「フツーの」日本人があまり知らないアルジェリア <アトラス山脈からサハラ砂漠のオアシスへI>
Unknown Algeria from the Atlas mountains to the Sahara desert, 1983-1986
「北アフリカのアルジェリア」といえばみなさんはどんなイメージをお持ちだろうか 確かに「サハラ砂漠の国」だから国土の大半は「サバク」なのだが、よく見ると意外なことが分かるのである 例えば上の写真は「スイス」ではない 地中海の首都アルジェから南(サハラ方向)に行くと大きな山脈に出会う これが隣国のモロッコまで続くアトラス山脈なのである 高い山は1500m以上あり冬には雪が降る 決して大きくはないが、スキー場さえあるのだ 「サハラ砂漠の国でスキーをする」のもまた一興だ |
またこの国は意外にも「松茸」のたくさん取れる国である アトラス山脈の中のカビリー山地などでは、時期が来ると松林に松茸がニョキニョキ生えるのだ そして現地の人は誰もこれを取らない 旧宗主国のフランス人は茸類はトリュフしか食べないし、その旧植民地のアルジェリア人にも「松茸食い」の習慣がない ・・となると、在住の日本人にとっては嬉しいことになる 先任の日本人に連れられて「秘密のスポット」に案内される 妻などは放牧の牛が松茸を食べていたところを尻尾を持って引き回し、牛が松茸を放したところを横取りしたそうだ このように、「牛は松茸の在処を教えてくれる」のである ただそれはすでに傘がなくて軸部分だけだったが・・ この写真は、1時間ほどで私たち夫婦が取った松茸である 車のボンネット上の松茸はほんの一部、紙袋の中にもたくさん入っている とにかくいっぱいの松茸を持ってアルジェの我が家に帰宅し、一週間は「松茸ご飯」に始まる「松茸づくし」であった ただ日本の物と比べると香りが弱いようであった その内に噂を聞いてパリの日本料理店が買いに来たとか、現地の賢い連中は「日本人には高く売れる」と取るようになった そして松茸を取りに来た日本人に売ろうとしていた 後年、アルジェ市内のマルシェ(市場)にも日本人向けに高い値段で売られるようになっていた 私たちはそれを買うのが嫌で、毎年山に取りに行っていた もう死ぬまであんなに松茸を食べることもないだろう |
アトラス山脈を越えてサハラ砂漠方向に南下すると、高度は次第に下がってくる それと共に景色は「乾燥帯」のそれに変化する しかしこの辺りはまだステップ(乾燥草原)であって砂漠ではない この国も「サハラの拡大」防止対策にサハラとの境界に植林をしている 地下に水脈があるらしい その植林ベルトが延々と続いている 写真のような砂漠に続く幹線国道には途中の町のレストラン以外には、「道の駅」もサーヴィスエリアも何もない 男はトイレは何とかなるが、女性にとってはこの植林帯は大変ありがたいものだった もちろん車にロール紙は常備していた また昼食の調理もこの林の中でガス・バーナーを焚くと、日陰もあるし誰も来ないのでゆっくりできた(もちろん焚き火ではないが火気の扱いには大変気を遣った) |
ここは高原(Hauts Plateaux)のステップ(乾燥草原)である これはふつうの湖ではなく、「季節湖」という 雨期だけは少なからず雨が降り、低いところに水が溜まる そうなると草が生え家畜が集まってくる しかし乾期になるとこの湖は消滅する ただ地下の水脈は残るらしい 川も涸れ川(ワッディ・ワジ)になる 気候の温暖な温帯では見られない幻想的な風景である |
アルジェリアの面白いところは、ふつう「二極、対極」と思われる物が、同居して見られることである フランス支配下時代の元キリスト教会が今はイスラムのモスクのなっていたり、写真のように舗装路の自動車と昔ながらの道のロバ車が並行して走る−という面白さである 百キロ以上で走る車に抜かれても、コトコト進むロバ車の親子は一瞥だにしない 百年以上昔と何ら変わらない姿である |
この写真も対比的である 羊飼いの老人がゆっくりした足どりで羊を移動させている 草場か水場に連れて行っているのであろう 国中どこに行っても似たような景色が見られる 向こうの土手は列車の線路である 本当は列車が通る時に撮りたかったのであるが、何時間に一本も走ってこない幹線にして閑線なのであった 移動中なので待ちかまえる訳にもいかなかった その鉄道もこの先の高原の町ジェルファ(Djelfa, 標高1138m)で終点となる しかしサハラはまだ遠い |
サハラへの幹線道路は存外多くの車が行き交う こういうところでは「日本人、サハラで遭難」という新聞記事はあり得ない 先進国と異なるところは、道路周辺の廃棄?放棄?車輌の多さである アルジェリアでは1980年代、車検制度というものは存在せず、いったん「走る許可」をもらったら完全廃車になるまでいっさい検査はない 田舎に行くと、窓のすべてない車やドアがない車(運転手の足先が見える)が当たり前に走っていた 「砂漠の国だから涼しくて良いだろう」と思うのは当たっていない 砂漠地帯でいったん「砂嵐」になると目さえ開けられない そういう国だからおおかた砂漠でエンコし、修理不能ということで放棄された車であろうか こういう車は決して珍しくもなく、街道にゴロゴロしている 車の部品が貴重な国だから、放置車両の各部品は数日中に跡形もなく消え去る 写真の車は燃えたような跡があった もっとすごいことは、この他にロバやラクダの死骸がいっしょに転がっていることだ たぶんはねられたのだろう 腸が見える生々しい物から骨に皮が張り付いたミイラ状の物まであった そういえば、オーストラリアの原野の国道にも交通事故に遭ったカンガルーの死体が無数にあった |
サハラ砂漠に石油があったばかりに、フランスは他のマグレブ諸国(チュニジア、モロッコ)と違って、この国をなかなか手放そうとはしなかった そのことが独立の戦いで多くの死傷者を出してしまった はるか向こうに見えるのは、油田と関連施設である 近づくにつれ空を覆うばかりの黒煙が凄まじい いずれこういう炭化水素系汚染の公害問題が出てくるだろう ただこの国は原油よりも天然ガスの生産が多く、すでにヨーロッパを中心に輸出している 貧困に悩む「発展途上国」のなかで、まだ「経済的に健全」なのはこれら炭化水素化合物のおかげである |
石油施設の煙が遠くに見えている砂漠で、「砂漠の民」ファミリーに出会った 「お引っ越し」中であった サハラでは「土地の所有権」はないに等しいので、もちろん「土地貸借手続き」も不要である(あろう) 余談だが、日本で役場や郵便局に出す「転出届」や「転居届」はどうするのだろうか?子どもの学校は・・?余計なお世話ではある ラクダは「動く財産」だから真の「動産」だろうか?それに「不動産・動産」のすべてを載せている 「不動産」とはもちろん「家」である テントの柱はいちばん後ろのラクダに積んであった やはり「モスレム(イスラム教徒)」らしく、たった一頭の馬に乗るのは「家長」の男、ロバに乗るのは長男だろうか 女たちは何と裸足!で歩いていた ヨーロッパの白人がこれを見ると何と言うのだろうか? 赤子はラクダの背にヒモでくくりつけて!あった 「家長」の男」と「長男」が私たちに近づいて来た 私は「サラマレイコム!*(こんにちわ)「と大声で言った 「サラーム」と髭もじゃの浅黒い家長 彼は「タバコをくれ」とジェスチャーをした 「ない、吸わない」と答えて、車からオレンジを二個取りだして渡すと黙って受け取って去っていった これはまあ「撮影料」と考えることにした 後ろ姿を見ると、家長はアラブの曲がった短刀を腰に差していた (写真は加工済) |
*正確には「アッ・サラーム・アレイコム」="Peace for you"「貴方に平安あれ」である ユダヤ人のヘブライ語では「シャローム」で同じ意味で同語源である セム・ハム語系の彼ら「兄弟」が殺し合う現状はつらいものがある |
砂漠の道では景色は急に変わることはあまりない 次第に変化してゆく したがって、日本のように県境のトンネルを出ると「長野県」というような「ここからサハラ砂漠」という標識は当然ない しかしここはもう明らかに「砂漠(沙漠)」である 日本人は「砂漠」というと、「月の砂漠」の歌のイメージで、「すごい砂山の連続」と思いがちだが、実は「砂漠」は一般的には「年間降雨量が250mm以下の場所」、学問的には「降水量から蒸発量を差し引いた量がマイナスの場所」を指すのであって、どのような地面状態でも構わない サハラも実はこのような土の荒れ地や岩石の土地*が大変多いのである しかも「期待」を裏切って申し訳ないが、所々草が生えているところも多い 道の正面にある緑が「オアシス」である ここのはやや小振りだが、緑は主にナツメヤシ、他にはトウモロコシ、果樹、野菜類である こういった所には地下水脈が流れているという また水脈から人工的に何十キロ、何百キロと地下にトンネルを掘って引いてきている場合が多い こういう物を「フォガラ」と呼んでいる* |
目前の小さなオアシス 中央の道路標識が砂漠地帯らしいラクダの絵である 砂漠の自動車は通常100km以上出すので、ラクダに当たると両方とも「即死」に近くなる オーストラリアをドライヴした時はラクダの絵と一緒にウォンバットの絵もあったし、ドイツのアウトバーンでは鹿の絵があった 土地の様子がよく分かる さて、道路を見れば分かるが、地方でも道路敷設はただアスファルトを敷くだけで、路肩を固めないのでこのようにボロボロ剥離してしまう さらに穴ぼこも大変多いので、試しに180km出した時は、少々恐怖感があった 実は砂漠の道は、パトカーも全然いないし、信号も全くないのである |
サハラ最大のオアシス、ガルダイアである 町の外には小さいながら「国際空港」もあり、ヨーロッパからの直行便もある 本当は5つの町からできていて、それぞれに名前があるが、いちばん大きいガルダイア(ガルダイーア)がここを代表している そのむかし、イスラム教のなかの保守派(旧守派)ムザブ人(ムザビトン)が、よそから追われてこの地に着いたといわれている 今でもイスラム女性(モスレム)は布で頭顔を隠していることが多いが、ここの女性たちはもっときびしくて片目しか出さない(下図) このオアシスは規模的には大きな物であるが、巨大な窪地に町が作られている 今まで見てきた小さなオアシスは土地と同じ高さであったが、ここは坂を下ってゆく 写真の上側の縁が砂漠の土地の高さである このことは、ここより南250kmのエル・ゴレア・オアシスでも同様だ |
ガルダイア郊外にある墓場の「モスク」である モスクというより祠と言える イスラム圏共通で、中には「アラー像」などという物や「マホメットの肖像画」などというものは決してあり得ない イスラムは「絶対的偶像崇拝禁止」であり、モスクは大小を問わずただの「礼拝所」だからである このあたりがキリスト教や仏教と異なる この墓場付属の祠は窓らしい物がない場所で、薄暗い中にはまったく何もなかった 高温でも湿度が極端に低いので、窓があると熱気が入ってくるのである 逆にこの方が涼しい 案内してくれた青年は、「異教徒」の無理な注文にも快く応じてくれた 子どもは外国人にすぐ「おねだり」するが、概して大人はプライドが高く親切な人が多い 教育の意味がよく分かる |
その墓場は町を見下ろす丘にある このあたりは仏教国もキリスト教国も似ている所がある 墓標・墓石も写真のように大きな石が置いてあるだけで、記名もない しかも「土葬」だという 「おおむかし」の日本の状況も、権力者は別としてこれに似ていた 最後は「土に還る」という世界観なのだろうか キリスト教も仏教もよく「人は平等」とか言うが、本当の平等はこのような「死後の平等」なのかもしれない 死んだ人間にはその値打ちに上下はないということだろうか 注:写真左上、稜線の施設はマイクロウェーブの中継所、さばくを走っていると数十キロごとにある シルクロードで言う狼煙台の現代版である |
同じ墓地の夕暮れ 墓地が好きな筆者はここに長くいたので、いつの間にか夕刻になってしまった 美しい夕焼けであった |
ガルダイアからエル・ゴレア間(エル・ゴレア手前)の大砂丘、年中風が吹いていて、風の力で砂丘は年に数kmも移動する 砂はきめが細かく、人間がふつうに上がって歩くのには相当の力を要する 分かりやすく言うと、「砂時計の砂でできた丘を登るような感じ」といったらよいだろうか 手前の模様は風紋で風が吹く時期は、刻々と変化する 風が収まった後には、サソリの足跡や蛇の軌跡が散見される |
「砂漠のバラ」でできたサハラ・東砂漠のなかの家(エル・ウェッド郊外で) 「砂漠のバラ」は世界中の鉱物店、土産物店でも売られているほどよく知られている(下写真) この辺りはたくさん取れるらしく、売れそうな物は別として、砂漠から掘り出した岩はそのまま家の建築に使用する 写真手前の石積みも「砂漠のバラ」で、当地では珍しくもない「ただの建築材料」となる |