旅に纏わる話・第18話:今は無き社会主義「東ベルリン」での一日

東西冷戦時代・西ベルリン 東西冷戦時代のC検問所(ベルリン) チャーリー検問所
 
 最近、古い1980年代の銀板スライドフィルムをスキャナーで起こして、デジタルデータに置き換える作業をしている。今までのフィルムは湿気や長期保存に弱く、すでに経年変化が起きていた。そういう中に「東ベルリン」の写真があった。写真の復元作業をしながら、私はその頃を思いだしていた。

 「東ベルリン」という名前は今は存在しない。文豪ゲーテの顔を印刷した「東ドイツ紙幣」も、ホーネッカー・ドイツ社会主義統一党書記長も、今はこの世に存在しない。それらすべてがまだ「現役」だった頃、私たちは休みを利用してベルリンに来ていた。

 1984年夏、北アフリカ、アルジェからルフト・ハンザ航空でフランクフルトに着いてから、今は無きアメリカのフラッグ・キャリアー「パン・アメリカン航空」(のち倒産)に乗り換えた。おかしなことに、当時、「西ドイツ」の航空機は「西ベルリン」に着陸できなかったのだ。

 当時はまだ「冷戦時代」で、大ベルリンは4連合国が「共同管理」していた。こういえばカッコよいが、実はまだ「占領時代」であった。そのうちの「ソ連」占領地域が「東ベルリン」であった。「東ベルリン」は「東ドイツ」の首都で、ホーネッカーが作った「ベルリンの壁」が米、英、仏管理地域「西ベルリン」との間に厳然とあった。ニュースでベルリンの壁を越えようとした「東ベルリン市民」が、「東ドイツ兵に射殺」された写真がときおり報道されていた。鉄条網に引っかかった血だらけ死体の映像は、見るたびに悲しさをこみ上げさせた。

 そういう時代であるから、いかに「東ベルリン一日訪問ヴィザ」がお金を払えばすぐ入手できる・・と言われても、「興味半分、怖さ半分」であった。それでも行ってみたいのが、「好奇心人間」面目躍如の筆者であった。

 当時、「東ベルリン」への入り口は「C検問所」、つまりいわゆる「チェックポイント・チャーリー」であった。上の写真である。こちら側は特に兵は機関銃を持って立っているとかではなかったが、向こう側はコンクリート製の車止めがあり、12.7mm機関銃や大探照灯が「西側」を睨んでいる。こちらがわの看板は「あなたは今アメリカ区域を離れようとしています」と英、露、仏語で書いてあった。

 緊張しながら「向こう側」の検問所に向かって歩く。緩衝地帯は少しばかりの空き地になっている。隠れる所はどこにもない。そのまま歩いて、機関銃座右の粗末なオフィスに入った。中には制服を着た小太り中年のオフィサーが、ふんぞり返って手を出してパスポートを受け取った。「訪問の目的は?」「タダの観光です」 そのあと、その女性オフィサーはにっこり微笑んでスタンプをパスポートに押し、私たちに渡した。

 「ヴィーフィールコステット・・?」「ナイン!」彼女は巻き舌のドイツ語訛り英語でこう言った。「あなた達はオフィシャル・パスポートです。オフィシャルは手数料はいらないのよ」「ダンケ・シェーン!」こうしてタダで東ベルリンに入ることができた。

 当時の私たちのステータス「Extra chancellor of the Embassy of Japan」 は、大使館勤務の臨時職員の身分であったが、それでも社会主義国では「黄門の印籠」の様に万能であった。「労働者と農民の国」の社会主義の何かを見たような気がした。「官高平低」の権威主義である

 こうして意外に楽に「生まれて初めて社会主義国に入国」したのだが、周りの建物を見てあ然とした。依然、終戦直後のままの建物の壁には、当時のまま弾痕が残り、「昨年撃ち合いがありました」と言われても納得するような雰囲気なのであった。今来たばかりの西ベルリンとは雲泥の差であった
                            
http://konotabi.com/photoalbum/GER1985Berlin/EastBerlin.htm

                          
「ベルリンの壁」時代のブランデンブルグ門を「東側」から見る
 
 このように、復興めまぐるしい「西ベルリン」から入ると、「東ベルリン」は別世界のようであった。町並みも、人々の服装も、走る車と交通量も「戦争直後」といった様子と雰囲気であった。何となく風景がさびしい。

 スーパーマーケットがあったので入ってみた。案の定、室内は照明が暗く、品数は極端に少なく種類も少なかった。ソ連・カスピ海製「キャビア」があったので、土産に買ってみた。高くはなかった。というか、他に土産になる物があまり無かった。それほど「もの」が置かれてなかった。

 戦前、「ドイツ第三帝国」の首都だったベルリンは、「ヒトラーの威光」で町中が発展し、目抜き通り「ウンターデンリンデン通り」は大変賑わっていた。何かの映画でそういうシーンを見たことがあった。それを歩いてみたかったので、ブランデンブルグ門に向かって歩いていった。

 人々の服装は思ったほど粗末ではなかったが、質素の範囲内であったし、午後にしては人通りも少なかった。それでもさすが目抜き通りらしく、裏通りにあったような弾痕などは修理してあった。建物もきちんと修理され、ピカピカではなかったが落ちついた町並みになっていた。

 朝に「入国」ゲートをくぐってから、写真を撮りながら博物館島などに行き、ここまで緊張して歩きずくめだったので、いささか空腹になっていた。「門」が近くになったので、「もう安心」とレストランを探した。たまたま目に付いた店があった。人が5,6人並んでいた。しばらく並んでそこに入ろうとすると、ボーイがでてきて私たちをじろっと見た。

 「ツヴァイ」(二人です)と私が言ったら入れてくれた。「よかったね。食べられそうだ。」そこに中国人だろうか、アジア系で身なりが質素な数人が入ろうとしていた。ボーイは「だめだめ、もう店は閉めた。入れない。」とドイツ語で言った。アジア系はドイツ語が分からないのか、「入れて入れて」という感じで押し問答になった。そういうやりとりが数分あってから、ボーイがバタンとドアを閉め、カギをかけて、ブラインドを下ろした。

 私たちは幸い入れた方であったが、そのやりとりを見ていて何となく感じが悪かった。ボーイの態度も横柄であったが、それよりなぜ彼らを入れなかったのだろうか?席は半分くらいしか埋まっていなかったのだ。それではなぜ?「何か差別なんだろうか?」「中国人だったら同じ社会主義同士なのに・・」私たちはしばらく話していた。社会主義国でも公然と差別はあったのだろうか?理由は二十年以上たった今でも分からない。

当時の詳しい写真は:
http://konotabi.com/photoalbum/GER1985Berlin/EastBerlin.htm

(この文章はオーナーのブログ、「このたびのたび」ブログから転載しました)


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