竜頭山公園と救国の英雄、李舜臣
 
 
二番目に訪れたのは、竜頭山記念公園であった。町の中心部に、標高100m足らずの小高い丘があり、木もこんもり茂っている。ちょうど昼時であったが、木陰やベンチでは、老人達や勤め人風の人が、話をしたり太極拳風の体操をしている。市民の「いこいの場」である。木立の間からは、港や街の景観が広がっている。反対側のちょうど頂上に当たる部分に、展望台のついた背の高い塔が立っている。118mのプサンタワーである。その手前の一段下がったところに、韓国(朝鮮)の英雄「李舜臣」(イ・スンシン)の大きな像がある。近寄ってみると、碑銘には、「李舜臣忠士像」とあった。軍服でたぶん日本であろう方をしっかと見つめている。彼は秀吉の朝鮮侵略の際、朝鮮軍を率いて、日本軍をうち破ったので知られている。大阪書籍の「中学社会(歴史的分野)」には、朝鮮侵略について以下の記述がある。少し長いが引用する。 (原文のまま、フリガナは一部省略)
                     
・・1592年、全国の大名を動員し、九州の大名を主力とする大軍を朝鮮に送りました。日本軍は、朝鮮国内のみだれもあって、まもなく首都漢城(ソウル)や各地の都市を占領しました。しかし、侵略に抵抗する民衆などが義兵を組織して各地で日本軍を苦しめるようになり、さらに明の援軍も加わりました。

 ■李舜臣■
 
 
李舜臣が率いる朝鮮の水軍は、1592年5月、50隻あまりの日本水軍と出会い、数時間の戦いで日本船31隻をしずめました。この初めての海戦での勝利は、義兵に立ち上がろうとしていた朝鮮の人人に勇気をあたえました。
 
 こうして戦争が長びいたので日本軍は休戦し、兵の一部を残して引き上げました。ところが講和の話し合いがまとまらず、秀吉は再び兵を送りました。しかし、苦戦が続き、秀吉の病死とともに全軍を引き上げました。 二度にわたる戦いは、朝鮮の民衆に多くの犠牲者を出し、田畑は荒れ、ききんが続きました。日本国内でも、軍用品の輸送を課せられたことなどで、民衆のくらしは大きな打撃を受け、豊臣政権の没落を早めることになりました。
 
 亀甲船(復元模型の写真)
 
 倭寇対策として考案され、李舜臣が改良・ 完成させた軍船です。

 まさに「救国の英雄」である。日本の教科書にさえ、こう書かれているのだから、韓国の教科書には、最大級の書かれ方をしているのであろうが、残念ながら今回の旅では、確かめられなかった。

 さて、像の上手にある市内各地から望まれるプサンタワーに上ってみることにした。エレベーターであっという間に最上部まで上がると、さすがに市内が一望の下に見渡せる。ほぼ目の下が繁華街で、その向こうに国際埠頭、さらに湾が広がっている。天気の良い日には、その向こうに対馬が見渡せるそうであるが、この日はもやっていて見えなかった。右手には大きな橋がかかり、影島につながっている。その橋の手前右方が、チャガルチ市場である。後ろ側にも街が次第に高くなりながら、広がっている。首都ソウルに次いで、第二位の人口400万を抱えた大都市である。この街は日本で言うなら、さしずめ「三崎漁港の付いた横浜港」であろうか。

               

 こうして「宛い扶持」の観光がやっとおわり、15分ほど走って宿舎の「コモドホテル」に着いた。英語ではCommodoreとかくが、(海軍提督)という意味で、どうも救国の英雄イ=スンシンを指すらしい。建物は丘の上にあり、レンガ色でどっしりとした韓国風の落ち着いた雰囲気である。内部は天然石造りで、室内は民族色のある装飾が施されていた。どうやらこの街では5本の指に入るホテルらしい。こういう「格の高いホテル」は、建物設備が素晴らしいだけでなく、従業員の教育やサービス、言葉づかいもすばらしいものである。そういう意味でも、大変感じが良かった。特に従業員の態度は、社会主義の中国のホテルとは相当に異なる。彼らは「サービス」というものが、何か分かっている。

                プサン・コモドホテル