旅に纏わる話・まつわらない話(4)

       
(上)ヴァンクーヴァー空港公式サイトより転載(リンク)

 困ったもんだよ、「日本のオバちゃん」

 2001年の春4月、私はヴァンクーヴァー(YVR)行きエアーカナダ(AC)機に乗っていた。YVRで乗り換え、アメリカ西海岸のサンフランシスコ(SFO)空港で降り、カリフォルニアのある田舎町に行くことにしていた。そこで、戦後元アメリカ軍軍属と国際結婚をした日本女性に「取材」し、文章にまとめる予定だった。蛇足ながら、その後でできたものが、本HPに掲載の「戦争で人生が変わったアメリカの日系人たち」である。

 
さて、話はエアーカナダ機内に戻る。私の隣りに中年の日本婦人が座っていた。彼女は特に目立つ風貌ではなく、服装も外見も平凡な感じの「ふつうのオバちゃん」であった。乗った当初は気にもかけていなかったが、5時間も経った頃、目があったのがきっかけで話を始めた。意外な?ことに、彼女は「海外旅行」はリピーターらしかった。なんでもご主人は海外に出張が多い「貿易関係」の仕事だといった。その主人の出張にくっついて、よく海外へも行ったらしい。いろんな国の名前が出てくる。そういう意味では、海外旅行は「ベテラン」のように感じられた。

 今回は主人は別に仕事があり、彼女は単独でアメリカのシアトルに住む息子夫婦に会いに行っているのだという。息子もビジネスマンで、アメリカの生活にかなり精通しているような話だった。息子のことが自慢なのだろう。話のあちこちにさりげない自慢がでてくる。如何に自分が愛しているかも何となく仄めかした。私はこの時点で、この女性の家族は「海外で活躍している外国語も堪能な活動的ファミリー」と感じていた。

 二人とも「YVRでアメリカの西海岸都市へ乗り換え」という共通点と、たまたま「同じ歳」という共通点が重なり、話は盛り上がっていた。9時間を超える搭乗時間が過ぎて、やがて機内アナウンスが通常行う「着陸時のおきまりのセリフ」が流れていた。シートベルトを締めながら、彼女は「降りてもつぎに乗る所までご一緒しませんか?」と言った。もとより私には異存はなかった。

                        
(写真は文とは関係ありません)

 機外に出ると、客の列は自然に廊下を流れ、階段を下りて「入国審査」のカウンターに向かう。ところが彼女は突然「この紙はどう記入するんですか?」と訊いてきた。「紙」とは「入国申請書」である。それぞれの項目の意味がよく分からないらしい。私は「あれ?!?」と思った。「これは職業で、ここが行く先で・・・」一項目ずつ横から教えた。彼女が書き終わったところで、私は訊いてみた。「今まではどうしていたんですか?」答えが意外だった。「いつも主人が書いていましたから・・。」私はことばがでなかった。しかし、これは「はなしの始まり」に過ぎなかった。

 彼女は入国審査官に当然ながら英語で質問され、困って隣のブースにいた私に助けを求めた。このときは私も少々焦った。入国審査が終わると、バッゲージを受け取る。ここでも少しやりとりがあったが、それはここでは省く。さて、YVR(カナダ)からアメリカに出たことがある方はお分かりであろうが、アメリカは他の国とは扱いが違う。簡単にいうと、カナダで「アメリカへの入国審査」がすんでしまう形となる。つまりゲートも「アメリカ国内専用」が別にあるのである。さすがに「国際電話識別番号1」が同じ国同士だ。

 彼女は通例の旅行カバンの他、大きな段ボール箱2個に大きな紙包みを載せて、折り畳みカートを引っ張っていた。これはこの空港では「異様な恰好」の旅行者であった。北アフリカのアルジェリアや中近東の空港、パリのオルリー空港あたりなら「まったくふつう」の旅姿だが、こういう「先進国」ではなぜか目立つ。階段を上がったところに、警官か役人(オフィサー)のユニフォームを着た大柄の男性が、廊下の真ん中でゲートに急ぐ客たちをチェックしていた。すぐに私たちは呼び止められた。「これは貴方の荷物か?では、この部屋に入りなさい」と彼女に言った。

 わたしは直感的に「これはまずいな」と思ったので、彼女に「先に行って待ってます」と言い、その場を離れようとした。オフィサーは「これは貴女の友人か?」と訊く。なんと彼女は「マイフレンド、マイフレンド」と私を見て言う。そこでオフィサーは、「おまえも来い」ということになってしまった。その時私の背中のバッグには、これから訪問する日系人への土産がどっさり入っていた。「後ろめたく」はないが、いろいろ訊かれるのが煩わしく嫌だったのだ。

 オフィサーは中にいた女性の同僚に二言三言いうと、また出ていった。私の経験では世界のどこの国でも、「女性のオフィサー」の方が「取り調べ」は厳しい。仕事に「忠実な人」が多く、男性のように「融通」は利かないことが多い。特に社会主義国の女性役人は威張っており、権威主義的でもあった。たださすがに、ここカナダの女性は笑ってはいないが、ていねいにものを言った。「この箱の中を見たいから開けてください(Would you…?)」と。

 オバサンの段ボール箱は「宝の山」だった。最初は日本食の「××の素」のようなものが出て来、次は「松茸炊き込みご飯」「鮭茶漬け」「ノリの佃煮」「鰯の切り身の佃煮」などなどと書ききれない。オバサンの貧弱な英語ではこれを説明できず、わたしに「言ってくれ」という。わたしもこれらをきちんと英訳はできない。英語で何というか分からないものが多いし、多分英語にはない単語だろう。しかし単に、”Japanese foods""Dried foods"では許さない女性係官の態度であった。

 幸いなことに、瓶詰め、真空包装のものが多かったので、少ししか「没収」されなかったが、スルメや魚の干物でまた時間をとられた。当然と言えば当然だが、この女性係官はスルメなぞ生まれてこの方、見たことも食べたこともなかったのだろう。わたしは「”squid”を乾燥してできたのがこれです」などと説明した。係官は臭いを嗅いで、嫌そうに手を横に振りながら顔も振った。

 「本日のメインイヴェント」は箱の底から、古新聞に包まれてどっと出てきた。それは泥のついたゴボウ、レンコンと山芋であった。係官は即座に、「これはダメ!」とはっきり宣言した。それはそうだろう。世界のどこの国でも「土壌または土の付着したもの(農産品)」は「持ち込み厳禁」になっている。特にオーストラリアや私たちが向かう米・カリフォルニア州は「農業立国」である。それでも彼女は「無駄な抵抗」を続けていた。しかし、オバサンが何と言おうが喚こうが、「当然 No doubt」のように取り上げられてしまったのである。

 ここまでで一時間以上が経ったが、そうこうしているうちに、最初の男の係官がまた入ってき、私に訊いた。「君は何をしているのか?カバンを開けなさい。」私は「婦人の付き添い」と主張したが、聞いてはもらえず、リュックサックと小バッグを開けるハメになってしまった。「巻き添え」だった。もちろん問題はなかったが、説明に時間を食われてしまった。

 一時間半後、やっと我々は「解放」された。彼女は「ご迷惑かけましたねえ」というが、この頃には私も疲れており、彼女に文句を言う気力も失せていた。「どうしてあんな泥付きのものを入れたんですか?」「だって、息子があれが大好物で、シアトルではあまりいいものがないんですよ。喜ぶ顔が見たいし、電話でも「もってきて」と言われたし・・。それに前回はまったく問題なく通りましたから・・。」私「それはたまたまですよ。どこの国でもこういうことは厳しいんですよ。」しかし彼女はあまり反省した様子はなく、ただ<運が悪かった>という口調だった。それにしても、息子も息子である。オバさんと別れたあと、私は時計を見て愕然とした。2時間半あった待ち時間が、あと1時間もなくなっていた。どっと疲れが出てきた。

                        
 
 それにしても、この日本婦人の「主体性のなさ」と「海外常識のなさ」は何なんだろう。海外が初めてなら、こういう話も「ご愛敬」で済むものなのだが・・。彼女の海外旅行の話をたくさん聞かされたあとで、なんだか「今までの彼女の生き様」を見せつけられた感じがした。「ダンナを立てる」と言えば聞こえはよいが、人間として自立できていないだけのことなのだ。こういう方は何回海外へ出ても、「学習効果」は薄い気がする。
 
 もうずいぶん前になるが、わたしはヴァンクーヴァーから小さな飛行機でシアトルに入った。そのときには、カナダで土産に買った「メープルシロップ」のドロップ・カン様のカンが、「不審物」として引っかかり、衆目の前でカバンを開けられて、時間をかけて隅まで調べられた。工業製品なので、最後はパスしたが、一部には「ここの空港は日本人を目の敵にしている」といううわさもかなりあった。事実、この空港では多くの日本人が「被害者」になっているらしかった。上記のような日本人が多くいると、これも「致し方ないこと」なのかも知れない。



                    写真はすべてYVR・APオフィシャルHPより転載



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