私の写真・資料館
† 津和野・乙女峠 †
<明治政府のキリスト教弾圧・切支丹殉教の地>
・・・・・・・江戸時代の「切支丹弾圧」は「近代国家」明治に入ってもつづいた・・・・・・・


明治政府・太政官布告・切支丹禁止令



殿町のカソリック聖堂敷地内資料室の展示

 
 江戸末期の慶応元年(1865)、江戸時代に隠れていた「切支丹」四千名のうち少数者が、大浦天主堂に「自分たちは切支丹」と名乗りを上げた。しかし明治維新後、「切支丹禁止令」により改宗を求められた長崎の教徒たち三千四百名が、百名、数十名単位で日本各地二十カ所に送られ、それぞれ収容された。(流罪)当地もその一つで、153名が当時光琳寺という寺(現在廃寺)にお預けとなった。

 当時の津和野藩は神道がさかんで、自信を持って改宗・棄教させるつもりであった。しかし、信仰の篤い彼らは容易に応じなかった。そこで方針が転換され、拷問によって改宗を迫るようになった。拷問はありとあらゆる方法がとられた。この結果、転向した者54名の他、殉教したものも36名を数えた。真冬に信者を裸にして放り込んだ池の他、当時の井戸などが残されている。

 戦後、ネーベル神父によって鎮魂のため建立されたマリア聖堂内部には、迫害の史実を描いたステンドグラスのレリーフがある。また、近くの山中には殉教した教徒の墓があり、歩いて十分少しで行ける。その墓の脇には、大きな十字架上のキリスト像が置かれている。なお、故永井博士の絶筆「乙女峠」には、この辺りのことが書かれている。

 このような明治初期のキリスト教・仏教に対する「宗教弾圧」は、西欧で「近代国家にあるまじき行為」と非難攻撃された。このため明治政府は、明治六年(1873)になってキリスト教を公認した。こうして、日本における徳川家光以後のキリスト教徒の「長い闘い」が終わった。


天和二年(1682)の切支丹禁令高札

踏み絵(江戸期・模造品)

乙女峠・光琳寺跡入り口

乙女峠記念聖堂・マリア聖堂
昭和56年、パウロ・ネーベル神父が建立

三尺牢跡(明治二年)
この場所にマリアが出現したと
いわれる当時が再現されている

切支丹たちが冬のさなか投げ込まれた「水責め池」

殉教百年記念碑のレリーフ(昭和43年製作)
中央左が聖母マリア
殉教者の墓
光琳寺跡地から徒歩15分の山中にある

津和野・殿町にあるカトリック聖堂
この敷地内に「殉教切支丹」の展示室がある

同聖堂内部・世界でも珍しい畳敷き

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津和野カトリック教会
tel/fax. 0856-72-0251
699-5605
島根県鹿足郡津和野町殿町



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