旅に纏わる話・まつわらない話(2)

伯母の「天国への旅」


・・・だが伯母は途中で還ってきた・・・


 伯母は今年で93歳になる。難しい本も読むし、テレビの時事番組も見る。彼女はクリスチャンで、ミッション系スクール出。今は亡きその「ベターハーフ」も、神戸辺のミッション系大学出で英語教師であった。伯母の生みの母、つまり私の祖母もクリスチャンで、毎週熱心に教会に通っていた。その伴侶、私の祖父も京都のミッション系学校卒業生。更にその父(私の曾祖父)も同じ所の「神学部」出の牧師であった。曾祖父は明治になるやいなや、いち早く刀を捨て、クリスチャンになっていた。

 そういう伯母が、5年前に倒れたことがあった。経緯はこうである。夏の終わりのある夜、横浜の従姉から電話があった。「一昨日から母に電話しているが、つながらない。心配だから見に行ってくれないか。私も明日朝いちばんの新幹線で帰るから。」というものであった。翌朝、私は車を飛ばして、伯母の家に行った。しかし、ブザーを鳴らしても、戸を叩いても反応はなかった。家の周りで開いた窓はなかった。大きな声で呼んでも、何も聞こえなかった。テレヴィの音だけが聞こえていた。鍵をもっていないので、それ以上は何もできなかった。

 昼過ぎ、従姉を迎えに岡山駅に行った。そのまま伯母の家に直行し、ドアを叩いたがやはり同じだった。私はその時「最悪のシナリオ」を考えていた。しかしそれを従姉には言えなかった。相談の上、勝手口のガラスをたたき割ることにした。ガシャーンという音とともにガラスは割れ、勝手口は開いた。となんと、伯母は台所の床の上に倒れていた。しかし、「くの字」になったままピクリともしなかった。手を取って脈を診ると、微かに動いていた。名を呼ぶが、微かに「ウーン」というだけ。すぐに救急車を呼んだ。

 こうして一命を取り留めた伯母は、日に日に回復はしたが、しばらくして見舞いに行っても、憔悴しきったままだった。訊くと、つまずいて倒れてから這い回り、食べ物も水分もとっていなかった。(私たちが「発見」した時は、冷蔵庫の前に倒れていたが、カルピスの瓶が転がっていた。)あまりに喉が渇くので、冷蔵庫のドアを開けカルピスを飲もうとしたという。しかしそれは「原液」だった。飲めばますます喉が渇く。結局、何も口にできなかったという。医者によると、「脱水症状もその日が限度」だったらしい。

 この伯母もしばらく病院、ナーシング・ホームを経験し、やがて、横浜の「娘」の家に「引き取られ」ていった。しかし何年かして、「見も知らずの町」から「茶飲み友達がいる町」へ帰って来た。「一人でも故郷がいい」と・・。その伯母と先日ゆっくり話ができた。伯母は突然こう言った。「私は天国に行きかけたのよ」と。話を聞くと、こうだった。

 倒れてしばらくは元気はあったが、打ち所が悪かったのか、どうしても起きあがれなかった。そこで這いながら移動したが、ついに台所で失神した。長い間そこで「寝ていた」らしい。その時の話である。

・・・彼女は青い青い空のなかを歩いていた。きれいな美しい青空だった。舞うように泳ぐように歩いていた。なにか「向こう」から呼ばれている感じだった。青空の手前に何重もの白い透明なカーテンが垂れ下がっており、それをかき分けかき分け前へ進んでいた。その時、後ろから彼女を呼ぶ声が聞こえた。声はだんだん大きくなった。そこで後ろを振り返った。・・・・・・気がつくと、病院のベッドだった・・。

 「娘と甥に助けられた」のも、「救急車の担架に乗った」のも、全然記憶にないーという。伯母は続けて言った。「多分あのとき、後ろから声がしなかったら、私はそのまま逝って帰っていなかっただろう」、また「三途の川があって、閻魔様がいるという話は違う。そんな川もなく、怖い人にも会わなかった。それは明るいきれいな青空だった。ほんとに気持ちが良かった」とも。今日も伯母は、毎日を「生き生きと生活」している。



後日注:上記伯母は2012年100歳で天寿を全うしました 安らかな顔でした
                                  

  2002/10