警官による新郎殴打事件
 
馬赫坡社の青年歐徳魯比と同社少女の結婚式の日、日本人警察官が見学にきました。歐徳魯比は警察官を見た時に、熱心に酒を勧めましたが、彼の手に血の跡や肉が付いていたという理由で、公衆の面前で警棒で警察官が殴りました。敬意をあらわしてお酒を上げようとしたのに、殴打を受けたと言って、式場の皆は驚いて、怒りました。更にみんなで警察官を押し倒しました。ついには当社の頭目が皆を制止しました。こういう事で、この青年はとても重い処罰を受けました。こういうことで、彼も抗日のチャンスを待っていました。

霧社事件(霧社抗日事件)起こる

1930年10月27日未明、莫那魯道(モーナルーダオ)率いるタイヤル族の約300人が、管内の警察、宿舎を襲い巡査とその家族を殺害し、武器を大量に奪った。・・・・・・・

霧社事件の詳細説明は→→→フリー百科事典:Wikipedia

「反乱軍」を
攻撃する日本兵


(「合歓礼讃」より)

その後の展開
霧社事件が発生してから、抗日の六つの部落は馬赫坡渓流域と塔洛湾渓流及びその近くの広い山地に撤退しました。日本軍部隊は霧社を奪取するため、武器や戦闘の必要物質を早急に用意して、すぐ「反乱軍」(抗日勇士)と開戦していました。日本軍は戦闘機で攻撃し、砲兵部隊は地上から攻撃し、空中からウソの宣伝パンフレットを投下して攪乱し、特殊爆弾と毒ガスを投下しました。住民達や「反乱軍」(抗日勇士達)は死傷者が多数にのぼりました。また村外に逃げた人達は、ほとんど捕らわれてしまいました。十一月一日から十二月初旬までに561名が逮捕拘束されました。

第二次霧社事件・・投降者は警察に拘束されたが、警察黙認のまま「味方蕃」に襲われ198名が死亡した。(第二霧社事件)あとの生き残った「保護蕃」は、全員川中島に強制移住させられ「帰順式」を行ったが、その席上で警察は38人を逮捕し、秘密裏に処刑した。こうして蜂起したタイヤル族はほぼ根絶された。
               
(この項のみ「地球の歩き方」三上美麗氏による)

川中島収容所

(「合歓礼讃」より)

事件後の「保護藩」収容所
収容所の中は環境条件が非常に劣悪で、多くの人達は病気で死んだり、自殺したり、収容所から逃げて捕られて殺されたりする運命になってしまった。生き残った者は多くない。



(付録:サイト内リンク)
霧社事件関係写真集
(残酷シーンがあるので15歳以下は保護者がついて見てください。)

 
「日本軍は台湾山地住民反乱の鎮圧に毒ガスを使用した」

 <本の紹介>
林えいだい著
霧社の反乱・民衆側の証言
 
  
抗日蜂起事件の真相と鎮圧の凄惨な実態
                             

731部隊は、昭和 5年に発生した台湾の霧社事件を抜きにしては考えられない。
日本軍は蜂起した原住民に対して、毒ガスの生体実験を行った。・・・・」
定価3150円(税込) ISBN4-7948-0582-9 新評論