関釜(釜関)フェリーに乗って









関釜フェリー
 下関港にある関釜フェリーターミナルの建物に入るやいなや、あのキムチの強烈なにおいが鼻孔をくすぐった。ソウルの金浦空港(旧)と同じニオイだ。ここはもうすでに「韓国」なのだ。周りを見回すが、誰もいない。建物に染みついているらしい。北アフリカのアルジェ空港に着いたときは、マトン(羊肉)と香料(スパイス)のニオイが強烈だった。ニオイやかおりは、それぞれお国柄があるようだ。はたして、外国人が日本の空港に着くと、みそ汁や漬け物のニオイがするのだろうか。
 
 港のターミナルビルそのものは結構新しくてきれいである。エスカレーターで二階に上がると、最初に窓口でパスポートを提示し、バウチャー(引換券)と乗船券を交換する。席は「大部屋雑魚寝」の二等B室ではなく、テレビつきツインベッド個室の一等B室であった。客の雰囲気を知ったり、客と話をするには「大部屋」の方が良かったのだが、ゆっくり寝たかったので、追加を払ってそうしたのだ。

 待合室は、地方空港の雰囲気であった。ただ一つ違っていたのは、引っ越しと見違えるような大きな荷物、それも大風呂敷や段ボール箱をカート(手押し車)に載せて待っているおばさん連中の団体であった。服装も普段着に近い。 後で分かったことだが、このおばさん達は「運び屋」さんなのであった。韓国から韓国製の服、靴などを運び、日本から電気製品などを担いで帰って生活している人たちのことである。こんなに貿易が盛んな二国間であるが、いまだにこんな形の「私貿易」があるのが、おもしろい。これについては後で触れることになる。
下関港ターミナル二階見取り図
(正規料金・片道) 特別室 18000円 一等A 14000円 一等B 12000円 二等A 10500円 二等B 8500円
         自動車 60000円(往復)
(出入時間)  毎日運行  08:30 入港 18:00 出港
 

 出発時間が近づくとアナウンスがある。税関を通り抜け、荷物を持って手荷物検査台前をとおり、X線検査を受けるところは、全く空港と同じである。「デューティーフリー」コーナー(酒たばこ香水等が無税で買える)を出ると、いよいよ船が待っている。 乗船口にはすでに例の山の荷物をもった「おばさん連合」が並んでいたが、ここでも「一般客優先」で彼女たちは待たされていた。乗った船は韓国籍らしく、窓口でルームキーを渡されたときにも、船員の日本語のアクセントに特徴があった。船内アナウンスはまずハングル、次に英語が流され、終わりに日本語が流されたが、船内掲示はハングル、英語が多く日本語は少なかった。
 午後六時出港の時は、お決まりの銅鑼が「ジャーン、ジャーン」となり、汽笛が長く「ボー」となったが、見送り人はほとんど居ず、別れの紙テープひとつ見あたらなかった。昔からある船旅の別れという「感傷」の入り込む余地は、まったくなかった。ビジネスライクになったのか、それとも永い別れもないのだろうか。ただただ、割れた音の船内放送の「蛍の光」がうるさいばかりであった。















関門大橋

 出港してすぐ、左側には関門大橋が遠望できた。その近くには、「下関砲台」跡があるはずだ。進行中のNHKドラマ「徳川慶喜」にもでてくる幕末の米英ら「四カ国艦隊による長州攻撃」の舞台になったところだ。海峡は狭く、幅は1kmもない。当時、砲台は瞬く間に占領されるが、その写真が中学校の歴史教科書にも載っている。その手前が「壇ノ浦」だ。平安時代末期、女官達に護られたあの幼い安徳天皇が、この狭い深緑の海へ沈んでいったのだ。そのあたりの描写は「平家物語」に任せよう。 
     
 
関門大橋と源平古戦場地図 巌流島の碑
 さて、船はすぐに右旋回し海峡を通過するが、右手に見える低い土地が「巌流島」である。岡山出身の二刀流で有名な宮本武蔵が、佐々木小次郎と決闘し勝った場所である。作家吉川英治は、まるで見てきたかのようにそれを描いたものだ。江戸時代には、李氏朝鮮が江戸の将軍就任祝いに送った「通信使」は、毎回ここを通過したし、明治になると中国の清との間に戦争が起こり、その講和条約が、下関で結ばれた。これを「馬関条約」と呼ぶ。1910年以後、朝鮮半島が日本の植民地になってからは、下関は文字通り大陸への「玄関口」になって行く。 なんという歴史の生き証人のような海峡であろうか。デッキにたたずみ、こうしたことを考えていた。