おわりに 
 
 
この度の旅を終えて、不思議な感じが残った。いつも外国へ旅行したとき感じるいわば「ときめき」みたいなものが余りないのである。それは、「未知への期待とそれを知った喜び」みたいなものだ。ちょうど一年前の夏、同じアジアの中国へ行った時、筆者の好奇心は、大いに高ぶった。何十年もあこがれていた「シルクロード」へ行けたと言うこともあるが、北京の街のちょっとした物にさえ「ときめき」を感じた。今回は、歴史的なものの見学が少なかったという点を割り引いてもそれが弱い。         
 
 なぜかを考えてみた。市内では、自動車が右側通行で看板の字がハングル文字であることを除いては、あえて言えば「まるで日本」なのである。人々の顔かたち、服の感じ、ことばの抑揚(あげさげ)などがそっくりである。遠くで聞く「ハングル語(朝鮮語)」は日本語のように聞こえる。土地のようす、雰囲気さえも似ている。韓国は半島にあって、山が海に迫っている。だだっ広いところにある大陸的な中国の都市とはまるで異なる。箱庭的である。だから、日本から行ってもすぐにとけ込める。
 
 古代に、半島の人々が日本にやってきたり、日本人が渡っているが、どちらも違和感なく暮らせたのではないかと思う。古代の歴史で、「渡来人」は「日本にやってきて日本人に文化を伝えた」と習うが、彼らから見ると、実は同じ国の別の地方に引っ越したくらいの感じではなかったのか。また古代に半島にあった加羅(任那)が日本と深い関係があったというが、両者の間には、現在ほどの意識の差はなかったのではないか。ある学者によると、古代日本語と古代朝鮮語は、今よりずっと近く通じやすかったともいう。今回フェリーで実際に渡ってみて、距離的にも意外と近く感じた。晴れた日には対馬が見えると言うし、ソウル入港前まで日本の携帯電話が使える点を考えると、本当に「ご近所」なのである。                  
 
 しかしまた「近い」が故に、不幸な歴史が存在するのも事実である。世界の歴史をひもといてみても、近隣の民族は殺しあったり、侵略したりと枚挙にいとまがない。ユダヤ人とアラブ人、インドのヒンズー教徒とイスラム教徒、フランスとドイツなど例はいくらでもある。しかし日韓の場合は、これまでほとんど一方的に日本が侵略者であり加害者である。

 筆者が3年間暮したアルジェリアは、フランスに130年間も支配され、独立までに百数十万人が死んだと言われている。日本製の電気製品や自動車が街にあふれ、また当時の大統領が「日本の工業化を我が国の手本にしよう」といったお陰で、日本の評判はまことに良かった。しかしその彼らが、話題が殊フランスのことになると、十人が十人とも悪口を言い出したのには、いささか驚いた。 
       
  韓国でも、戦後の「反日ナショナリズム」は大変なものであった。学校教育はもちろんのこと、マスコミ、雑誌、映画、音楽に至るまで「日本語・日本製品完全禁止」だったのである。彼らは「日本文化」の流入をいちばんおそれたのだ。すこしむかし韓国の税関で、日本からの旅行者が持つ日本の新聞や週刊誌が没収されていたのは、有名な話である。少し古い話だが、かつて韓国で行われたアンケート「世界で好きな国、嫌いな国」で、好きな国の第1位がアメリカ、嫌いな国の1位がダントツで日本、2位がそのころあった社会主義の「ソ連」というのが、報道されていたこともあった。

 
 二十数年前であったか、親日的な政治家金大中氏(キムデジュン)が東京都内のホテルで誘拐され、「殺されたか」という一部の報道にもかかわらず、何とか生きてソウルで保護された。当時、日本国内でも「金大中事件」として大騒ぎになったものだ。あれから幾星霜、彼はついに韓国大統領になり、今年10月に国賓(国の大切な客)として来日した。 彼は皇居での宮中晩餐会ではあえて日本の植民地支配など過去の歴史に触れなかった。

 (過去よりも未来志向の考えに立ち、二十一世紀の新しい両国関係を模索していこうとの韓国側の姿勢)(日経新聞社説10月9日)だそうだ。(天皇陛下は「お言葉」の中で「一時期、わが国が朝鮮半島の人々に大きな苦しみをもたらした時代があった」などと過去の歴史の問題について言及した。また首脳会談では小渕首相が「痛切な反省と心からのおわび」を表明した。)(同)韓国側も日本側もいつまでも「過去」にこだわるのではなく、二十一世紀に向けて、新しい日韓関係を築きたいと考えている。近い将来、天皇の韓国訪問も実現するであろうということだ。

 日本のマスコミには大きくは報道されなかったが、金大統領は訪日中に各地の在日韓国人の集まりに出席し、彼らの長年の労苦をねぎらったという。日本の植民地になった1910年から終戦の1945年までに、貧しいが故にまた強制連行されて日本にやってき、そして残った人達の苦労は筆舌に尽くしがたいと言う。その人達も今では70歳以上になっているが、どのような思いで母国の大統領のことばを聞いたのであろうか。            
 
 手元に、最近の新聞の切り抜きが二枚ある。一枚目は右の文である。「韓国公演で日本語の歌」という見出しである。すでに述べたように、戦後の韓国内での日本文化排除の動きは、徹底していた。それが最近ゆるやかになってきたとはいえ、表向きは「禁止」であった。それが金大統領になって「解禁」の方向に進み、今回の日本訪問を機に、段階的解禁に進むらしい。

(筆者後日注・2002年現在、日本の演劇集団や歌手が韓国で「公演」ができ、韓国人ファンが押し寄せる状況にまで、韓国側の「解禁」が進んできている)

                           (日本経済新聞1998.10.25)→

           
                                    (日本経済新聞1998.11.1)


もう一枚は鹿児島の「薩摩焼」の記事(上)である。少し長いが引用しよう。
 
 秀吉の朝鮮出兵時に、薩摩の領主島津氏が日本に連れ帰った「朝鮮人」陶工が薩摩焼を始めて400年になるという。代表的窯元である第14代沈寿官さん(77)が日韓両国に働きかけて、陶工先祖の故郷、韓国・南原市から海路鹿児島県東市来町に初めて輸送した「窯の火」が過去に思いをはせ、未来を考える絆(きずな)になりつつある。―という記事である。

・・この「火」は、聖火リレーのように韓国内を回り、韓国海洋大学校の実習船で日本に来た。沈寿官さんのことばである。「先祖たちの持ってきた多くの文化が、(近代に入って)いつの間にか忘れ去られ、朝鮮半島から来たという事実のみが残った。私の終生は先祖たちの権利を取り戻すことにあった。四百周年の祭りが終わったら長男を第十五代の沈寿官にしたい。」その長男(39)は「父が苦労して実現させた窯の火をきっかけに先祖たちの負の遺産を正の遺産に変え、未来に向かって日韓共同作業の第一歩にしたい」という。 
 
 これに先立ち、七月上旬から一ヶ月間、韓国ソウル市で「四百年ぶりの帰郷」と題する薩摩焼の展示会が開かれた。これに金大統領が出席したが、一般来場者は予想を上回る五万五千人であったという。これに呼応するように、金大統領は国会演説で、「韓日両国は過去を直視しながら、未来志向的な関係を築いていく時を迎えた」と力説した。韓国側は、「窯の火」の搬送費用を全額負担したうえ、陶工先祖たちを見送った「韓国風石塔」も寄付した。こういった韓国や民間の動きを受けて、政府も日韓閣僚懇談会を鹿児島で開く予定という。前出の沈寿官さんは、「四百周年は日韓新時代の第一歩」とし草の根交流を強める
―とある。
     
                              (以上日本経済新聞より抜粋、一部省略)
 
               
 日韓関係も、いつまでも過去を引きずらずに、新しい関係を作ろうと、日韓とも努力し始めたということであろう。筆者のまわりにも、韓国人の友人と文通をしたり、相互に訪問をし合っている若い人達がいる。話を聞いていると、実に自然に友情を深めているようだ。これこそ本当の「草の根交流」であろう。今後、若い人達のさらなる行動が望まれる。これとは反対に、筆者より年長の世代は、歴史の「後遺症」からか、つき合い方がぎこちないし、なかなか「こころの壁」が取り除けないようだ。

(筆者注・戦前の日本では、「韓国・朝鮮人蔑視政策」が権力側からとられ、国民の多くも「チョウセン」「センジン」といって差別していた時期があった。また、関東大震災の時に、多数の韓国・朝鮮人が日本人に「虐殺」された事実を忘れるわけにはいかない。)
 
 筆者のいたホテルに、親善試合で来た日本の小学校サッカー少年団が、滞在していた。この年齢から、隣国とおつきあいできるのは、素晴らしいことだ。私たち日本人は、日本が朝鮮半島の人々におこなった「不幸な歴史」を、反省するとともに決して忘れてはいけないが、また同時に、若い世代の人達がしているように、おなじ人間として心を開き、ますます多方面で交流をすすめてゆく必要があるであろう。                                                 
                                                            (おわり)                                                                                       (上の文章の内容は98年11月時点でのものです)