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DAY 5 トカイから古都エゲルへ

写真:古都エゲルの公園内の落葉の散歩道







●トカイにて

 早朝に目が覚めた 静かな田舎の村だが、少々寒くてトイレに起きたのだ。秋も深まっていたのだが、外の景色は明るかった。そこでカメラをもって散歩と洒落た。しかし歩いても誰とも出会わない。

 寂れてはいないが、質素で簡素な町並みである。石畳の坂を上がると路地は行き止まりになり、その上の丘は紅葉でいっぱいである。家々の台所からは、朝食の美味しい香りが漂っている。こういう村でしばらく過ごすのも良いなと思う。

 しかしその閑静さもオフだけの話で、夏・秋のシーズンには、世界中から「世界三大貴腐ワインの里」に観光客がやってくるのだ。観光バスも村の狭い通りに溢れるだろう。


●トカイ駅にて

 重いリュックを担いで、歩いて村はずれの駅に向かった。始めは村内のバス停に立っていたが、待ってもバスはなかなか来なかった。平日のトカイ駅の朝は、近くの町への通勤者と学生たちだけが列車を待っている。この時期、この時間にいる観光者はいない。

 しかし待っても待っても列車は来ない。「乗り遅れてないはずだが・・・」次第にイライラしてくる。とうとう近くにいた女学生に訊いた。「十分、二十分の遅れは普通」だという。平然としている。日本のJRの時間が正確なこともあるが、やはり日本人、特に私は「せわしない人間」なのだろうか。列車は14分遅れで到着。0902トカイ発。



ハンガリー国鉄路線図(部分)


地図中の都市名:●トカイ●ミシュコルツフゼシャボリー?(読み方不明)●エゲル


ミシュコルツ駅にて乗り換え 
 
 
次のミシュコルツに1000着。ここはハンガリー第三の都市で、社会主義時代からの工業都市で、城以外は見所はなさそうだ。

 駅そのものはかなり立派な外見で、まるで小振りな東京駅の映画撮影用セットのようだ。市街電車はドイツの町を走っている電車に類似し、先頭部が丸くなっている。

 





次のFuzesabory駅舎内レストラン
 (大衆食堂)で昼食


 エゲル行汽車乗り継ぎの時間が少しあったので、駅舎端にあった庶民的な大衆食堂に入った。そこの椅子やテーブルが昭和30年代日本の食堂の物に近かった。何となく懐かしい。そこのおばさんもチョー庶民的だ。

 英語のメニューがなかったので、一人の老人が食べていた物を指さすと、左写真のパンとスープが出てきた。それに「ビール、ビアー」は通じたので一杯頼んだ。トマト・スープの味はトマト味そのもので深みはない。それでも、体は芯から温まった。寒い時はやはりスープだ。たいへん安い食事だった。この国は西ヨーロッパから言うと、物価が安いのがうれしい。これからはヨーロッパ旅の穴場は東ヨーロッパであろうか。





●エゲル行きの列車に乗り遅れる!


 食事の後、列車時刻と番号を確認してホームに戻った。1230の列車はまだ入ってこない。人も少ない。ふと見ると、二つ向こうのホームから電車が出てゆく。「あれっ」と思い確認すると、それが目当てのエゲル行きだった。やれやれ!

 実はホームが変更になって、放送があったらしいのだが、ハンガリー語だけで分からなかった。次の1304発までぶらぶら歩いて時間をつぶすことになった。掲示もあったのだろうが、これまた分からなかった。もうすぐEUに入るのだったら、せめて英語もいっしょに書いてやってくれよな!。









エゲル駅で老婦人に声を掛けられる

 1304発の電車は1421にエゲルに到着。写真のような質素な駅で、まわりも工場と住宅のような鄙びた場所だ。この線は日本でいうと、房総半島や伊豆半島を回る田舎の線路のようで、しかもここで行き止まりになるローカル線である。

 荷物を担いで乗客が行く方向に歩いていたら、「ハロー」と後ろから声がかかった。振り向くと小柄な老婆がニコニコとついてきた。比較的聞き取れる英語で、「今晩のホテルは決まっているの?」と訊く。「いいえまだ」「では私のアパートに泊まりませんか?食事なしで3000FTでどうですか?」これは日本円で2100円位だ。日本だったら絶対安いが、物価が安いここの相場ではどうだか?

 私の表情を読みとったか、「これは相場ですよ。他所も同じです。何ならいっしょに来て部屋を見てから決めても良いですよ」という。それなら断れるから行ってみるか-といっしょに歩き出した。










古都・エゲルの秋














エゲルの老婦人の家へ

 しかし、もう一つ「心配」があった。それは私が臆病というだけでなく、「犯罪がらみ」という懸念だった。「不用心について行ったら、金を脅し取られた」というケースは特に一人旅で起こりやすいという話はよく耳にする。

 その不安な表情を察したのか、ばあさんはこう言った。「私は学校の教師をしていました。主人は医者でしたが、もうかなり前に死にました。私の年金だけでは生活は苦しいんです。だからこうして部屋を貸して、生活代に充てているのです。」私も元同業、もうそこまで聞いたら、行くしかなかった。


 写真のような公園を横目で見ながら、社会主義時代からあったような古いアパート群に到着した。階段下入り口の鍵を開け、階段を上がってまた部屋の鍵を開けた。なるほど安全だ。部屋の中も新しくてきれいというのではないが、掃除は出来ている。

 「これも使って良いよ」「このスイッチは・・・」と丁寧に説明してくれた。変な男も奥から出てこないし、まあ旧市街まで歩いて行けそうだし、「ではお願いします」ということになった。

 前の町トカイで貴腐ワインをかなり買って、背中の荷物は30kg弱にはなっていた。肩が怠い。それを置いて身軽になった私はカメラだけもって、旧市街探検に出掛けた。

 なるほど「学校の遠足地にもなる古都」と言うだけあって公園が多く、紅葉も真っ最中、城は威厳を持って丘に鎮座していて、町のどこからでも見られる。公園はホントに紅葉の真っ最中で、温暖化の進む日本の遅い秋では、このような鮮やかな色にはならなくなった。思わずシャッターを立て続けて押しまくった。




トルコによるミナレット








東方の古都・エゲル









エゲル城下のイスラムのミナレット(尖塔)

 「今宵の宿」から旧市街に向かって秋色いっぱいの公園小径を歩くと、いろんな人に出会う。ベビーカーを押す若い婦人、本を抱えた学生、杖を突いたゆっくり足の老人、それが当たり前の日常のひとこまである。学生以外の足どりはスローである。

 フトコロが心細くなったので、銀行で換金する。OTK-BANKでは今までで最高の換金率であった。田舎の方がレートが良いのだろうか?
Euro100T/C=24563Ft(=eqvlt.JPY¥15000)

 小径に沿ってプールや温泉の建物も繋がる。少し広めの通りを横切ると、市街部に入るが、それでもケバケバしい物はひとつもない。左手にある大きな教会や市庁舎、大きな広場を横目で見て橋を渡る。

 かなり大きな城壁の城下まで行くと、中規模の広場がある。そこの真ん中に、左写真の様な環境に違和感のある高い石塔があった。「違和感」というのは当然、これだけがイスラム教の「建物」である。そのむかしオスマントルコがここを占領し、建てた塔である。今も入場料を払って、直径1mくらいの内部螺旋階段をゆっくり上がることが出来る。

 塔は高いが、もちろん城壁よりは低いので、思ったほどは見晴らせない。上の展望部には5人くらいしか出られない。トルコの時代は、ここから一日5回くらいはアッザーン(コラーンの詠唱)が流れていたのだろう。

 暗くなりかけたので、家路についた。小さな旧市街なので、道も覚えやすい。街路灯は少な目で、懐中電灯があったほうがいい。


エゲル第一夜の夕食はポーク・ステーキ

 宿が素泊まり民宿なので、外食しかない。普通だったらもっと倹約した食事、例えばスーパーでパンとフルーツ、ミルク、ヨーグルトを買い、朝は部屋で食べるのだ。訪問地第一夜なので、少し奮発した。以前の「ロンドンへの旅」では一週間レストランには行かず、ホットドッグばかりを食べていた。

 「イギリスの食事は最低」というのが世界での定評だが、安い「食い物」には「イケテル」ものもあるのだ。それは私のような「貧乏旅行者」にしか分からない。





個人情報保護のため写真は意識的に縮小してあります

エゲル民宿の老婦人と

 宿の老婦人はホントの質素な生活をしているらしい。備品、調度品もご主人が生前使っていた物らしく使い込んでいる。

 私も話し好きな方なので、彼女の食後に「話して良いですか?」と居間を訪問した。さすが元教師だけあって、話は進んだ。

 
老婦人との話

 
 
  

   












DAY 6 エゲル城とワインの「美女の谷」
 
 
  


DAY 4 

 
 
  


DAY 7 

 
 
  

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「新婚時代」と思しき写真
ご主人の優しいまなざしと彼女の愛情を含んだ表情が素敵であ
 
 老婦人はかなり前に教師を辞めたらしい 定年は聞かなかったが、日本と同じ感じである。「日本の年金は多いそうね」と彼女は言った。息子はブダペストかどこかで正業に就いているらしい。それでも一緒に住まないのは、やはり長年暮らした場所が良いのであろう。やはり私の95歳の伯母も、都会の一人娘の家を飛び出し、田舎の自分名義の家でのびのびと一人暮らしをしている。不便でもその方が良いらしい。

 彼女が見せてくれた写真(上)は、どうやら結婚して間がない時の物らしい。大事に額に入れて飾ってあった。思い出深い写真なのだろう。彼女も若くて素敵だし、ご主人はインテリそうで優しそうだ。「幸せの瞬間」という感じの写真である。彼は医者だったという。医者と学校教師の組み合わせの出会いは何だったのであろうか?彼女の英語はよく分かるが、細かいことは表現できなかった。たぶんロシア語ならもっと話すであろうが・・。

 彼女が過ごしてきた時代は、「ソ連」に支配されていた社会主義の時代である。この国の中高年は、大なり小なり「社会主義ソ連」の悪しき思い出を胸に生きてきたらしい。私たち中年以上の日本人でも知っている1956年の「ハンガリー動乱」(彼らは「ハンガリー革命」と呼ぶらしい)では、自由を求め、「ソ連」の意向に反して自分たちで国を動かそうとした。

 ソ連が直ちに戦車など軍隊で介入し、直ちに鎮圧された。この過程で数千人の市民が殺され、25万人が海外に亡命、または難民になって逃亡したといわれる。後に隣国チェコ・スロヴァキアでも、民主化運動「プラハの春」で、ソ連に大弾圧された。私の好きだった指揮者ユダヤ人・カレル・アンチェルもカナダに亡命した。そういう時代だった。

 私も訊きにくいことではあったが、あえて訊いてみた。このような田舎の町でもソ連軍戦車は来たらしい。「市内で撃ち合いがあった」と彼女は言った。社会主義から脱して自由を求める声は、全国的に起こったものらしい。彼女は「私も血まみれで死んだ人をたくさん見ました。つらい時代でした」と言った。ブダペストで親切にしてくれた別の老婦人は、この時アメリカに逃れ数十年を彼の地で過ごし、数年前に自由になった故郷に帰ってきたと言った。

 こういう人たちは、「自由とはある物ではなく、自分たちで勝ち取るものだ」と知っている。今の「平和ボケ」した日本人には、決して理解できないことである。そう言う意味では、日本人は幸せだが、未だに「平和や民主主義」について決して分かっているとは言えない。特に若い世代のいろいろな行動・言動は「亡国的」とさえ言えるかも知れない。

 彼女の話は「嫌な時代だったが、愛するご主人との精神的に満足な生活は忘れがたい」らしいものだったようだ。それに「愛の結晶」の子どもたちもいた。ご主人が亡くなって何十年にもなるが、上の写真を部屋のいちばん目に付く場所に飾っていることでも彼女の心が理解できる。今でもその思い出の中に生きているらしい。

 しかし社会主義が崩壊し、年金もわずかになり、不本意ながらこうして見ず知らずの「旅人」を我が家に泊めながら糊口を凌ぐ生活を送りながら頑張って生きている。それ以上の彼女の気持ちは、私の語学力では知り得なかった。ただこれまでに泊まった各国の旅行者たちの礼状と写真を見せて説明してくれる彼女は、意外に明るかった。これも元の職業と関係しているのだろうか?平和な今の時代、長生きして欲しかった。

 

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