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第二十七話 伝説の画家フェルメールの墓参り
 
 オランダのデルフトは、「真珠のイアリングの少女」の画家、ヨハネス・フェルメールが生まれ、亡くなった町である。その絵は私の大好きな絵の一枚である。私が今回オランダに来たのも、その絵の少女に「再会」するためであった。数年前に彼女とは神戸市立美術館で初めて会った。それ以来、彼女の魅力に取り憑かれた。

           

 画家は43年の長くない人生のほとんどを、この田舎の美しい町で過ごした。彼は子沢山で、いつも貧乏で、そして義母の家で経済的に支えられて生活した。そしてたぶん貧困の労苦から亡くなったのだろう。残された絵は世界中で30枚余しかない。それでも彼の絵は素晴らしい。

 彼の死後名前はいつしか忘れられ、ずっと後にその良さが再発見されるまで、人々の記憶から消滅した。そういう画家であるから墓の特定も出来ず、「再発見」されてから、教会の記録が呼び戻された。これは「四季」の作曲家ヴィヴァルディーと同じである。

 ヴィヴァルディーも現在は墓がない。ウィーンの工科大学を建てる際に、墓地そのものが取り壊されたからだ。これはとてもはかない。私は彼の墓を見つけようとしたが、大学建物の壁に、「ヴィヴァルディーの墓が昔ここにあった」という意味の小さなプレートがあるのみだった。

 フェルメールの場合は、それでもこの町の旧教会にちゃんと墓がある。オランダ政府観光局の公式サイトには、「墓は見つかっていないが、埋められた教会の記録がある」意が書かれている。それでは写真の「墓」はいったい何か?

 傍で見ると、実に本物臭いのだ。石の擦り減り方といい、古そうな色といい、「これは1975年にはめられた記念の石碑」といわれても、俄には信じがたい。それほどリアルな「墓石」である。果たしてこれが偽物なのだろうか?

 「私は墓が大好きだ」・・というと、「かなり危ないオジさん」になってしまうが、大好きな歴史上の人物、音楽家、画家などの墓前に立つと、なぜかその歴史に入って行けるような気がするのである。だから、かなりいろんな墓参りをした。私のHP「このたびのたび」を見ていただければ、お分かりになるだろう。

 いつも外国で墓参りをする時思うのだが、墓が教会の外にあるときは問題はないが、教会の床にある場合は、後世の人々がその上を歩き回るのである。しかもすでに数百キロもある石が死体の上に載せられているのだ。(土葬が原則) イギリスのストラトフォードuAにある文豪シェークスピアの墓も教会の床にあった。

 また日本人的感覚からいうと、死者の上に乗るのは何となく「死者に対する冒涜」という感じなのだ。すでに灰ではなく、まだ骨と衣装が残っているから、私には「罪深い」感じがするのだ。といいながら、写真で私はその上に載っているのだが・・。(アーメン、合掌)

 それからもう一つ、今年が「生誕250年」になる私の大好きなWAモーツァルトも、貧しかったのと当時の風習で、正確にいうと墓はないが、ウィーンのマルクス墓地と中央墓地に記念碑はある。このあたりの話は、有名なアカデミー賞受賞映画「アマデウス」に出てくる。

 このように、現在「天才」とうたわれる人々も、生前、または死亡直後、貧乏だったり忘れられて、墓が「不明」になっている。しかし、残されたその優れた作品によって、その生命や名声が永遠の物になっている。結局、墓があろうと無かろうと、立派であろうと貧弱であろうと、良い物はずっと残ってゆくのである。「歴史が判断する」というのは、そういうことなのであろう。

参考リンク:フェルメール関係ページ(HP「このたびのたび」)
http://konotabi.com/photoalbum/NL_Delft_Vermeer/Veermeer.htm

                                マイブログ「このたびのたび」10月より転載   

第二十六話 オランダの道路・交通事情と人々の生活(1)
                 アムステルダムの歩道
 上はオランダの首都、アムステルダムの古い地区である。取り立ててどうということもない写真のようだが、日本と違う所がいくつかある。もちろん「車が右側通行」とか言うことではない。道路造りのコンセプトの話である。

 写真の左半分を見ていただきたい。左端が歩行者専用、その右の色が濃い部分が自転車道、たまにバイクが走っていたりする。その右はトラックが荷物を下ろしたり、人が乗降する場所だ。

 さらに外の灰色のえぐれた部分はパーキングで、ここの場合は無料。もっと町の中心部では、駐車券を自動販売機で買い、車の窓に張っておく。駐車部分のしきり方が、日本とは違って数台ずつになっている。ここの人の駐車技術は絶品で、車長+60cmあればハンドルを切り返しながら何とか入れてしまう。これは38年運転している私にもできない。

 このように、日本で言う「歩道部分」が縁石つきではっきり色分けし、なおかつスペースにゆとりがある。日本ではそれが一緒だから、「メールを打ちながら片手でハンドルを握る」若者が、老人にぶつかって死なせた・・とかいう事故(事件)が起こる。このくらいスペース区分帯があると、事故も起こりにくそうだ。

 さらに気がつくのは、この国が「自転車王国」ということだ。走る自転車が多い。また、自転車をつなぐスペースがたくさんある。これで「違法駐車」が防げる。もちろんこの普及も、この国の最高地点が58mとかいう「完全平坦地」のおかげもあるが、さらに健康志向とスローライフのライフスタイルがあると思われる。

 この国はもともと国土が狭く、そのため歴史的には海外進出をし、現在でも海外移民の多い国である。土地の狭さはまた干拓をもたらした。学校時代に社会科で、「オランダ=干拓=ポルダー・・」などと習った記憶もあるであろう。そういう土地が狭く、人口密度の高い国でも、こういう「社会資本」のスペースは「贅沢」につかう。

 歴史も町作りの歴史も違うから一概にはいえないが、日本人から見るとうらやましい。日本は「物がないのを、精神で置き換えた」文化である。オランダ人も決して豊かでは無かったから、「外食」はしなかったらしい。今でもレストランは少ないように思える。

 こうことから、外国人から「オランダ人はケチ」と見なされ、「ダッチ・アカウント」という「ネガティヴ」な表現をされてきた。しかし、このような町作りのコンセプトは、決して「ケチ」ではない。ここに彼らの合理性を見る。

 週末にヨットで運河を走り、夏の夕方にマイボートで町中の小さな運河で夕涼みをする、休みの日は家族で自転車を連ねて、「自家製サンド」を持ってピクニック、キャンピングカーを持つ人はみんなでキャンプ場などという生活は、彼らが本当の「ケチ」ではなく、金の使い方が違うだけだ。

 日本人は「家族で外出」になると、必ず「ファミ・レス」に寄る。また家族で何万円も出して「テーマ・パーク」で遊ぶ。また学生が携帯を打ちながら歩いている。さらに若い子がいわゆる「ブランド・バッグ」を当たり前に持っている。

 今回の旅では、上のようなオランダ人はほとんど見かけなかった。どちらが豊かな生活なのだろうか?「本当の豊かさとは何か」を、日本人はもっと考える必要があるかもしれない。

                                 マイブログ「このたびのたび」10月より転載 

第二十五話 大韓航空名物、ビビンバは何度でも食べたい
                  大韓航空の機内食ビビンバ
 私は「スター・アライアンス」と「スカイ・チーム」のマイレージを貯めている ドラッグやスーパーのポイントカードと同じで、あとで「ごほうび」がもらえる楽しみがある 他社のもたくさん持っているが、一つに絞らないとなかなかこれももらえない

 大韓航空(KE)は「スカイ・チーム」のメンバーであるが、そういうこととは別に機内食の楽しみがある どこのエアラインでも食事の「ウリ」があるのだが、なぜか私は日本の航空会社の「日本食」より大韓航空の「ビビンバ」の方が口に合うのだ ただし、日本ー韓国間ではこれが出ない 冷製の簡素な食事だけだ それでも、日本の国内線よりずっとマシだが・・ 

 だから、ビビンバを食べるためには、インチョンを通って他の国に行くしかない だからといって、食べるためだけにKEに乗ったりはしない 大体、最近のアジア系エアラインは、客室乗務員(キャビン・アテンダント)がきれいで、愛想もサーヴィス態度も良い 食べ物もまあイケる これに反して、子育てが済んだオバさんが、大きな体を揺すって投げるように食事を置く航空会社もある それは「欧米か?!」

 特に良いのは、アンケートでずっと一番だった有名なシンガポール航空、あとはタイ航空、キャセイ航空(ホンコン)、最近はカタールなんかもいいーと聞くが、これはまだ未搭乗である そして、何回も使い今回も使ったKEである 

 KEは私たちが結婚した翌年の「おおむかし」、ニューヨーク=ソウル・キンポ=大阪・伊丹で使ったが、それはヒドいものであった 翌年同じKE007便は「ソ連」の戦闘機に撃墜され、全員が死亡してニュースで大きく扱われた しかしKEも最近は機体も新しいし、サーヴィスも良く食べ物も良くなった

 そういう中の代表が「ビビンバ」である 上の写真を見ていただくと分かるが、ホカホカご飯と具とヌクヌクわかめスープ、とピリッとキムチ等々である 量こそ少ないので、大学の相撲部員には物足りないだろうが、中年にはこれで十分 タダのワインをお代わりしながら食べると、また格別に良い チューブに入ったコチュジャンも、自分で好みに合わせられてグーだ 日本食の地味な味より、ぴりっとくる辛さが堪らない

 もう一つ「ビビンバ」の長所を書き足すと、大してすることがない機内で、自分の手を動かして、自分の好みに合わせて「調理」できることだ この能動性が良い ちょうど「お好み焼き屋」や「もんじゃ焼き屋」で、「あっ、入れすぎた!」とか言いながら食べるあの感覚である ただの「宛い扶持」でない「創造性」があるのだ

 なんといっても、KEのビビンバは、世界機内食協会ランキングに1998に金賞を受賞しているスグレモノだ 今年もKEは「ビビンクス」で再び金賞を取った こういう「カラメ」の食べ物が、世界でも理解されてきたということだろう

 KEは格安券もけっこうあるし、「南回り」の他のアジア系エアラインより、ヨーロッパへの実質搭乗時間が短いのが「ウリ」である ただ欠点は、ヨーロッパの各都市への就航路線が少ないこととその便数が少ないことだ 路線によっては毎日は飛ばないから、ビジネスマンには不利だ だから時間の余裕がある人向きだと言えよう ここまで書いていると思い出してきた ウーン、またビビンバが食べたい!
                                 マイブログ「このたびのたび」10月より転載

第二十四話 なんじゃこりゃ?!アムステルダムの不思議な物
                  アムスのむき出し簡易型男子トイレ

 アムステルダムの「アンネの家」に行った時のこと、そばの西教会の回りにトラックが何台も停まって大きな物体を下ろしています それが写真の物です それが何か分からなくて、教会の周りを回るとなんと10以上もあるのです 世界を少しは回った私もこれは見たことがありません 

 そばによってシゲシゲと観察しました 高さは人間より高く、120度ごとにアナが一個開いています 間はしきり風になっています カミさんは「大きな花入れのようね」といいますが、何か少し違うようです

 アナは20cmくらいで、底は見えないくらい深いのです でも、なんか臭うーのです 「あっひょっとして!」 そうなのです 「男子用の屋外トイレ」だったのです 日本だったら、例え男子用でも周りを少しは囲っています

 ここは歩道の上ですから、若い女性も当たり前に歩いています 通りすがりにちらっと見れば、「最中のナニ」がしっかり見えてしまいます オジさんの私でもものすごく恥ずかしいのです 「すごいなあーここの男は!」 

 そうこうしていると、若い男性がやってきて、当たり前にジッパーを下ろして「作業」を始めました 回りを窺う様子もありません 何でも面白がって写真に撮る私も、さすがにちょっと撮れませんでした

 感心しながら「女性用」を探しました 覗くためではありません 研究心のためです ありました!さすがに「むき出し」ではありませんでした 日本の簡易型と同じ感じです 「やっぱりなあ」というと、カミさんは「当たり前でしょう」とさらっと言った ひょっとして「勘違い」されている・・?

 それにしても、他の町ではドライヴ中にトイレがなくて困った国なのに、なぜアムスだけ一カ所に十数台もあるのだろうか? よく見ると、歩道脇に小さな舞台が作られている最中でした コンサートか何かのイヴェントがあるのでしょう それにしても、オランダ男性は「自分自身」によほど自信があるのでしょうか?また、この国では、「わいせつ物ちん列罪」は適用されないのでしょうか?

                           マイブログ「このたびのたび」10月より転載

第二十三話 ベルギービールはスゴイ !
                   カミさんも喜んで飲んだベルギービール
 ベルギーをドライヴ中のことです あのナポレオンが敗退した有名な「ワーテルローの戦跡」の見学にと、ワーテルローの町まで来ました そしていつもながらのホテル探しを始めました ところが何件当たっても部屋がない ある宿のカウンターの人はこう言いました 

 「この町は観光の町ではなく、ビジネスの町です 今は一年でも混む時期です  ここはブリュッセルの通勤圏で、会議が多くなると市内のホテルが取れない時は、まずここに来ます 今はダメですよ」 あ〜〜あ

 そこで私たちは「ペンションとかランクが下がっても良いから、どこか紹介して・・」というと、町はずれの小振りな旅籠風の宿を教えてくれました 迷いながらそこへ行くと、またもや「今日はいっぱい」とまたアウトです そこは感じが良く、私たちの好きなこぢんまりした小ホテルでした 

 オーナーもとても親切に応対してくれ、電話で訊いてくれました その結果、「ここから自動車道で走って15kmくらいの所に一軒あるから、行ったらいいよ」と教えてくれました ところがまた道を間違えたりして行ったり来たり ある村ではカミさんが民家の庭にいた老婦人に訊きました ところが婦人は英語はダメらしく、フランス語オンリーです カミさんはおおむかし、フランス語を2年ほど習ったので、「錆び付いて」はいましたが何とか分かったようです

 何度も迷いながら、山中にある村のレストラン付属のホテルに到着 すでに辺りは真っ暗です 「なるほど、このくらい山中なら客は来ないよな」 空腹だったので、荷物は車に置いたままで即レストランへ それでも私たちは暗い庭のロウソク一本のテーブルで食事をしようとしました そこでまず頼んだのが、前から考えていた地元のビールです カミさんはいつも通りミネラル水ですが、少しナメさせてみました

 そうしたら、なななんと!ビール大嫌いのカミさんが「おいしい!もうすこし」というのです 私は飲み分が少なくなるので、「もういい」と言いましたが、「これなら私も飲める」といってさらに飲みました 上の写真の左の方で「KASTEEL」といいます 因みに、右の方のビールは「これはダメ!」でした

 ビールの味は口では説明できませんが、イギリスのビールにハーブを入れてワインを足したような味−と言っても分かりませんよね 日本でもベルギービールは「やまや」などの大手リカーショップで入手できますので、まあどうぞ でもアルコール度11ですから!未だもって、「アルコール嫌いカミさん」の七不思議です もちろん私は大変美味しくいただきました それでもって、小瓶を12本担いで日本に帰りました(重かった!)           (おわり)

参考:ワーテルロー古戦場「ライオンの丘」写真
http://konotabi.com/photoalbum/Belgium_Napoleon/ButteduLion.htm

                                マイブログ「このたびのたび」9月より転載

第二十二話 シーボルトゆかりのライデン(オランダ)
                    ライデン大学植物園にあるシーボルト像
 旅行でオランダのライデンに行ってきた 町中を散歩したり、ライデン大学構内も歩いてみた ドクトル・シーボルトの旧居や彼が持ち帰った紫陽花や椿が植えてあるライデン大学植物園も見てきた 

 日本人で「シーボルト博士」を知らない人は、あまりいないだろう 学校時代に社会科が嫌いで、あまり歴史など勉強しなかった方でも、きっと一回くらいは彼の名前を聞いたことがあるだろう 

 「江戸時代に、日本と交渉があったオランダ船に乗って長崎に来た医者」くらいは、歴史が少し好きな方には常識であろう もっと歴史が好きな人は、「日本人の女性(楠本滝)と結婚した 日本人に西洋医学を教えた シーボルト事件で国外追放になった オランダ人と言って入国したが、本当はドイツ人」位はご存じだろう

 さらに歴史書を読むくらいの方なら、日本人妻との間に生まれた娘イネ(通称「オランダおいね」)は医者になったが、それが日本で最初の西洋医学の女医であったこと ドイツのヴュルツブルグの名門の生まれで、ドイツでVONが付く名前は、貴族出身であること、長崎に医学校の前身である鳴滝塾をつくり、高野長英らを教えたことなど・・をご存じだろう

 ところがこんなに有名なシーボルトだが、母国ドイツでは「ジーボルト」であるのはあまり知られていない 名前は本来、母国語の読み方がいちばん正しい 中国人は日本人名を中国式によむが、あれは例外であろう(日本人も中国人名を日本式によんでいる 「孔子」を中国人は「こうし」とはいわない)

 だからドイツでは von Siebold は「ジーボルト」でなくてはならない だがまだジーボルトでも正確ではない 前のvonはつけてよむのが通例だ だから「フォンジーボルト」が正しい 「やまだ」さんが「まだ」さんと正式に呼ばれたら、きっと怒るだろう

 まだフツーの日本人が知らないことがある 彼はあの「シーボルト事件」で「国外追放」になったのだが、のちに彼は帰国後ドイツ貴族の娘と結婚し、3男2女をもうけた ということは、日本に「腹違いのイネ」がいたので、つまりはイネには「5人の弟妹がいた」ことになる

 彼はヨーロッパ諸国に日本に開国させるように働きかけた さらに来日前のペリーに日本の情報を提供した のち日本が開国してアメリカだけでなく、ヨーロッパ諸国とも条約が結ばれ、「シーボルト追放令」も解除されると、1859年シーボルトは「オランダ貿易会社顧問」−という身分で再来日した そして1862年ドイツに帰国するまで、何と以前に自分を追放した「江戸幕府」の外交顧問まで勤めているのである しかし、彼は日本が新しい明治になるのを見聞きすることはなく、ドイツのミュンヘンで死んだ

 さてその「シーボルトの町ライデン」だが、今でもむかしの雰囲気が残っているすてきな町である とくに運河が張りめぐらされた旧市内は散歩するくらいの大きさであり、落ち着いた風情である また画家レンブラントもこの地で生誕したので、生家跡や銅像など関係の物も多い

 はじめに書いたように、ライデン大学付属植物園には小さな日本庭園があり、上の写真の像が迎えてくれる そのわきには彼が大好きだった紫陽花が、たくさん植わっている 開花の季節ならきっと美しいに違いない ライデンはすてきな町である

親HPの写真はこの下をクリック:
「オランダ最古の大学町・シーボルトゆかりのライデン」
http://konotabi.com/photoalbum/NL_Leiden2/Leiden.htm

(リンク)「長崎の女たち・楠本-シーボルト・イネ」(テレビ長崎公式サイト)
http://www.ktn.co.jp/n-woman/kusumoto.html

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二十一話 オランダの道路・交通事情と人々の生活(2)
                 オランダの自動車道
 オランダの町中では、ぶっ飛ばしている車を見ることは殆ど無い。それどころか、おとなしくマナーが良い車が多い。歩行者はけっこう横断歩道以外でも渡っている。車はクラクションを鳴らすでもなく、スピードを落とす。だから、横断歩道を渡りかけている人がいると、問題なくすっと止まる。日本のように、横断者の脇を「プー」と鳴らしながら、脇を走り抜けることはない。日本では、横断歩道はあって無いに等しい。「先進国」では日本は悪い方だ。

 また、「この国は自転車が多い」と前に書いたが、その自転車もマナーが良い。おばさんといえる中年女性が、右左折するときにちゃんと律儀に手信号をしている。女学生も同様だ。日本では、学校の「交通安全」の時間には、全員がきちんと手信号はするが、ふつうの道路でしている生徒を見ることはまれである。いわんや、大人においておや−である。しかし、この国の自転車乗りはすごい。公式の「自転車専用道」が、ほとんどの道にもあるのもすごいが・・。

 また、オランダを車で走ると、道路整備がすばらしいことがよく分かる。中世からあるような歴史のある町の旧市街は、ほとんどが石畳で雨の日は滑りやすく、また道幅が極端に狭い。だから、一方通行が多く、「目的の教会は遠くから見えているのに、なかなか近づけない」−というようなもどかしさがある。この事情はベルギー、ルクセンブルグでも似たようなものだ。

 しかしいったんアムステルダムの環状道路や郊外にでると、幹線は最低でも片側二車線、大都市近郊では5車線はある。土地が狭いはずのこの国で、道路占有部分のスペースにゆとりがある。さらに自動車道の出入り口などアクセス部分はスムーズで、道路標識も完備している。

 ただ問題は、日本のように、標識が「英語併記」でないことが多いので、意味不明なのが外国人には不便である。これは改善の要があるだろう。またこの国は基本的には「有料道路」がない。ドイツのアウトバーンと同じで、「社会資本」の充実がすばらしい。それ比べて、日本の道路は優良でしかも高い。

 このように、道路環境が充実したこの国であるが、いったん「自動車道」に出たドライヴァーたちのマナーは非常に悪い。120kmの道で、半数以上は140〜160km位は出している。流れが極端に速い。また日本と同様、車線変更ではウィンカーは出さない。まだこれは良い方だ。車線を変えるとき、後ろから来ている車の直前にウィンカーなしで割り込む。私が100km以上で追い越し車線を走っていたとき、目の前に急に車が割り込んだ。危険なのでパッシングライトをつけたら、いきなり急ブレーキを踏んだ。追突しそうなので、私も急ブレーキを踏んだ。何とか回避できた。どうもわざとやったらしい。後で追い越しざまに見ると、案の定若い男だった。

 また片側5車線ある高速道路で、いちばん左端からウィンカーを出さずに、一直線に斜めに45度で右端の車線まで突っ切った車を、何回も見た。目の前でそれをやられると、びっくりする。全体的には運転のうまい車が多いのだが、「運転は荒い」といわざるを得ない。日本でもそういう車はたまにいるが、大体いかにも「あぶないくるま・あぶないひと」のことが多い。オランダ人は「自動車専用道」に出ると、「人格が変わる」感じがする。日本同様、国が狭く人口密度が高いから、ストレスの発散を運転で晴らすのだろうか?それとも他に原因が・・?

                                     マイブログ「このたびのたび」10月より転載

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