1 関西国際空港で会った在日韓国人の老婆

         関西国際空港と連絡橋 


「お婆さんもクアラ・ルンプールですか?」私は声をかけていた。2時間も先の便なのに、あまりに早く来すぎて、搭乗口前の待合室には、その老婆以外にはだれ一人いなかった。色黒で地味な外見の老婆が、たったひとりで荷物をいっぱい両脇にかかえて、所在なさげに待つ姿は、独特な雰囲気があった。
「いんや、ウチはプサンや。」
「あれ!ここはプサン行きだったかなあ。」 

と掲示板を見ると、何とプサン行きは2時間後の私の便よりさらに30分後の便である。老婆は使い古した鞄から飴の袋を取り出し、口に運んでいた。
「ひとつ、どや」と私にすすめる。 
それでも何となしに天気の話をしていたら、いつの間にか老婆は自分の話を始めていた。彼女はいわゆる「
在日韓国人」であった。李順明さん(仮名)といった。彼女の話をまとめると、次のようであった。
 
                                   
                           チェジュのトルハルバン

・ 韓国のチェジュ(済州島)で生まれた             
・ 娘時代に日本に渡ってきた
・ 学校は韓国でも日本でも きちんと行っていない
・ そのため韓国語も日本語も 少ししか読めないし書けない (話すことは十分できる)
・ 見せてもらったパスポートは 大韓民国のものである
・ 今は大阪市内に家を持っている
・ 子供は6人いる 一人で育ててきたが 今はいずれも成人している
・ 旦那は腰を痛めて働けないので ずっと旦那の面倒を見てきた

「故郷はチェジュなのに、どうしてプサンなんですか」
と聞いてみた。
彼女の日本語は決して流暢ではないし、男言葉が混ざる。たくさんの荷物はどうやら故郷の一族への土産らしい。
「わたしのねえさんがプサンいるよ」
「ねえさんあってからチェジュかえるよ」
「チェジュはまわり海で、山がいっぱいある」
「オヤ死んだらチェジュもいきにくうてな」

似た話は日本でもある。兄弟の代になったら、実家には行きにくいと言う意味である。
「この手みてんか。この手で6人そだてたよ」
いきなり、しわしわでささくれ立ったすすんだ色の手を見せる。なるほど、使い込んだ手である。

 彼女は若いときから
海女をしていて、30年以上潜っていたそうだ。乳飲み子や幼子を子守さんにあずけて、金がもらえるところを渡り歩いたという。今までにいった地名を聞くと、日本の主な港町の名がでてくる。特に伊豆半島と紀伊半島が多いようだ。  

         海女(アマ)の仕事 

「なんども海で死にかかったよ」 と遠くを見る目つきでいった。
「チェジュも海で、海がすきやから」苦しい仕事でも続けられたという。
私のように子育ての経験がないものでも、働きながら「
仕事の出来ないダンナ」と6人の子を育てるのは、大変なことぐらいは容易に想像がつく。
「体よくないで、海女やめたんよ」
「きついがね」

彼女の言葉には、いろんな地方の方言も混ざる。こうして彼女は30年続けた海女をやめ、土木作業や道路工事の現場に移った。
「男だけの現場で働くのはしんどかったでしょう?
と聞くと、意外な言葉が返ってきた。
「海女の時より働きやすいよ。好きだね。」              
「はっ?」


 彼女の言葉をまとめると、こうである。
飯場や現場は、地方出身の出稼ぎ者が多い。男たちは仕事が済むと、宿舎で賭事をするか、酒を飲みに行くか、パチンコをするらしい。そうなると、仕送りの分を引いてしまえば、現金はあまり手元に残らないという。李婆(小母)さんはそんなアライ使い方はしないから、小金を持っている。男たちは彼女に頭を下げて、金を借りに来る。そうなると、男たちは親切になるのだと、彼女は言う。面倒見のいい彼女に、故郷にいる母や妻をダブらせたのかもしれない。
 
「私はオトコなんかにマケンよ」
と胸を張る。決して大柄ではない、いやむしろ小柄な方の痩せ気味の女性である。その彼女が、オトコに混ざって同じ仕事を同じようにやり、決して手を抜いたことはないという。 
「オンナのにそこまでようがんばるのう!」
「たいしたもんじゃ」

行く先々で何度もなんどもいわれたという。それがまた励みにもなったのか。
「オトコがナンボのもんじゃい!」 
急に彼女は、ドキッとする言葉を出した。思い出しながら話していたら、どうも辛かったことを思い出したらしい。くわしくは言わなかったが、しかしその言葉は、彼女が働いていた間、ずっと何十年も心の中で持ち続けていた言葉ではなかったのか。私にはそう思えた。
「在日韓国人」で病気がちの男と食べざかりの6人の子供をかかえたの「在日韓国人」女性は、「オンナ」を出してはやっていけなかったのだ。

                           

 私は彼女との会話中、ずっと聞こうか、聞くまいかと思っていた質問を出してみた。      
「ところで、日本へ来てからいじめられたり、差別されたことはありませんか?」
「ないよ」
「はっ?」「本当にないんですか?」

と私は念を押す。
「在日」は差別されている−というステレオタイプの先入観を持っていた私は、肩すかしを食った格好になった。
「ああ、いちど、こどもがなんかいわれて、もんくいいにいったらそれですんだよ」
とケロッとしている。私は拍子抜けしたが、また安堵もした。

 それからもうひとつ、もう八十路に手が届くという老婆に聞いてみた。
「故郷に帰って、残りの人生を暮らしたくありませんか?」
「ぜんぜんないよ」
さらりと言った。
「いえがある、こどもがいる、まごがいる、それから日本がすみやすい」と。
考えてみれば、人生の大部分を日本で過ごしたのだ。そして大切なものはほとんど日本にある。故郷の空気、水、風景よりも今いるところ−大阪が良いと、躊躇なくいった。
 
 これがすべてとは言わないが、「在日」の人たちの考え方の一端に触れたような気がした。民族としての意識、誇りはあるにしても、まずは「生きるため」の日本の生活があり、そして過ごした長い日本での時間は、すでに日本を一種の「故郷」のようにしたのではないか。これが二世、三世ならなおさらであろう。以前に「ハングル語(韓国・朝鮮語)」が苦手な、または日本語しか喋れない二世、三世も多い−と聞いたことがある。

 いま日本では、在日外国人の選挙権や公務員採用問題、学校制度などが問題になっているが、「帰化」しない限り日本のパスポートをもらえない現実は、不合理ではないのか。これらの問題は、
1910年の日本の「韓国併合」から始まったのだ。政治家はもっと前向きに、この問題に取り組まなければいけないような気がした。現在ドイツは労働者不足もあって、外国人をたくさん入れようとしている(入れてきた)。然るに、日本で生まれても、何十年日本に住んでも「外国人」−とする日本の「島国根性」は、いつまで続くのだろうか。

 そうこうしているうちに、機内搭乗開始のアナウンスが始まった。
「ところで、アンタはどこへいくんや?」
「マレーシアのクアラ・ルンプールです。そのあとロンドンです。」
「フーン?!」 

彼女はそれがどこなのか、どうもよく分からないらしかった。
「どうぞお元気で。話をして下さってありがとう」
「アンタもなあ、サイナラ」

私は急ぎ足でゲートへ向かった。           

                                                                               
       韓国全図(プサンは右下慶尚南道)